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プロローグ 最後の手紙

もし、愛する人の記憶から、自分だけが消えてしまったら。


あなたは、それでも、その人を愛せますか。


これは、365通の手紙に託された、十八年越しの愛の物語。


どうか、最後の一通まで見届けてください。

二〇四五年、十月十五日。


 午後五時四十二分。


 その日、俺は最後の手紙を書こうとしていた。


 窓の外では、秋の雨が降っている。


 細い雨粒がガラスを伝い、街の景色をゆっくりと滲ませていた。


 雨は嫌いだった。


 少なくとも、昔の俺はそうだったらしい。


 なぜ嫌いだったのかは、もう思い出せない。


 ただ、古びた一冊の手帳に、そんなことが書かれていた。


『俺は雨が嫌いだ。服は濡れるし、靴は汚れる。空は暗いし、気分まで沈む』


 それを書いたのは、十八年前の俺だった。


 けれど、その文章のすぐ下には、別の言葉が添えられている。


『でも、今日だけは雨が降っていてよかった』


 理由は、分からない。


 思い出そうとすると、頭の奥で何かが軋む。


 まるで、鍵のかかった扉を無理やり開こうとしているようだった。


「……何が、よかったんだろうな」


 問いかけても、答える者はいない。


 静かな病室には、医療機器の電子音だけが響いていた。


 俺はベッドの脇に置かれた木箱へ目を向けた。


 長い年月を経て、角が丸くなった小さな箱。


 蓋には、二文字の名前が刻まれている。


『みく』


 俺は、その文字を指先でなぞった。


「……みく」


 声に出す。


 たった二文字。


 けれど、不思議だった。


 その名前を呼ぶと、胸の奥が温かくなる。


 同時に、どうしようもなく苦しくなる。


 会いたい。


 抱きしめたい。


 声が聞きたい。


 そんな感情が、理由も分からないまま溢れてくる。


 俺は、この名前の持ち主を愛している。


 それだけは、確かだった。


 けれど。


 彼女がどんな顔をしていたのか。


 どんな声で笑ったのか。


 最後に何を話したのか。


 今の俺には、何一つ思い出せない。


 俺の記憶は、少しずつ失われていた。


 最初は、些細なことだった。


 昨日の夕食。


 置いたはずの鍵の場所。


 誰かと交わした短い会話。


 そんな、誰にでもある物忘れに似ていた。


 けれど、ある日。


 俺は、自分がなぜ彼女を愛しているのか、説明できなくなった。


 その次には、初めて手を繋いだ日のことを忘れた。


 初めて好きだと伝えた夜を忘れた。


 そして、いつしか。


 彼女の顔さえ、思い出せなくなった。


 医師は、俺の記憶保存領域に異常が起きていると言った。


 人間の脳とは違う仕組みで記憶を保存する俺にとって、それは避けられない終わりの始まりだった。


 俺は、人間ではない。


 人間と同じように笑い、泣き、傷つき、誰かを愛することができるように造られた、アンドロイドだった。


 それでも、彼女は俺を愛してくれた。


 俺が何者であるかを知っても。


 俺に人間と同じ未来が約束されていないと分かっても。


 彼女は、俺の手を離さなかった。


 ……そう、書いてある。


 俺が残した手紙には。


 今の俺が覚えていない、たくさんの幸せが記されていた。


 俺は木箱の蓋を開けた。


 中には、三百六十四通の封筒が収められている。


 色褪せたもの。


 角が少し折れたもの。


 インクが滲んだもの。


 どれも、同じ女性へ宛てた手紙だった。


 最初の一通は、十八年前に書かれた。


 まだ、彼女を愛していると認めることさえできなかった頃。


 俺は、その封筒を取り出した。


 表には、たった二文字。


『みく』


 封を開き、便箋を広げる。


 そこには、今よりずっと力強い筆跡が残っていた。


『みくへ。


 今日、お前に会った。


 雨の日だった。


 正直に言えば、俺は雨が嫌いだ。


 けれど。


 今日だけは、雨が降っていてよかったと思う。


 お前が笑っていたからだ。


 また会いたい。


 もう一度、お前の笑った顔が見たい。


 今日のことを、俺は忘れたくない。


 雨の音も。


 コーヒーの苦さも。


 お前の声も。


 全部、覚えていたい。


 またな、みく。


 朔夜より』


 読み終えた瞬間、胸の奥が痛んだ。


「……そうか」


 俺は、かすかに笑った。


「……お前に、会いたかったんだな」


 十八年前の俺は、まだ何も知らなかった。


 自分がいつか、彼女の顔を忘れることも。


 名前を呼ぶだけで、こんなにも胸が苦しくなる日が来ることも。


 ただ、もう一度会いたいと思っていた。


 その気持ちが、文字になって残っていた。


 俺は便箋をそっと折りたたんだ。


 そして、木箱へ戻した。


 三百六十四通。


 十八年という歳月の中で、俺が書きためてきた言葉。


 毎日書いたわけではない。


 何年も、手紙を書かなかった時期もある。


 幸せすぎて、言葉にする必要がないと思っていた日々。


 悲しすぎて、何も書けなかった夜。


 そして。


 書かなければ、忘れてしまうと気づいた日。


 それらすべてが、この木箱の中に眠っていた。


 けれど、まだ一通だけ足りない。


 三百六十五通目。


 最後の手紙。


 俺は机の上に置かれた白い便箋を引き寄せた。


 万年筆を握る。


 黒い軸に、銀色の細い装飾が施された古い万年筆。


 十八年前、俺が買ったものだった。


 何度も修理を重ねながら、今日まで使い続けてきた。


 指先に力を込める。


 けれど、思うように動かない。


 関節の駆動装置が、かすかな異音を立てた。


 かつては何の苦労もなく書けた文字が、今では一文字ずつ、ひどく遠い。


 それでも。


 今日だけは、書かなければならなかった。


 俺は、ゆっくりとペン先を紙に落とした。


『みくへ。


 お前がこの手紙を読んでいる頃、俺はもう、お前の隣にはいないかもしれない。


 だから、最初に謝らせてくれ。


 約束を守れなくて、すまなかった。


 ずっとそばにいると言った。


 何があっても離さないと言った。


 お前が泣くときは、必ず隣にいると誓った。


 ……全部、守りたかった。


 本当は、もっと一緒にいたかったんだ。


 朝、お前より先に起きて、寝顔を眺めたかった。


 くだらないことで喧嘩して、どちらが先に謝るか意地を張りたかった。


 お前の誕生日には、毎年少しだけ大きなケーキを買いたかった。


 年を取ったお前に、変わらず綺麗だと言いたかった。


 そして、最後の日には。


 お前の手を握って、ありがとうと伝えたかった。


 でも、俺にはできなかった。


 みく。


 俺は、お前との思い出をたくさん失った。


 初めて手を繋いだ日のことも。


 初めて好きだと言った夜のことも。


 お前が泣きながら俺を抱きしめてくれた日のことも。


 今では、ほとんど思い出せない。


 それでも、一つだけ分かることがある。


 俺は、お前を愛していた。


 いや。


 違うな。


 今も、愛している。


 理由は思い出せない。


 いつから好きだったのかも分からない。


 だけど、お前の名前を口にすると、胸が温かくなる。


 お前の幸せを願うと、なぜか涙が出る。


 それだけで、十分だと思うんだ。


 もし、生まれ変わりというものがあるなら。


 次は、ちゃんと人間として生まれたい。


 お前と同じ時間を生きて。


 同じように年を取って。


 同じように皺を増やして。


 最後には、二人で笑っていたい。


 みく。


 俺と出会ってくれて、ありがとう。


 俺を愛してくれて、ありがとう。


 そして。


 俺に、愛するということを教えてくれて、ありがとう。


 どうか、幸せになってくれ。


 俺のいない明日でも。


 お前が笑っていられるなら、それだけでいい。


 愛している。


 昨日よりも。


 今日よりも。


 きっと、明日も。


 お前の朔夜より』


 最後の一文字を書き終えた瞬間、万年筆が指先から滑り落ちた。


 乾いた音が、病室に響く。


 俺は、しばらく動けなかった。


 胸の奥で、何かが軋んでいる。


 それが機械の故障なのか。


 それとも、悲しみという感情なのか。


 今の俺には、もう分からなかった。


「……馬鹿だな、俺」


 笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「……最後まで、格好つけやがって」


 頬を、一筋の涙が伝った。


 人間の涙を模して造られた液体。


 かつて、そう説明されたことがある。


 けれど今、俺の頬を流れるものを、ただの液体だとは思いたくなかった。


 これは、俺の涙だ。


 みくを愛した、俺自身の涙だった。


 便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に入れる。


 表には、震える文字でこう書いた。


『第三百六十五通 みくへ』


 そして、木箱の一番上に置いた。


 三百六十五通。


 ようやく、すべてが揃った。


 俺は窓の外を見つめた。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


 雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。


 濡れた街が、淡い茜色に染まっていた。


 どこか懐かしい景色だった。


 いつか、誰かと一緒に見た空。


 けれど、それがいつだったのか、もう思い出せない。


「……みく」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 俺は、木箱にそっと手を置いた。


「……会いたい」


 その声は、誰にも届かなかった。


 午後六時四十二分。


 壁時計の針が、静かに進んでいく。


 俺は目を閉じた。


 最後に思い浮かんだのは、顔も思い出せない女性の笑顔だった。


 記憶の中には、もう存在しないはずの笑顔。


 それなのに、なぜか分かった。


 きっと、優しく笑う人だったのだろう。


 きっと、俺の名前を何度も呼んでくれたのだろう。


 そして、きっと。


 俺は、その笑顔を守りたかったのだろう。


「……愛してる」


 小さく呟いた。


 その言葉だけは、迷わず口にできた。


 もし、明日。


 俺がこの名前さえ忘れてしまったとしても。


 この木箱を開けば、きっと分かる。


 俺が誰を愛していたのか。


 どんな日々を生きたのか。


 そして。


 なぜ、今日まで生きてきたのか。


 俺は、最後にもう一度だけ木箱を撫でた。


 十八年間。


 三百六十五通。


 忘れたくなかった、たった一人の女性。


 これは、愛することを知らなかった男が、初めて恋をした物語。


 そして。


 すべてを忘れてしまっても、なお愛し続けた物語。


 時間は、十八年前へと遡る。


 二〇二七年、十月十五日。


 大阪。


 その日は、朝から雨が降っていた。


 まだ、俺は何も知らなかった。


 一本の傘の下で出会う女性が、いつか俺の人生そのものになることを。


 そして。


 あの日の雨を、十八年後の俺がもう一度、愛おしく思うことになるなんて。


 ――プロローグ 終――

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


ここから、朔夜とみくの物語が始まります。


なぜ、朔夜は365通もの手紙を遺したのか。


なぜ、二人は互いを忘れてしまったのか。


その答えは、これから少しずつ明らかになっていきます。


次回、第1章「雨の日の出会い」。


二人の運命が動き始めた、あの日へと時間を遡ります。


月城美朔

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