第18話 君の手の温もりを、忘れたくない
二〇二七年十二月十二日、日曜日。
午前七時十八分。
目覚まし時計が鳴る前に、目が覚めた。
カーテンの隙間から、冬の朝日が差し込んでいる。
部屋の中は静かだった。
俺はしばらく天井を見つめていた。
昨日のことを、思い出していた。
十二月十一日。
みくが俺の部屋に来て、一緒にクリームシチューを作った。
温かい料理を食べて、何でもない話をして。
そして、帰り道。
俺たちは初めて、手をつないだ。
「…………」
俺は布団の中から右手を出した。
指を、ゆっくり開く。
昨日まで、何とも思わなかった手だった。
けれど、今は違う。
彼女の手を握った感触が、まだ残っている気がした。
柔らかくて。
少し冷たくて。
それでも、握っているうちに温かくなった手。
あのとき、みくは笑っていた。
『……手、つないでもいい?』
彼女がそう尋ねた瞬間。
俺は、自分の心臓の音が聞こえるほど緊張していた。
けれど。
その手を離したくないと思った。
もう少しだけ。
あと一分でも。
彼女と同じ温もりを感じていたかった。
「……何考えてるんだ、俺は」
小さく呟く。
誰もいない部屋に、声が消えた。
俺は右手を握りしめた。
そして、ゆっくり起き上がった。
*
午前八時四十二分。
キッチンでコーヒーを淹れていた。
湯気が立ち上り、部屋に香りが広がる。
いつもと変わらない日曜日。
いつもと同じブラックコーヒー。
それなのに。
カップを持つ右手を見るたびに、昨日のことを思い出してしまう。
「……重症だな」
思わず苦笑した。
たった一度、手をつないだだけだ。
それだけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて。
俺は、自分が思っていた以上に彼女を好きなのだろう。
その事実を、もう否定するつもりはなかった。
スマートフォンが震えた。
机の上に置いていた画面が明るくなる。
『朔夜、おはよう!』
みくだった。
俺はすぐに画面を開いた。
『おはよう、みく』
送信すると、間もなく返事が届く。
『昨日のシチュー、美味しかったね!』
『ああ。美味かった』
『また一緒に作ろうね!』
『もちろんだ』
いつもどおりの会話だった。
彼女の明るい言葉。
それに返事をする俺。
もう、何度も繰り返してきたやり取り。
けれど。
今日は、少し違った。
新しいメッセージが届いた。
『あとね』
俺は画面を見つめた。
数秒後。
『昨日、手をつないでくれて嬉しかった』
「…………」
指が止まった。
何度も、その文字を読み返す。
嬉しかった。
彼女も。
俺と同じように、嬉しいと思ってくれていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
返事を打とうとして、指を動かす。
『俺も』
そこまで入力して、止まった。
それだけでは、足りない気がした。
けれど、何と書けばいいのか分からない。
嬉しかった。
幸せだった。
離したくなかった。
全部、本当だった。
でも。
最後の言葉まで送ってしまったら、彼女を困らせるだろうか。
俺はしばらく画面を見つめた。
そして、ゆっくり文字を打ち直した。
『俺も嬉しかった。また、つないでもいいか?』
送信。
心臓が、少し速くなる。
返事が来るまでの数秒が、妙に長く感じられた。
やがて。
『もちろん!』
その下に、もう一通。
『次は私からつなぐね!』
「……そうか」
思わず笑ってしまった。
彼女らしい返事だった。
俺はスマートフォンを胸元に置いた。
窓の外では、冬の風が木々を揺らしている。
けれど。
今の俺には、その寒ささえ少し優しく感じられた。
*
午後零時三十六分。
近所のスーパーへ買い物に出かけた。
昨日のシチューが、冷蔵庫に少し残っている。
今日はそれを温め直して食べるつもりだった。
足りないものだけ買おうと思い、店内を歩く。
パン売り場の前で足が止まった。
みくは昨日、シチューを食べながら笑っていた。
『これ、パンにつけても美味しそうだね!』
その言葉を思い出す。
俺は食パンを一袋、かごに入れた。
そして、ふと思った。
今度みくが来たときにも、用意しておこう。
そう考えてから、自分で少し驚いた。
俺はいつから、何かを買うたびに彼女のことを考えるようになったのだろう。
食べ物を見れば、彼女の好き嫌いを思い出す。
温かい飲み物を見れば、彼女の笑顔を思い出す。
綺麗な景色を見れば、一緒に見たいと思う。
そして今は。
自分の手を見るだけで、彼女を思い出してしまう。
「……参ったな」
小さく呟いた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
彼女のことを考える時間が、俺の日常になっていくのが嬉しかった。
*
午後三時十四分。
昼食を終え、ソファに腰を下ろした。
温め直したシチューは、昨日と同じ味がした。
けれど、向かいの席には誰もいない。
昨日は、そこにみくが座っていた。
美味しいと言いながら、嬉しそうにスプーンを動かしていた。
俺は、空になった食器を見つめた。
たった一日。
昨日会ったばかりなのに。
もう、彼女に会いたいと思っている。
「……みく」
名前を呼んでみる。
当然、返事はない。
それでも。
彼女の名前を口にすると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
スマートフォンを手に取る。
メッセージを送ろうとして、止めた。
特別な用事はない。
話したいことも、今すぐ伝えなければならないこともない。
ただ、声が聞きたい。
それだけだった。
俺は画面を閉じた。
彼女にも、彼女の時間がある。
俺の寂しさだけで、その時間を奪いたくはなかった。
けれど。
いつか。
何でもないときに、気軽に電話できるような関係になれたら。
そんな未来を、少しだけ想像した。
*
午後七時二十八分。
夕食を終え、机の前に座った。
部屋の明かりが、静かな夜を照らしている。
俺は引き出しを開けた。
そこには、これまでの思い出がしまってある。
二通の手紙。
オムライスを作った日のメモ。
みくからもらった小さなカード。
どれも、大切なものだった。
俺は二通の手紙を取り出した。
一通目。
彼女と出会ってから、初めて書いた手紙。
二通目。
自分の恋心に気づいた夜に書いた手紙。
どちらも、まだ彼女には渡していない。
渡すつもりがないわけではなかった。
ただ。
いつ、どんな顔をして渡せばいいのか、分からなかった。
俺は手紙を机に並べた。
そして、しばらく考えた。
昨日、初めて彼女の手を握った。
今日、そのことを彼女も嬉しかったと言ってくれた。
それは、俺にとって忘れたくない出来事だった。
何年経っても。
たとえ、昨日のような鮮やかさが薄れてしまっても。
あの温もりだけは、覚えていたかった。
俺は引き出しから新しい便箋を取り出した。
ペンを握る。
白い紙を前にして、少しだけ迷った。
けれど。
今夜は、不思議と言葉が浮かんできた。
俺は、ゆっくり書き始めた。
*
――三通目の手紙。
『みくへ。
昨日、初めて君の手を握った。
あんなに小さな出来事が、俺の世界を変えてしまうなんて思わなかった。
君の手は、少し冷たかった。
けれど、握っているうちに、少しずつ温かくなった。
俺は、その温もりが嬉しかった。
君と歩いた道も。
冬の冷たい風も。
街の明かりも。
きっと、これから何度も思い出すのだろう。
君は今日、手をつないで嬉しかったと言ってくれた。
俺も、嬉しかった。
本当は、それだけじゃない。
あのとき。
もう少しだけ、君の手を握っていたかった。
もう少しだけ、君の隣を歩いていたかった。
けれど、そんなことを言ったら、君を困らせてしまう気がした。
だから、言えなかった。
俺はまだ、自分の気持ちを伝えるのが下手だ。
嬉しいことも。
寂しいことも。
君が好きだということさえ。
うまく言葉にできない。
それでも。
いつか、君に伝えたい。
君と手をつないだあの日が、俺にとってどれほど大切だったのか。
君の隣を歩けることが、どれほど幸せなのか。
そして。
俺が、どれほど君を愛しているのか。
今はまだ、この手紙を渡せない。
けれど、いつか。
君がこの手紙を読む日が来たら。
そのときは、笑ってくれるだろうか。
俺は、君の手の温もりを忘れない。
何年経っても。
何十年経っても。
君と初めて手をつないだ、あの冬の日を。
ずっと。
朔夜より。』
*
午後九時四十六分。
俺はペンを置いた。
三通目の手紙。
書き終えた便箋を、静かに見つめる。
少しだけ、胸が軽くなった気がした。
言葉にできなかった気持ちを、紙の上に残す。
それだけで、こんなにも落ち着くのか。
俺は便箋を丁寧に折り、封筒に入れた。
そして、引き出しの中にしまう。
一通目。
二通目。
三通目。
まだ、たった三通だった。
けれど。
俺にとっては、どれもかけがえのない手紙だった。
スマートフォンが震えた。
『朔夜、もう寝る?』
みくからだった。
『まだ起きてる』
『よかった!』
少しして、もう一通届く。
『今日は何してたの?』
俺は机の引き出しを見た。
三通目の手紙。
そこには、今日一日考えていたことが書かれている。
けれど。
まだ、秘密にしておきたかった。
『買い物に行って、昨日のシチューを食べた』
『いいなー!』
『みくは?』
『今日はお家でのんびりしてたよ!』
『そうか』
『ねえ、朔夜』
『何だ?』
『また手、つなごうね』
俺は、その文字を見つめた。
自然と、右手に視線が落ちる。
昨日の温もり。
今日、書いた手紙。
そして、彼女の言葉。
俺は、ゆっくり返事を打った。
『ああ。次も、俺の隣にいてくれ』
すぐに返事が届いた。
『もちろん!』
俺は小さく笑った。
彼女は、いつも簡単に俺を幸せにする。
たった一言で。
たった一つの笑顔で。
そして、たった一度の温もりで。
俺の日常を、少しずつ変えていく。
スマートフォンを置き、部屋の明かりを消した。
暗くなった部屋で、俺はもう一度右手を見つめた。
君の手の温もりを、忘れたくない。
いつか、この手紙を君に渡せる日が来るだろうか。
その答えは、まだ分からない。
けれど。
君と歩く未来を、俺は信じていた。




