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第17話 君のために、温めたいもの

二〇二七年十二月十一日、土曜日。


 午前九時四十二分。


 キッチンの棚を開けて、俺はしばらく考え込んでいた。


 鍋はある。


 包丁も、まな板も、食器も二人分。


 問題は、何を作るかだ。


 先週、みくは言った。


『また一緒にご飯作りたい!』


 あれから何度かメッセージを交わし、今日、俺の部屋で昼飯を作ることになった。


 料理は嫌いじゃない。


 ただ、みくと作るとなると、話は別だった。


 上手くできるかより、あいつが楽しめるかを考えてしまう。


 スマートフォンが震えた。


『朔夜、おはよう! 今日はクリームシチューが食べたい!』


「……今、決まるのかよ」


 思わず笑った。


『分かった。材料は買っておく』


『一緒に買いたい!』


 その返事を見て、俺は買い物かごを取り出しかけた手を止めた。


『じゃあ、駅で待ってる』


『うん! 楽しみ!』


 今日も、あいつは楽しみだと言ってくれた。


 俺もだ。


 今なら、その言葉をちゃんと返せる。


『俺も楽しみだ』


 送信してから、コーヒーを飲んだ。


 いつもより、少し美味く感じた。


     *


 午前十一時十八分。


 駅前で待っていると、みくが小走りでやって来た。


「朔夜、おはよう!」


「おはよう。走るな、危ない」


「だって、見つけたから!」


「……逃げねぇよ」


 そう答えると、みくは笑った。


 今日は淡い色のマフラーに、厚手のコート。


 けれど、両手は何もつけていなかった。


「手袋、まだ買ってないのか」


「うん。結局迷っちゃって」


「……そうか」


 先週見た、淡いピンク色の手袋を思い出す。


 俺はその話題を、それ以上続けなかった。


「買い物、行くか」


「うん!」


     *


 午前十一時四十六分。


 スーパーの野菜売り場。


「じゃがいも、入れる?」


「入れるだろ」


「いっぱい?」


「食べ切れる分だけな」


「朔夜、現実的!」


「当たり前だ」


 みくは笑いながら、じゃがいもを二つ選んだ。


 玉ねぎ、きのこ、鶏肉、牛乳。


 にんじんの前で、みくが足を止める。


「……これ、入れる?」


「嫌いなんだろ」


「覚えてたの?」


「ああ。野菜なのに甘いのが嫌だって」


 みくは目を丸くして、それから吹き出した。


「そんな言い方まで覚えてるの!」


「印象に残るだろ、あれは」


「じゃあ、今日は入れない!」


「了解」


 買い物かごの中に、にんじんは入らなかった。


 たったそれだけのことなのに、みくは嬉しそうだった。


 俺は気づく。


 好きなものを覚えるのも大切だ。


 けれど、嫌いなものを無理に食べさせないことだって、同じくらい大切なのかもしれない。


     *


 午後零時三十三分。


 俺の部屋。


「お邪魔しまーす!」


「……何回目だよ」


「ちゃんと言いたいの!」


 みくはコートを脱ぎ、手を洗ってからキッチンへやって来た。


「私、何したらいい?」


「じゃがいも、洗ってくれるか」


「任せて!」


 水の音がする。


 俺は玉ねぎを切りながら、隣に立つみくを見た。


 以前、一人でオムライスを練習していたキッチン。


 今は、二人分の声がある。


「朔夜、これくらいでいい?」


「ああ。ありがとう」


「……今、ありがとうって言った?」


「言ったけど」


「ふふ。なんでもない!」


 みくはまた笑った。


 俺は首をかしげながら、鍋にバターを落とした。


     *


 午後一時十九分。


 鍋の中で、白いシチューがゆっくり煮えていた。


 みくが蓋の隙間からのぞき込む。


「いい匂い!」


「まだ熱いぞ。顔、近づけすぎるな」


「はーい」


 返事だけは素直だ。


 皿によそい、パンと一緒にテーブルへ運ぶ。


「いただきます!」


「いただきます」


 みくはスプーンで一口すくった。


 少し冷ましてから、口に運ぶ。


「……おいしい!」


 その一言を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。


「よかった」


「朔夜も食べて!」


「俺も作ったんだぞ」


「でも、一緒に食べたいの!」


「……分かったよ」


 俺もスプーンを取った。


 確かに、美味かった。


 けれど。


 向かいにみくが座っているから、そう感じるのかもしれない。


     *


 午後二時四十七分。


 食器を洗い終え、俺たちは窓際で温かい飲み物を飲んでいた。


 外では風が強くなっている。


「ねえ、朔夜」


「ん?」


「今日、にんじん入れないでくれてありがとう」


「……そんなことで礼を言うなよ」


「そんなことじゃないよ」


 みくはマグカップを両手で包んだ。


「私のこと、ちゃんと覚えてくれてるんだなって思ったから」


 俺は返事を探した。


 覚えている。


 あいつの好きなミルクティーも。


 苦手なにんじんも。


 寒い日に、少しだけ肩をすくめる癖も。


 けれど、それを並べて言うのは、何だか違う気がした。


「……忘れたくないからな」


 口から出たのは、その一言だった。


 みくはカップを持ったまま、静かに俺を見た。


「……そっか」


「ああ」


「じゃあ、私も覚えておく」


「何を?」


「今日のシチューの味」


 みくは、いつものように笑った。


「あと、朔夜が私の隣で笑ってたこと」


 俺は目を伏せた。


 たぶん、今も笑っている。


     *


 午後四時五十八分。


 駅まで送る道は、昼間より冷えていた。


「さむっ」


 みくが袖の中に指先を引っ込める。


「……手、冷たいのか」


「ちょっとだけ」


 俺は足を止めた。


 先週、言えなかったことがある。


 手をつなぎたい。


 そう思いながら、何もできなかった。


 今日も、胸の奥が落ち着かない。


 けれど、黙ったまま後悔するのは、もう嫌だった。


「……みく」


「なあに?」


「手、貸してくれるか」


 みくが瞬きをした。


「……手?」


「ああ。嫌なら、いい」


 言い終える前に、彼女がそっと右手を差し出した。


「嫌じゃないよ」


 俺は、その手を取った。


 指先は思ったより冷たかった。


 力を入れすぎないように、ゆっくり握る。


「……あったかい」


 みくが小さく言った。


「そうか?」


「うん」


 俺たちは、また歩き出した。


 歩幅を合わせるのは、もう慣れている。


 けれど、今日は少し違う。


 つないだ手が離れないように、自然と歩く速さがゆっくりになった。


 俺は彼女の顔を見なかった。


 見たら、きっと何も言えなくなる。


 それでも、手は離さなかった。


     *


 午後五時二十六分。


 改札の前で、俺たちは立ち止まった。


 みくの手が、そっと離れる。


 指先に、さっきまでの温かさが残っていた。


「朔夜」


「……何だ?」


「今日は、すっごく楽しかった」


「ああ。俺もだ」


「シチューも、また作ろうね」


「……ああ」


 みくは少し迷ってから、続けた。


「あとね」


「ん?」


「手、つないでくれて嬉しかった」


 胸の奥が跳ねた。


「……そうか」


「うん。また、つないでもいい?」


 俺は彼女を見た。


 好きだ。


 そう言えたら、どれだけ楽だろう。


 けれど今は、別の言葉を選んだ。


「……俺からも、頼む」


 みくは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「約束ね!」


「ああ。約束だ」


     *


 午後九時二十八分。


 机の引き出しを開ける。


 二通の手紙。


 オムライスの日のメモ。


 みくからもらったカード。


 今日も、三通目は書かなかった。


 けれど、書き残したいことは増えていく。


 シチューの湯気。


 にんじんを見て笑った顔。


 差し出された、冷たい手。


 そして、離したあとも残っていた温かさ。


 スマートフォンが震えた。


『朔夜、今日はありがとう!』


『こちらこそ』


『次は私が何か作るね!』


『楽しみにしてる』


 少しして、もう一通届いた。


『また手、つなごうね』


 俺は迷わず返事をした。


『ああ。またな』


 画面を伏せて、窓の外を見る。


 冬の夜は、静かだった。


 いつか、君に好きだと言う日が来るのだろうか。


 そのとき、今日のことを思い出す気がする。


 大げさな言葉は、何もなかった。


 ただ、冷えた君の手を取った。


 そして君が、笑ってくれた。


 それだけで、俺の冬は少し温かくなった。


――第17話 終――

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