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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第二部 異国で生きる
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第九章 運命の出会い

春の訪れとともに、町は少しずつ活気を取り戻し始めていた。

戦争で崩れた建物はまだ多く残っていたが、人々は瓦礫を片付け、新しい暮らしを築こうと懸命に働いていた。

清子――。

いや、村では「李清華」と呼ばれる少女も十六歳になっていた。

幼かった顔立ちは少しずつ大人びて、細く長い黒髪を後ろで束ね、畑仕事で日に焼けた手には、これまで積み重ねてきた歳月が刻まれていた。

それでも、首にはいつも服の下に隠した小さなお守りがあった。

誰にも見せたことのない、日本と家族をつなぐ唯一の形見だった。

その存在だけが、清子の心の奥に、まだ帰る場所があるのだと静かに教えていた。


「町へ働きに行ってみないか。」

ある日の夕食時、秀蘭が静かに口を開いた。

清子は箸を止める。

「私が?」

思いがけない言葉に、胸が小さく跳ねた。嬉しさより先に、不安が喉の奥にひっかかる。

「畑だけじゃ食べていくのも大変だ。」

「町なら働き口があるかもしれない。」

戦後の生活は決して楽ではなかった。

畑で採れた野菜を売っても、二人が暮らしていくのがやっとだった。

清子もそれは分かっていた。

それでも、町へ出るということは、知らない人の中へ一人で入っていくことでもある。少し怖かった。けれど、秀蘭の言葉には、押しつけるような響きはなかった。

「……私、頑張る。」

自分でも驚くほど、声はまっすぐに出た。

秀蘭は優しく微笑んだ。

「無理はするんじゃないよ。」

「何かあったら、すぐ帰っておいで。」

その言葉が、母を失った少女には何よりも温かかった。

胸の奥がじんと熱くなり、清子は思わず視線を落とした。誰かに心配されることが、こんなにも救いになるのだと、そのとき初めて知った。


数日後。

清子は朝早く村を出た。

町まで歩いて二時間。

背中には小さな風呂敷だけ。

秀蘭が作ってくれた饅頭を大事に抱えて歩く。

道の途中、満開の野花が風に揺れていた。

「きれい……。」

思わず立ち止まる。

淡い色の花びらが朝の光を受けて揺れるたび、胸の奥まで春が入り込んでくるようだった。

昔なら、母にも見せたかった。

父なら「春が来たな」と笑っただろう。

そんな思い出が胸をよぎるたび、少しだけ寂しくなった。

けれど、その寂しさはもう、ただ痛いだけではなかった。思い出せること自体が、まだ自分の中に家族が生きている証のようにも思えた。

それでも前を向いて歩いた。

父との約束を守るために。


町は村とは比べものにならないほど賑やかだった。

市場では野菜を売る人の声が飛び交い、自転車が行き交い、子どもたちが走り回っている。

戦争の傷跡は残っていても、人々は確かに前を向いて生きていた。

その活気に圧倒されながらも、清子はどこかで胸を高鳴らせていた。自分もこの流れの中に入っていけるのだろうか。そんな期待と不安が、足取りを少しだけ重くする。

清子は何軒もの店を訪ねた。

「働かせてもらえませんか。」

だが返ってくるのは同じ言葉ばかりだった。

「人手は足りている。」

「また今度来なさい。」

断られるたびに頭を下げる。

笑顔を作る。

そして店を出ると、小さく息をついた。

「……難しいな。」

空を見上げる。

雲一つない青空だった。

それだけが少し救いだった。

明るい空の下で、何度も断られた悔しさが、かえって静かに胸へ沈んでいく。けれど、まだ帰るには早い。そう自分に言い聞かせて、清子はもう一度歩き出した。


昼を過ぎた頃。

町の郵便局の前を通りかかった。

赤茶色の建物の前では、郵便袋を抱えた職員たちが忙しく出入りしている。

一人の青年が、重そうな荷物を運んでいた。

「急げ!」

上司らしき男性が声を上げる。

青年は返事をすると、慌てて走り出した。

その瞬間だった。

積み上げられた郵便袋が崩れ、手紙が辺り一面へ散らばった。

「あっ……!」

青年は青ざめる。

清子は反射的に駆け寄った。

困っている人を見たら、体が先に動いていた。あとで考えれば、見知らぬ場所で不用意だったのかもしれない。それでも、散らばった手紙を前にした青年の顔があまりに切実で、見過ごせなかった。

「大丈夫です!」

地面へ散らばった手紙を一枚ずつ拾い集める。

青年も慌てて頭を下げた。

「すみません!」

「私も手伝います。」

二人は夢中で拾い続けた。

風が吹くたびに封筒が舞い上がる。

「あっち!」

「はい!」

自然と笑顔がこぼれた。

戦争が終わってから、こんなふうに誰かと笑い合ったのは初めてだった。

その笑い声はほんの短いものだったのに、清子の胸に温かく残った。知らない相手なのに、なぜか緊張がほどけていく。手を動かしながら、清子はその不思議な感覚に少し戸惑っていた。


ようやく拾い終えると、青年は深々と頭を下げた。

「本当に助かりました。」

「こちらこそ。」

清子も頭を下げる。

青年は柔らかい笑顔を浮かべた。

「僕は王邑黄です。」

「この郵便局で働いています。」

清子は一瞬だけ言葉に詰まる。

本当の名前は言えない。

胸の奥がきゅっと縮む。名乗るたびに、隠しているものが自分の影のように付きまとう。それでも、目の前の青年のまっすぐな視線は、責めるような色を少しも含んでいなかった。

「……李清華です。」

そう名乗るたび、胸の奥が少し痛んだ。

邑黄はその変化に気づくことなく、穏やかに微笑む。

「ありがとう、清華さん。」

その笑顔はどこか父に似ていた。

優しく、人を安心させる笑顔だった。

清子は思わず、その表情を見つめてしまう。懐かしさにも似た感情が胸をよぎり、知らないはずの相手なのに、ほんの少しだけ安心している自分に気づいた。


その日から、町へ出るたびに二人は顔を合わせるようになった。

「仕事は見つかった?」

「まだです。」

「そうか。」

邑黄は少し考え込む。

「もしよかったら、郵便局の掃除や荷物運びを手伝ってみない?」

「臨時だけど、人手が足りないんだ。」

清子は目を丸くした。

「私でもできますか?」

「もちろん。」

「真面目に働いてくれそうだから。」

その一言が嬉しかった。

戦争が終わってから初めて、自分を必要としてくれた人だった。

たったそれだけのことなのに、胸の奥がふわりと軽くなる。誰かに役に立てるかもしれない。その思いは、長く閉じていた心の扉をそっと押した。


数日後。

清子は郵便局で働き始めた。

朝早くから床を掃き、郵便袋を運び、机を拭く。

仕事は決して楽ではない。

それでも毎日が充実していた。

邑黄はよく声を掛けてくれた。

「重くない?」

「疲れてない?」

「無理するなよ。」

その優しさに触れるたび、清子は少しずつ心を開いていった。

最初はただの気遣いだと思っていた。けれど、何気ないひと言が重なるたび、そこにある温度が少しずつ伝わってくる。気づけば、清子は彼の声を聞くだけで、胸の奥が静かにほどけるようになっていた。

しかし同時に、心のどこかで恐れてもいた。

(私は日本人。)

(そのことを知られたら……。)

笑顔の裏で、いつも秘密を抱えていた。

優しくされるほど、隠しているものが重くなる。嬉しさと怖さが同じ場所にあって、清子はその揺れを誰にも見せないようにしていた。


ある日の帰り道。

夕焼けが町を赤く染めていた。

邑黄が隣を歩きながら尋ねる。

「清華さん。」

「夢ってある?」

突然の質問だった。

清子は少し考える。

夢。

そんなものを考える余裕など、今までなかった。

けれど、隣を歩く邑黄の横顔は、急かすことなく静かに答えを待っていた。その穏やかさに背中を押されるように、清子はゆっくりと息を吐く。

しばらく沈黙したあと、小さく笑った。

「平和に暮らしたいです。」

「毎日、ご飯が食べられて。」

「大切な人が笑っていて。」

「それだけで十分です。」

言葉にするほど、その願いは自分の中で確かなものになっていく。派手な夢ではない。けれど、失ったものが多かった清子には、それが何よりも遠くて、何よりも大切だった。

邑黄は静かにうなずいた。

「それ、いい夢だね。」

二人は夕焼けの中を並んで歩く。

まだ恋ではなかった。

けれど、凍りついていた清子の心は、少しずつ春の雪のように溶け始めていた。

その温もりは、すぐに名前をつけられるものではなかった。けれど、隣を歩く足音が重なるたび、胸の奥に小さな灯がともるのを、清子は確かに感じていた。

この出会いが、やがて夫婦となり、四人の子どもたちを授かる未来へつながっていくことを、二人はまだ知らなかった。

そして同時に、その幸せの裏側で、酒に溺れる邑黄という別の一面に、清子が苦しむ日々が待っていることも――。

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