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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第二部 異国で生きる
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第八章 隠された故郷

季節はゆっくりと移り変わり、満州の大地にも秋が訪れていた。

黄金色に色づいた畑を風が渡り、枯れ葉が土の上を転がっていく。

戦争が終わっても、人々の暮らしは元には戻らなかった。

家族を失った者。

故郷を失った者。

飢えに苦しむ者。

誰もが傷を抱えながら生きていた。

その中の一人が、幼い清子だった。


李秀蘭の家で暮らし始めて、半年が過ぎようとしていた。

朝はまだ暗いうちに起きる。

井戸で水を汲み、薪を拾い、畑へ向かう。

「清華、水を持ってきて。」

「はい、おばさん。」

そう答えるたび、胸の奥がきゅっと縮む。

清華。

それは今の自分に与えられた名前だった。

口にするたび、どこか遠くへ本当の自分が押し込められていくようで、喉の奥がひりついた。けれど、そう呼ばれなければ生きていけない。そうしなければ、ここでは息をすることさえ危うい。清子はそのたびに、唇の内側をそっと噛んだ。

中国語も少しずつ話せるようになっていた。

最初は言葉が分からず、村の子どもたちに笑われた。

発音が違う。

言葉遣いがおかしい。

「変な話し方。」

そう言われるたびに、耳まで熱くなり、顔を伏せた。笑われるのがつらいのではない。自分が日本人だと、ほんの少しでも気づかれるのが怖かった。胸の奥に隠しているものを見透かされるようで、背中に冷たい汗がにじんだ。

――日本人だと知られたら、どうなるのだろう。

その問いが、いつも心の底で鈍く鳴っていた。

夜になると、秀蘭が何度も言葉を教えてくれた。

「これは『ありがとう』。」

「謝謝。」

「そう、その調子。」

何度も何度も繰り返す。

失敗しても、秀蘭は怒らなかった。

「焦らなくていい。」

「言葉は心で覚えるものだから。」

その言葉に励まされ、清子は毎日少しずつ中国語を覚えていった。

けれど、覚えれば覚えるほど、胸の奥に別の痛みが積もっていく。

言葉を覚えることは、生きるために必要だった。

だが同時に、故郷の言葉を口にする機会が、ますます失われていくことでもあった。

日本語を思い出すたび、清子は胸の奥が締めつけられた。

「お父さん、お母さん……」

そう呼びたいのに、声に出せば誰かに聞かれる気がして、いつも飲み込んだ。飲み込んだ言葉は喉の奥に残り、熱を持って痛んだ。まるで、言えなかった分だけ心が少しずつ削られていくようだった。


ある日、村の子どもたちと一緒に畑で遊ぶことになった。

鬼ごっこをしながら笑い合う子どもたち。

清子も夢中になって走った。

転んで泥だらけになりながらも笑っていた。

膝に土がつき、手のひらが擦りむけてじんじんと痛んだ。それでも笑っていられたのは、その瞬間だけは何も考えずに済んだからだ。けれど、笑い声の中にいるほど、ふいに胸の奥が冷えていく。自分だけが違う場所から来たのだという感覚が、ふっと影のように差し込んでくるのだった。

そのとき、一人の男の子が尋ねた。

「清華、お前の父さんは何してるんだ?」

笑顔が消えた。

心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

「……。」

喉が塞がったように、息がうまく入らない。指先が冷たくなり、泥のついた手をぎゅっと握りしめた。聞かれたくなかった。けれど、いつかは聞かれるかもしれないと、ずっと怯えていた問いだった。

「母さんは?」

胸が苦しくなる。

言葉が出ない。

父と母の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。あの日の叫び声、土の匂い、冷たい風。思い出しただけで、足元がぐらりと揺れるようだった。ここで泣いてはいけない。泣けば、何かが崩れてしまう。そう思うのに、目の奥が熱くなっていく。

「いない。」

やっとの思いで答える。

その一言を口にした瞬間、胸の中で何かが裂けた気がした。いない、という言葉はあまりにも軽くて、あまりにも残酷だった。本当は、いないのではない。奪われたのだ。帰れないのだ。けれど、その真実を口にすることはできなかった。

「戦争で?」

小さくうなずく。

男の子は「ごめん」とだけ言って、それ以上何も聞かなかった。

その日以来、村の子どもたちは清子の前で家族の話をしなくなった。

その優しさが、かえって胸に痛かった。

気を遣われるたび、自分が見えない壁の向こうにいるようで、息苦しくなる。気づかれたくない。けれど、完全に隠しきることもできない。その狭間で、清子はいつも小さく身を縮めていた。

――私は、誰なんだろう。

李清華。

そう呼ばれるたびに、心のどこかが軋む。

水上清子。

その名を胸の奥で抱きしめるたび、今度は恐怖が押し寄せる。

名前を守りたい。

けれど、守るということは、誰にも見せずに隠し続けることでもあった。隠せば隠すほど、名前は自分の中で小さく、か細くなっていくようだった。忘れたくない。忘れてしまえば、本当に父と母が遠くへ消えてしまう気がした。


夜になると、清子は一人で庭へ出ることが増えた。

空を見上げる。

満天の星が広がっている。

冷えた空気が頬を刺し、息を吐くたび白く曇った。胸の奥に溜め込んだものが、夜の静けさの中で少しずつあふれそうになる。誰もいない場所でしか、清子は自分のままでいられなかった。

「お父さん。」

「お母さん。」

誰にも聞こえないほど小さな声で呼んでみる。

返事はない。

それでも毎晩、空へ向かって話しかけた。

「今日はね、お芋を掘ったよ。」

「中国語も少し話せるようになった。」

「秀蘭さんは元気だよ。」

言葉にするたび、胸の奥がじんと痛んだ。まるで、届かない相手に向かって必死に手を伸ばしているようだった。返事がなくても、話し続けなければ、自分が壊れてしまいそうだった。

「私、ちゃんと生きてるよ。」

そう言った瞬間、喉が震えた。

生きている。

その事実は、時に救いであり、時に重荷だった。自分だけが生き残ったことへの罪悪感が、夜ごと胸を締めつける。どうして自分だけがここにいるのか。どうして父も母もいないのか。問いかけても答えは返らない。だからせめて、空に向かって話すことで、見えない誰かに繋がっていたかった。

話し終えると、お守りを胸に抱き締める。

母の温もりだけは、まだ消えていなかった。

布越しに伝わる小さな感触に、清子は何度も救われた。これを失ったら、本当に何も残らない気がした。だからいつも、眠る前に確かめる。ここにある、と。まだある、と。指先で触れるたび、涙がにじみそうになるのを必死でこらえた。


冬が近づく頃だった。

秀蘭が古い木箱を掃除していると、一冊のノートが見つかった。

「使いなさい。」

そう言って清子へ渡す。

ページは黄ばんでいたが、まだ書ける。

「字を書いてごらん。」

清子は鉛筆を持った。

何を書こうか迷う。

紙の上に落ちる自分の影を見つめながら、手がわずかに震えた。書いてしまえば、そこに残る。残れば、消せなくなる。消せないものを持つことが、こんなにも怖いとは思わなかった。

そして、一文字だけ書いた。

『清』

自分の名前の最初の一文字だった。

その字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。たった一文字なのに、そこには父と母の声が、故郷の空気が、失われた日々のすべてが詰まっている気がした。清。清らかであれ、と願ってくれたのだろうか。そう思うと、目の奥がじんと痛んだ。

続けて『子』と書こうとして、手が止まる。

もし誰かに見られたら。

もし日本人だと知られたら。

秀蘭の言葉が頭をよぎる。

――日本人だと言ってはいけない。

その瞬間、背筋に冷たいものが走った。息が浅くなる。胸が苦しい。書きかけの文字が、まるで自分の秘密を暴こうとしているように見えた。

清子はゆっくりとページを破いた。

細かくちぎり、竈の火へ入れる。

燃え上がる紙を見つめながら、小さくつぶやいた。

「ごめんなさい。」

誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。

父と母にだろうか。

それとも、自分自身にだろうか。

あるいは、名前を守れなかった未来の自分に向けてだったのかもしれない。燃えていく紙を見つめる目が熱くなり、清子は唇を噛んだ。名前を残したいのに、残せない。覚えていたいのに、隠さなければならない。その矛盾が、幼い心にはあまりにも重かった。


その夜、秀蘭は火鉢の前で静かに話し始めた。

「清華。」

「はい。」

「故郷を忘れてはいけない。」

清子は驚いた。

胸の奥を見透かされたようで、肩がびくりと震える。

「でも、日本人だって言っちゃいけないんでしょう?」

声が少し掠れた。言いながら、自分の指先が冷たくなっていくのが分かった。隠していることを口にするだけで、罪を暴かれるような気がした。

「そうだ。」

「生きるためには隠さなければならない。」

秀蘭は少し間を置いて続けた。

「でも、忘れることとは違う。」

「忘れてしまったら、お前のお父さんもお母さんも、誰もいなかったことになる。」

その言葉は、清子の胸に深く染み込んだ。

誰もいなかったことになる。

その一言が、胸の奥で何度も反響した。忘れることは、生き延びるための裏切りなのではないか。けれど、覚えていることは、ここで生きる自分を苦しめ続ける。どうすればいいのか分からず、清子は膝の上で小さく拳を握った。

「心の中だけは、正直でいなさい。」

「誰にも言えなくても、お前は水上清子だ。」

その瞬間、涙があふれた。

堪えていたものが、堰を切ったように頬を伝う。声を上げて泣くことはできなかった。ただ、息を詰めたまま、肩を震わせるしかなかった。名前を呼ばれただけで、こんなにも苦しく、こんなにも救われるなんて知らなかった。

「……はい。」

小さく返事をする。

その夜、清子は久しぶりに自分の名前を心の中で何度も呼んだ。

(水上清子。)

(水上清子。)

忘れない。

絶対に忘れない。

たとえ誰にも呼ばれなくなっても。

たとえ中国名で生きることになっても。

父と母がくれた名前だけは、心の中で生き続ける。

その名を思うたび、胸が痛む。

それでも、痛みごと抱えていくしかなかった。名前は、清子にとって最後に残された故郷だった。誰にも奪わせたくない。誰にも汚されたくない。たとえ口にできなくても、心の中でだけは、何度でも呼び続ける。そうしなければ、自分が自分でなくなってしまう気がした。


それから数年。

少女だった清子は、少しずつ大人へと成長していく。

畑仕事にも慣れ、中国語も流暢になった。

村人たちも「李清華」という少女を受け入れ始めていた。

だが、その笑顔の裏で、清子は毎年八月になると一人で森を訪れていた。

父と母と別れた、あの日の場所。

草花を供え、静かに手を合わせる。

「今年も来たよ。」

「私、生きてるよ。」

声に出すたび、胸の奥が痛んだ。生きていることを伝えるたび、置いてきたものの重さが増していくようだった。それでも言わずにはいられなかった。ここに来るたび、清子は自分がまだ父と母の娘であることを確かめていた。

風が木々を揺らす。

その音は、まるで父が頭を撫でてくれているようだった。

清子は目を閉じ、空を見上げる。

「約束、守ってるから。」

父の最後の願い。

――生きろ。

その言葉だけを支えに、少女は異国の地で生き続けていた。

しかし、その運命は再び大きく動き始める。

十六歳になった清子は、働き口を探すため町へ出ることになる。

そこで、一人の青年との運命的な出会いが待っていた。

その青年の名は――王邑黄。

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