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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第二部 異国で生きる
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第七章 新しい名前

初老の女性は、清子の手をそっと握った。

その手はごつごつとしていて、畑仕事を長年続けてきた人の手だった。

温かかった。

母の手とは違う。

けれど、そのぬくもりに触れた瞬間、張りつめていたものがほどけるように、清子は声を上げて泣いた。

「お母さん……。」

女性は何も言わなかった。

ただ、泣きやむまで背中を優しくさすり続けた。

「もう泣いていいんだよ。」

中国語だった。

けれど、その声色だけは不思議と理解できた。


女性の名は、李秀蘭リー・シュウランといった。

戦争で夫を亡くし、一人で村外れの小さな家に暮らしていた。

自分にも娘がいた。

清子と同じくらいの年だった。

しかし数年前、病で亡くなっていた。

だからなのか。

道端で痩せ細った少女を見つけたとき、放っておくことができなかった。

「さあ、おいで。」

秀蘭は清子の小さな手を引いた。

清子は何度も後ろを振り返る。

森の入口。

あの道。

父と母がいるはずだった場所。

「帰ってきたら……。」

小さくつぶやく。

「私がいなかったら困るもん。」

秀蘭は立ち止まり、清子の目線に合わせてしゃがんだ。

「お父さんとお母さんは、お前に生きてほしかった。」

その一言に、清子は首に下げたお守りへそっと指を添えた。

父の最後の声が胸によみがえる。

――生きろ。

清子はゆっくりとうなずいた。

頬にはまだ涙の跡が残っていたが、それでも一歩だけ前へ進んだ。

その一歩は、もう二度と両親のもとへ戻れないことを意味していた。


秀蘭の家は、小さな土壁の家だった。

屋根は藁で葺かれ、雨漏りの跡がいくつもある。

家具も少なく、机と椅子、それに古い寝台があるだけだった。

裕福ではない。

それでも家の中には、人の暮らしの温もりが残っていた。

竈には湯が沸き、乾いた薪の香りが漂う。

「座りなさい。」

秀蘭は粥をよそった。

白い米ではない。

粟や雑穀を煮た薄い粥だった。

湯気が立ち上り、素朴な香りが鼻をくすぐる。

清子は両手で茶碗を包んだ。

熱かった。

口へ運ぶ。

その瞬間、目の奥がじんと熱くなる。

母が作ってくれた味噌汁ではない。

父が炊いたご飯でもない。

それでも、温かい食べ物を口にしたのは何日ぶりだろう。

「ゆっくり食べなさい。」

秀蘭は優しく微笑んだ。

清子は何度もうなずきながら食べ続けた。


夜になると、小さな寝台へ横になった。

屋根の隙間から月明かりが差し込んでいる。

静かな夜だった。

戦争が始まる前なら、この静けさに安心しただろう。

しかし今は違う。

静かなほど怖かった。

目を閉じると、父の叫び声が聞こえる。

「走れ!」

母の涙が浮かぶ。

爆発音。

銃声。

土煙。

「お父さん!」

思わず身を起こす。

息が苦しい。

体中が汗で濡れていた。

秀蘭は何も聞かず、隣へ座る。

「怖い夢を見たか。」

清子は声にならないままうなずいた。

秀蘭は娘をあやすように背中をさすった。

「ここは安全だ。」

その言葉を信じたい。

でも、心はまだあの日の森から動けずにいた。


数日が過ぎた。

清子は少しずつ秀蘭の手伝いを始める。

井戸で水を汲み、薪を拾い、畑の草を抜く。

仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。

だが、村人たちの視線は冷たかった。

「どこの子だ?」

「戦争孤児らしい。」

「日本人じゃないだろうな。」

その言葉に、秀蘭の表情が曇る。

家へ帰ると、静かに戸を閉めた。

そして清子の前へ座る。

「大事な話がある。」

真剣な声だった。


「今日から、お前は日本人だと言ってはいけない。」

清子は目を丸くした。

「どうして?」

「今、日本人だと知られたら、生きていけない。」

その言葉は重かった。

幼い清子には意味がよく分からない。

「私は日本人だよ?」

「そうだ。」

秀蘭は静かにうなずく。

「でも、そのことは胸の中だけにしまっておくんだ。」

「どうして?」

「戦争で、大勢の人が傷ついた。」

秀蘭は少し言葉を探した。

「日本を憎んでいる人もいる。」

「お前は悪くない。」

「けれど、子どもでも許されないことがある。」

清子は黙ってお守りに触れた。

母がくれた形見。

父と母は日本人だった。

自分も日本人だった。

それを隠さなければ生きられない。

幼い心には、その意味がまだ届かなかった。


数日後。

秀蘭は清子に中国名を与えた。

「今日から、お前は『李清華リー・チンホワ』だ。」

「清華……。」

清子は何度もその名前を口にした。

どこか自分ではないような、不思議な響きだった。

「でも……。」

「私は清子。」

その言葉に、秀蘭は優しく微笑む。

「お父さんとお母さんが付けてくれた名前は、誰にも奪えない。」

「だから、その名前は心の中で大切にしなさい。」

「外では清華。」

「心の中では清子。」

「それがお前を守る。」

清子は胸のお守りにそっと触れた。

(私は清子。)

(お父さんとお母さんの娘。)

何度も心の中で繰り返した。

忘れないように。

失わないように。

そしていつか、日本にいる弟と再会する日まで、この名前を胸に抱いて生きていこうと、静かに誓った。


その夜、清子は窓から夜空を見上げた。

満州の空は、日本へ続いているのだろうか。

海の向こうには、生き別れた弟がいる。

いつか日本で再会できる日が来るのだろうか。

その答えは誰にも分からない。

けれど清子は、小さな胸に一つだけ誓った。

(お父さん。)

(お母さん。)

(私は生きる。)

(どんなにつらくても、生きて帰る。)

(そして、いつか日本で弟に会う。)

少女はまだ知らない。

この異国の地で、運命の男性・王邑黄と出会い、新しい家族を築くことになる未来を。

そして、その長い人生が再び日本へとつながっていくことを――。

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