第六章 ひとりぼっちの少女
朝露が草の葉から静かに落ちた。
森の中はひどく静かだった。満州の朝は、澄んでいるのにどこか乾いていて、夜の冷えを残した土の匂いの上に、遠くで焦げたような煙のにおいがかすかに漂っていた。木々の幹には薄い霧がまとわりつき、葉の先には銀色の露が光っている。けれど、その美しさの奥には、昨夜までの砲火が残したざらついた気配があった。
昨日まで聞こえていた銃声も、爆発音も、今は遠くでかすかに響くだけになっている。時おり、どこかで折れた枝がぱきりと鳴り、風が葉を揺らす音が、やけに大きく耳に残った。
清子は大きな木の根元にもたれたまま目を覚ました。
人形を抱きしめた腕は冷たくなり、体は朝露で濡れていた。土は湿っているのに、空気はひんやりと乾いていて、頬に触れる風は草の匂いと、遠くの焼け跡の匂いを運んでくる。
ぼんやりと空を見上げる。
木々の隙間から青空が見える。高く、広く、どこまでも澄んでいるのに、清子にはその青さがとても遠く感じられた。
「……お父さん?」
返事はない。
「お母さん?」
静かな風が吹いただけだった。
昨日の出来事が夢だったらいいのに。そう思った。
けれど首には母が掛けてくれたお守りがある。胸に抱く人形もある。全部、本当に起きたことなのだ。
清子は立ち上がった。
足が痛い。膝には乾いた血がこびりついていた。草の葉に触れるたび、冷たい露が足首を濡らし、靴の中には細かな砂が入り込んでいた。
それでも、父と母を探さなければならない。
きっとどこかで待っている。そう信じていた。
昨日走ってきた道を、ゆっくり戻る。
道はもう道ではなかった。踏み荒らされた土は黒く湿り、車輪にえぐられた跡には水たまりができている。折れた木の枝、ちぎれた布、散らばった荷物が、朝の光の中で無残に転がっていた。風が吹くたび、誰かの紙片がかさりと鳴り、遠くでカラスのような鳥が低く鳴いた。
「お父さん!」
声を張り上げる。
返事はない。
「お母さん!」
森の中へ声だけが吸い込まれていく。湿った土と枯れ葉の匂いの中に、焼けた木材の匂いが混じっていた。どこかでまだ煙がくすぶっているのか、喉の奥が少し痛む。
少し歩くたびに立ち止まり、耳を澄ませる。
鳥の鳴き声。葉の揺れる音。それだけだった。
清子は何度も何度も名前を呼び続けた。
喉が痛くなっても。声がかすれても。返事はなかった。
「どこ……?」
幼い声は震えていた。
歩けば歩くほど、不安だけが大きくなっていく。踏みしめる土はやわらかく、ところどころに靴跡や荷車の跡が残っていた。道端には、誰かが落とした飯盒や、ひしゃげた鍋、破れた風呂敷が転がっている。昨日まで人の気配で満ちていたはずの場所が、今は抜け殻のように静かだった。
父は「振り返るな」と言った。母は「生きて」と言った。
どうして二人は来ないのだろう。どうして自分だけがここにいるのだろう。
その答えを、まだ受け入れることはできなかった。
昼近くになると、森を抜けて昨日の道へ出た。
そこには昨日までの景色はなかった。荷車は横倒しになり、荷物が散乱している。車輪は片方が外れ、土の上に転がっていた。布団や衣類は泥を吸って重くなり、風にめくれた布の端がぱたぱたと乾いた音を立てている。焦げた木箱の匂い、汗と土と煙の混じった匂いが、むっと鼻をついた。
誰かの靴。破れた着物。割れた茶碗。子どもの草履。誰のものかも分からない持ち物が、土の上に転がっていた。
清子はゆっくり歩く。
昨日、自分たちが休んだ木陰を見つけた。父が座っていた場所。母がおにぎりを取り出した場所。そこにはもう誰もいない。木の根元には、押しつぶされた草と、誰かがこぼした米粒が乾いて白く残っていた。
清子はしゃがみ込み、小さな石を握りしめた。
「お父さん……。」
昨日まで当たり前に聞こえていた声が、もう思い出せなくなる気がした。それが怖かった。
だから何度も心の中で父の声を繰り返した。
「清子。」
「よく頑張ったな。」
「大丈夫。」
忘れたくなかった。母の笑顔も。父の手の温もりも。何一つ。
日が傾き始める頃、遠くから話し声が聞こえた。
清子は思わず顔を上げる。
人の声。荷車のきしむ音。子どもの泣き声。風に乗って、かすれた中国語と日本語が入り混じって聞こえてくる。
「お父さん!」
走り出した。
しかし、そこにいたのは見知らぬ避難民たちだった。
年老いた夫婦。若い母親。小さな男の子。誰もが埃にまみれ、顔には疲れが張りついている。着物の裾は泥で固まり、荷物を背負う肩は痩せて骨ばっていた。誰も清子を知らない。
「一人なの?」
老婆が驚いたように尋ねた。
清子は小さくうなずいた。
「お父さんとお母さんは?」
その言葉を聞いた瞬間、清子の目から涙があふれた。
「……いない。」
「迎えに来るの。」
自分でもそう信じたかった。
老婆は何も言わず、清子を抱きしめた。その腕は母とは違う温もりだった。けれど、優しかった。汗と土の匂いがする、やせた腕だったが、そのぬくもりは、荒れた道の冷たさの中でかすかな火のように感じられた。
「一緒に来なさい。」
その一言に、清子は首を横に振った。
「待ってるの。」
「ここで待ってたら、お父さんたち来るから。」
老婆は困ったように空を見上げた。夕方の空は薄く赤く染まり、遠くの地平線には、まだ煙の筋が細くのびていた。何も言えなかった。
その日の夜も、清子は森の近くを離れなかった。
星が一つ、また一つと空に浮かぶ。昨日と同じ星空だった。けれど、下に広がる大地は昨日とはまるで違っていた。焼けた匂いが夜露に混じり、虫の声の合間に、どこか遠くで人の泣き声のようなものが風に流れてくる。
「お父さん。」
「お母さん。」
声に出してみる。
返事はない。
お腹が鳴った。昨日のおにぎり以来、何も食べていない。喉も渇いていた。乾いた風が唇をさらに荒らし、舌はざらついていた。
それでも、動く気になれなかった。
もし自分がここを離れたら、父と母が迎えに来ても会えなくなる。そう思うと怖かった。
人形を胸に抱き寄せ、お守りをぎゅっと握る。
「ここにいるから。」
「早く迎えに来て。」
幼い願いは、夜空へ溶けていった。
三日目の朝。
清子はもう声も出なくなっていた。
お腹が空きすぎて痛い。足にも力が入らない。それでも道を見つめ続けた。
朝の光は白く、冷たかった。露に濡れた草はきらきらしているのに、周囲には人の気配が薄く、風が吹くたびに枯れ枝がこすれ合って乾いた音を立てる。遠くでは、避難の列らしい人々の足音と、荷を引く牛の鈴の音がかすかに聞こえていた。
「……お母さん。」
かすれた声が漏れる。
そのときだった。
後ろから一人の初老の中国人女性が近づいてきた。
痩せた体に古びた服をまとい、大きな籠を背負っている。布は何度も繕われ、裾には土埃がこびりついていた。顔には深いしわが刻まれ、長い苦労を思わせた。けれど、その目は静かで、やわらかかった。
女性はしばらく清子を見つめ、小さくしゃがみ込んだ。
「ひとりかい?」
清子は答えられなかった。ただ、うなずくだけだった。
女性は荷物の中から小さな饅頭を取り出し、差し出した。湯気はもうない。けれど、ほんのりと小麦の匂いがした。
「食べなさい。」
清子は首を横に振る。
「……お父さんと、お母さんを待ってる。」
女性は静かに目を閉じた。そして、優しく言った。
「待つのはつらいね。」
「でも、生きていれば、また誰かに会える。」
その言葉に、清子は父の最後の声を思い出した。
――「生きろ。」
胸の奥が熱くなる。涙が止まらない。
清子は震える手で饅頭を受け取った。
一口かじる。温かくはなかった。それでも、その一口は命をつなぐ味だった。乾いた喉に、粉の甘さがゆっくりと広がっていく。
その日から、清子は「日本人の少女」ではなく、一人の「中国の孤児」として生きる道を歩み始める。
父と母の願いを胸に抱きながら。
そして、この先何十年も、自分が日本人であることを胸の奥深くに隠して生きていくことになる。
(第一部・完/第二部「異国で生きる」へ続く)




