第五章 別れの日
朝靄が森を覆っていた。
鳥のさえずりが聞こえるはずの朝だった。
けれど清子の耳に届くのは、人々のすすり泣きと、どこか遠くで鳴り続ける砲声ばかりだった。霧の向こうで何が起きているのか、清子にはよくわからない。ただ、空気がいつもより重く、父の手がいつもより強く自分の手を握っていることだけはわかった。
清子は父に手を引かれながら歩いていた。
昨日からずっと歩き続けている。
小さな足は靴擦れで赤く腫れ、踏み出すたびにひりひりと痛んだ。立ち止まりたくてたまらなかったが、「疲れた」と言えば父や母を困らせてしまう気がして、清子は唇をぎゅっと結んだ。
父も母も、清子よりずっと疲れているように見えたからだ。
父は口数が少なかった。いつもなら「もう少しだぞ」とか「よく頑張っているな」と声をかけてくれるのに、この日はただ前を見て歩いていた。握る手のひらは大きくて温かいのに、時々ふるえるように力が入る。そのたびに清子は、何か悪いことをしてしまったのではないかと不安になった。
母も同じだった。荷物を背負ったまま、何度も清子の顔を見ては、すぐに目をそらした。笑おうとしているのはわかるのに、口元だけが少し動いて、目は笑っていなかった。
清子には、その理由がわからなかった。
清子には、日本に生き別れた弟がいた。
満州へ渡る前、まだ幼かった弟は日本の親戚に預けられたまま、戦争の混乱で消息がわからなくなっていた。母は夜になると、その弟の名を小さく呼び、清子もまた、海の向こうで弟が泣いていないかを思いながら眠りについた。
「少し休もう。」
父は道端の木陰へ腰を下ろした。
その動きはゆっくりだったが、膝をつくときに一瞬だけ顔をしかめたのを、清子は見逃さなかった。母もすぐには座らず、まず周りを見回してから、ようやく荷物を下ろした。肩紐を外す指先が、いつもより固く見えた。
母は荷物の中から水筒を取り出し、ほんの少しだけ清子へ渡す。
「全部飲んでいいの?」
そう尋ねると、母は笑った。
「もちろんよ。」
けれど、その笑顔はすぐに消えそうだった。口角を上げるのに、少しだけ時間がかかっていたように見えた。
清子は水筒を両手で持ち、こくりこくりと喉を潤した。
冷たくはない。
それでも、とても美味しかった。乾いた喉に水がしみて、少しだけ安心した。
飲み終えると、母は空になった水筒を見つめたまま、ほんの小さく息をついた。清子はそのとき初めて気づいた。
(お母さん、自分は飲んでない。)
父も飲んでいない。
二人とも清子にだけ「大丈夫」と言って、笑ってみせる。けれど、その笑顔はどこか遠くて、見ていると胸の奥がきゅっと痛んだ。
清子は何か言おうとしたが、うまく言葉が出なかった。
昼頃になると、避難民の列はさらに長くなっていた。
荷車を押す人。
幼い子を抱いた母親。
老人を背負う青年。
誰もが無言で歩いている。話し声はほとんどなく、聞こえるのは草を踏む音と、荷物のきしむ音ばかりだった。清子はその静けさが怖かった。みんなが何かを我慢しているように見えたからだ。
突然、前方から叫び声が聞こえた。
「逃げろ!」
「ソ連軍だ!」
その瞬間だった。
パンッ――。
乾いた銃声が森に響く。
続いて何発もの銃声。
人々は悲鳴を上げ、一斉に駆け出した。清子には、何が起きたのかすぐにはわからなかった。ただ、みんなの顔が一瞬で変わったことだけは見えた。さっきまで黙って歩いていた大人たちが、急に泣きそうな顔で走り出す。
「清子!」
父が叫ぶ。
母が清子を抱き寄せる。
母の腕は細いのに、驚くほど強かった。清子の頭が母の胸に押しつけられ、着物の匂いと汗の匂いが混じって鼻をくすぐる。母の手は清子の背中を何度もさすったが、その手つきは落ち着いているようで、どこか急いでいた。
周囲はあっという間に混乱に包まれた。
泣き叫ぶ子ども。
転ぶ老人。
荷物を捨てて逃げる人々。
土煙が舞い上がり、何も見えなくなる。清子は母の着物を必死に握っていた。指先に布のしわが食い込み、離したら二度と会えなくなるような気がした。
「お母さん、怖い!」
「大丈夫、大丈夫だから。」
母の声も震えていた。
その震えが、清子には余計に怖かった。
突然、父が立ち止まった。
清子は引っ張られるようにして足を止める。父の背中越しに見えたのは、前方の橋が燃えている光景だった。黒い煙が空へ昇り、熱でゆらゆらと景色が揺れている。
「道がない……。」
父は辺りを見回した。
右には森。
左には浅い川。
後ろからは逃げ惑う人々。
父の目は何度も動いたが、どこにも答えはなかった。清子には、父が何を考えているのかはわからない。ただ、父の口元が固く結ばれ、いつもならすぐに伸びる眉間に深いしわが寄っているのを見て、ただならぬことが起きているのだと感じた。
その時だった。
父は母を見た。
二人の目が合う。
言葉はない。
それでも、清子にはわからないまま、二人の間に何かが通ったように見えた。母の顔から血の気が引き、次の瞬間、ほんのわずかにうなずく。そのうなずきは小さすぎて、清子には「うん」と言ったのかどうかもわからなかった。
母は唇を噛み、すぐにほどいた。
涙が目にたまっているのに、こぼさないようにしているようだった。
父は清子の前へしゃがみ込んだ。
その膝の動きはゆっくりで、まるで痛みをこらえているようだった。清子は父の顔を見上げる。いつもより近くにある父の顔は、土埃で少し汚れていた。頬には汗が流れ、口元は固く、でも目だけがやけにやさしかった。
「清子。」
「なあに?」
「お父さんのお話、ちゃんと聞けるか?」
こんな真剣な父の顔を見るのは初めてだった。
清子は何か大事なことを言われるのだと感じたが、それが何なのかはわからない。だから、ただ小さくうなずいた。
父は震える手で清子の頬を包んだ。
その手はいつもより冷たかった。指先が少しだけかすれていて、清子の肌に触れるたび、ざらりとした感触があった。父はその手で、まるで壊れものを扱うように、そっと清子の顔を支える。
「この先、何があっても生きるんだ。」
「え……?」
清子は意味がわからず、目を瞬いた。
「泣いてもいい。」
「苦しくてもいい。」
「でも、生きるんだ。」
どうしてそんなことを言うのだろう。
清子には、父の言葉の半分もわからなかった。生きる、というのは、今こうして歩いていることではないのか。泣いてはいけないのか。苦しいのは、もうすぐ終わるのではないのか。
三人で逃げればいいのに。
家へ帰ればいいのに。
幼い清子には、それしか考えられなかった。
父の顔があまりに真剣で、清子は少しだけ怖くなった。けれど、怖いと言えば父を困らせる気がして、ただ黙っていた。
母は首にかけていた小さなお守りを外した。
日本を出る時、自分の母から渡されたものだった。
母の指は細く、少し震えていた。紐をほどくとき、何度か結び目に引っかかり、そのたびに母は息を止めるようにしていた。ようやく外れたお守りを、母は両手で包み込むように持つ。
「これは、おばあちゃんの形見。」
母は清子の首へそっと掛ける。
その手つきは、遠い日本に生き別れた弟のことを思い出しているように、ひどく慎重だった。
紐が肌に触れたとき、清子はひやりとした。けれど、母の指先が首筋をなでると、少しだけ安心した。
「どんな時も、お母さんはここにいるから。」
「お母さんも付けてて。」
清子は泣きそうな顔で言った。
母は優しく首を振る。
「もう、お母さんより清子に必要なの。」
その笑顔は、とても優しかった。
けれど、清子にはその優しさが、どうしてこんなに悲しく見えるのかわからなかった。母は笑っているのに、目の端には涙がたまっていて、今にもこぼれそうだった。清子はそれを見て、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
再び銃声が近づく。
父は周囲を見渡し、森の奥を指さした。
「あの林を真っすぐ行きなさい。」
「嫌!」
清子は首を横に振る。
「一緒に行く!」
「嫌だ!」
父の服にしがみつき、泣きじゃくる。父の着物は土と汗で湿っていて、握るとざらざらした。離したくない。離したら、本当にひとりになってしまう気がした。
母も涙を流していた。
それでも二人は、清子を怖がらせないように笑おうとしていた。けれど、その笑顔はうまく形にならず、口元が震えるばかりだった。
「清子。」
父は娘を強く抱き締める。
その腕の中は広くて、いつもなら安心できるはずなのに、このときはなぜか苦しかった。父の胸が大きく上下し、心臓の音が早く打っているのがわかる。父は清子の髪に顔を寄せ、短く息を吐いた。
「お前は、お父さんとお母さんの宝物だ。」
「だから、生きなさい。」
その言葉の意味を、清子はまだよく知らなかった。
ただ、父がとても大事なことを言っているのだということだけはわかった。だからこそ、余計に怖かった。宝物なら、どうして離れなければならないのか。生きなさい、とは、どこへ行けばいいということなのか。
清子は答えられず、父の服を握る手に力を込めた。
その言葉は、父が娘へ残した最後の願いだった。
突然、近くで爆発音が響く。
清子はびくりと肩を震わせた。次の瞬間、父は清子を抱き上げ、そのまま森の中へ向かって力いっぱい押し出した。
「走れ!!」
「振り返るな!!」
清子は地面に足を取られ、転びそうになりながら走る。
「お父さーん!」
「お母さーん!」
何度も叫ぶ。
何度も振り返ろうとする。
けれど、そのたびに父の声が背中に飛んできた。
「走れ!」
「生きろ!」
涙で前が見えない。
足はもつれ、何度も転んだ。膝が土にぶつかって痛かった。手のひらも擦りむけた。それでも清子は立ち上がった。父の声がまだ聞こえる気がしたからだ。振り返ってはいけないと言われたのに、どうしても二人の姿を見たくて、何度も首を回しそうになる。
けれど、見えない。
煙と木々と涙で、何も見えない。
それでも走った。
父との約束を守るために。
やがて森の奥までたどり着いた。
息を切らしながら振り返る。
もう両親の姿は見えなかった。
聞こえるのは遠くの銃声だけ。
「お父さん……?」
「お母さん……?」
返事はなかった。
静かな森に、自分の泣き声だけが響く。木々は何も言わず、風だけが葉を揺らしていた。清子はその場に膝をつき、人形を胸に抱きしめた。
「迎えに来て……。」
声はかすれて、小さかった。
幼い少女は、何時間もその場で待ち続けた。
夕日が沈んでも。
空に星が浮かんでも。
足はしびれ、喉は乾き、涙ももうあまり出なくなっていた。それでも清子は動かなかった。父が「生きろ」と言ったのだから、ここで待っていればきっと迎えに来てくれる。そう信じるしかなかった。
「きっと来る。」
「きっと迎えに来てくれる。」
そう信じ続けた。
しかし、その願いが叶うことはなかった。
この日、清子は父と母を失った。
そして、たった一人、中国の大地に取り残されたのである。




