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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第一部 戦争
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第四章 逃避行

夜明け前、水上食堂にはまだ明かりが灯っていた。

かまどの火は弱く、小さく揺れている。

その火を見つめながら、清子はぼんやりと座っていた。

昨日までなら、この時間には父が仕込みを始め、母が味噌汁の香りを店いっぱいに漂わせていた。

「もうすぐお客さんが来るね。」

そんな会話が毎朝のようにあった。

けれど今日は違う。

鍋は空のまま。

食器も並んでいない。

店の中には、不気味なほど静かな時間だけが流れていた。

清子はその静けさが嫌だった。

静かすぎる朝は、何か悪いことが起きる気がした。


父は黙って荷物をまとめていた。

着替えが数枚。

少しの米。

家族写真。

それだけだった。

母は何度も荷物を見直している。

「あれも持っていこうか。」

「いや、重くなる。」

「でも……。」

そんなやり取りを何度も繰り返していた。

清子は棚の上に置かれた小さな人形を見つけた。

母が昔、布切れで作ってくれたものだった。

眠る時も、一緒だった。

寂しい時も、一緒だった。

「お母さん。」

「どうしたの?」

「この子も連れていっていい?」

母は一瞬だけ言葉に詰まった。

荷物はもう限界だった。

食べ物を一つ持てば、何かを一つ置いていかなければならない。

それでも母は微笑んだ。

「もちろん。」

清子は嬉しそうに胸へ抱き寄せた。

その人形が、これから先の人生で唯一、幼い頃を思い出させる宝物になることを、この時の清子は知らない。


父は店の中をゆっくり歩いた。

柱に残る傷へ手を添える。

「ここで背を測ったな。」

母が微笑む。

「去年はここだったのに。」

「今年はもう少し高い。」

清子は柱を見上げた。

小さな傷が何本も刻まれている。

毎年、誕生日になると父が印をつけてくれた。

「来年も測る?」

無邪気に尋ねる。

父は振り向いた。

笑おうとした。

しかし笑えなかった。

「……そうだな。」

それだけ言うのが精一杯だった。

清子は不思議だった。

どうして今日は、お父さんがあまり笑わないのだろう。

どうしてお母さんは、何度も涙を拭いているのだろう。

子どもだから分からない。

でも、大好きな家が少しずつ遠くへ行ってしまうような気がして、胸の奥が苦しくなった。


店を出る前、母は暖簾を外した。

「水上食堂」

黒い文字を指でなぞる。

この暖簾は、父と母が日本から持ってきた唯一の思い出だった。

「あなた。」

母が父を見た。

「また帰って来られるよね。」

父は答えなかった。

答えられなかった。

ただ静かに暖簾をたたみ、荷物の一番上へ乗せた。

その沈黙だけで、母にはすべて伝わっていた。

清子は二人の顔を見比べた。

どうして誰も「帰れる」と言わないのだろう。

まだ幼い彼女には、それが分からなかった。


町を歩き始める。

昨日まで笑っていた商店街は、瓦礫と煙に覆われていた。

窓ガラスは割れ、看板は倒れ、道には捨てられた荷物が散乱している。

「あれ……。」

清子は立ち止まった。

近所の駄菓子屋だった。

いつも飴を一つおまけしてくれたおじさんの店。

屋根は焼け落ち、柱だけが黒く残っていた。

「おじさんは?」

誰に聞くでもなく呟く。

母は何も答えない。

答えられなかった。

清子は胸の中にぽっかり穴が空いたような気持ちになった。

昨日まであったものが、今日はなくなっている。

それが戦争なのだと、この時初めて知った。


歩き続けるうち、足が痛くなってきた。

「疲れた。」

そう呟くと、父は黙ってしゃがみ込んだ。

「乗りなさい。」

背中へおぶわれる。

父の背中は広くて温かい。

子どもの頃から大好きな場所だった。

「重くない?」

「清子は羽みたいに軽い。」

父は笑った。

その笑顔を見て、清子も笑う。

でも父の息は少しずつ荒くなっていた。

清子は気づかない。

父が何日も十分に食べていないことを。

その背中が、限界まで無理をしていることを。


夕暮れ。

森の中で休むことになった。

母がおにぎりを三つ取り出す。

父は「腹いっぱいだ」と言って食べない。

母も「私は後で」と笑う。

清子は二人を見つめた。

本当にお腹いっぱいなのだろうか。

そう思いながら一口食べる。

美味しい。

でも、どうしてか涙が出た。

「どうした?」

父が聞く。

「……分からない。」

本当に分からなかった。

怖いからなのか。

寂しいからなのか。

家へ帰りたいからなのか。

涙だけが止まらなかった。

母は何も言わず、清子を抱き寄せる。

その腕もまた、小さく震えていた。


夜。

満天の星空だった。

こんなにもきれいな空なのに、どうしてみんな泣いているのだろう。

どうして家へ帰れないのだろう。

清子は人形を抱きしめ、小さく願った。

(明日になったら、お店に帰れますように。)

(また、お父さんがお味噌汁を作って。)

(お母さんが笑って。)

(みんなでご飯が食べられますように。)

幼い少女は、まだ信じていた。

失った日常は、明日になれば戻ってくるのだと。

しかし、その願いが叶うことは二度となかった。

そして翌日――。

清子は、人生で最も残酷な一日を迎えることになる。

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