第三章 ソ連軍侵攻
昭和二十年八月。
満州の夏は、照りつける太陽とは裏腹に、不気味な静けさに包まれていた。
朝早くから蝉が鳴いている。
いつもなら店の前を荷馬車が行き交い、人々の話し声が聞こえてくる時間だった。
しかし、その日は違った。
通りには人影が少ない。
店を開けても客は来ない。
まるで町全体が息を潜めているようだった。
清子は店の暖簾を見つめながら、小さく首をかしげた。
「今日は誰も来ないね。」
母は笑顔を作ろうとした。
「きっと暑いからよ。」
だが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
清子にも、それだけは分かった。
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昼過ぎ。
突然、町中に鐘の音が鳴り響いた。
カン、カン、カン――。
今まで聞いたことのないほど激しい音だった。
外から誰かが叫ぶ。
「ソ連軍だ!」
「国境を越えたぞ!」
「逃げろ!」
町は一瞬で騒然となった。
荷物を抱えて走る人。
子どもの手を引く母親。
荷車を押す老人。
悲鳴と怒号が入り混じり、静かだった町は一瞬で地獄のような光景へ変わった。
「清子!」
父が大きな声で叫ぶ。
「家の中へ!」
清子は慌てて駆け寄った。
何が起きているのか分からない。
ただ、大人たちの表情だけが、これまで見たことがないほど恐ろしかった。
⸻
店の戸を閉めると、父は息を切らしながら言った。
「もうここも危ない。」
母は顔を青ざめさせる。
「本当に来るんですか……?」
「もうすぐだ。」
父は窓の隙間から外を見た。
遠くには黒い煙が立ち上っている。
「戦争が来た。」
その一言だけで十分だった。
清子は父の袖をぎゅっと握る。
「お父さん……。」
父はしゃがみ込み、清子と目を合わせた。
「怖いか?」
小さくうなずく。
「大丈夫だ。」
そう言って頭を撫でる父の手は、少し震えていた。
その震えを、清子は初めて感じた。
父はいつも強かった。
どんなことがあっても慌てない人だった。
そんな父が震えている。
それだけで、清子の胸は締めつけられた。
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夕方になると、銃声が聞こえ始めた。
パンッ。
パンッ。
乾いた音が風に乗って響く。
そのたびに近所の犬が吠え、子どもたちが泣き叫ぶ。
母は急いで窓という窓を閉め、雨戸を下ろした。
部屋の中は昼間なのに薄暗い。
「静かにしていなさい。」
清子は声も出せず、母の着物の袖を握っていた。
外では誰かが走る音がする。
叫び声も聞こえる。
何が起きているのか見たい気持ちと、見てはいけないという気持ちが入り混じっていた。
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夜になっても、町は眠らなかった。
銃声は止まず、遠くでは建物が燃える赤い光が空を染めていた。
父は押し入れから風呂敷を取り出し、少しの米と着替えを包み始める。
「逃げるの?」
清子が尋ねる。
父は少し考えてから答えた。
「まだだ。」
「でも……。」
「お父さんには、この店を守る責任がある。」
その言葉を聞いた母は、唇を強く噛んだ。
「店なんてもういいじゃないですか!」
初めて母が父に声を荒らげた。
「命より大事なものなんてありません!」
父は黙ったまま店の方を見つめる。
何年もかけて築いてきた食堂。
多くの人を笑顔にしてきた場所。
そこを置いて逃げることは、自分の人生を捨てることと同じだった。
「……朝まで待とう。」
その一言だけだった。
⸻
その夜。
清子は眠れなかった。
布団に入っても、耳には銃声が響く。
家が揺れるたびに体が震えた。
「お母さん。」
「どうしたの?」
「戦争って……怖いね。」
母は優しく抱き寄せる。
「怖くていいの。」
「怖いって思える人は、人を傷つけないから。」
清子は母の胸に顔を埋めた。
母の鼓動は速かった。
抱きしめる腕も震えていた。
それでも母は何度も背中をさすってくれた。
「大丈夫。」
「お母さんがいるから。」
その言葉だけが、暗闇の中で唯一の灯火だった。
⸻
夜明け前。
突然、玄関の戸が激しく叩かれた。
「開けてくれ!」
父が戸を開くと、血だらけの男が倒れ込んできた。
「助けてくれ……。」
男は肩を撃たれていた。
息も絶え絶えだった。
母はすぐに布を持ってきて傷口を押さえる。
「清子、水を!」
「う、うん!」
震える手で桶を運ぶ。
赤い血が床に広がっていく。
清子は初めて見る血の量に足がすくんだ。
男は苦しそうに呟く。
「もう……逃げろ……。」
「町は……もう終わりだ……。」
その言葉を聞いた父は、静かに目を閉じた。
ついに覚悟を決める時が来たのだ。
この町も、この食堂も。
守り抜くことはできない。
家族を生かすためには、すべてを捨てて逃げるしかなかった。
しかし清子は、まだ知らない。
逃げた先で、もっと残酷な運命が待ち受けていることを。
そして、自分が愛する両親と永遠の別れを迎える日が、すぐそこまで迫っていることを――。




