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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第一部 戦争
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第二章 崩れゆく日常

昭和二十年、春。


満州にも、長く厳しい冬が終わりを告げようとしていた。


雪解け水が大地を潤し、木々には小さな若葉が芽吹き始める。


だが、その春はどこか違っていた。


町には笑顔が消え、人々の会話は小さく、怯えるようになっていた。


戦争は遠い場所の出来事ではなく、確実にこの町へ近づいていたのである。


清子は、春なのに少しも明るくならない町を見て、不思議な気持ちになった。花が咲き始めているのに、どうしてみんなはこんなに暗い顔をしているのだろう。子ども心にも、何か大きなことが起きているのだと感じていた。



「清子、今日は店番をお願いね。」


母は朝早くから市場へ向かう支度をしていた。


「うん!」


清子はいつものように元気よく返事をする。


しかし店へ来る客は日に日に減っていた。


以前は昼前になると席が埋まり、鍋いっぱいに炊いたご飯も夕方には空になっていた。


今では昼を過ぎても客は数人だけ。


しかも皆、疲れ切った顔をしている。


「米が手に入らん。」


「配給も少なくなった。」


「うちの息子も昨日、招集されたよ。」


誰も料理の味を楽しむ余裕などなかった。


ただ、生きるために食べている。


そんな空気が店を包んでいた。


清子は茶碗を並べながら、胸の奥が少しざわつくのを感じていた。いつもなら賑やかな声が飛び交う店なのに、今は箸の音まで重たく聞こえる。自分が何かできるわけではないのに、静まり返った店にいると、なぜか怖くなった。



父が市場から帰ってきた。


背中の籠は半分も埋まっていない。


「今日はこれだけか。」


母が驚く。


「もう野菜も肉もない。」


父は疲れ切った声で答えた。


「全部軍へ回されてる。」


その日から、水上食堂の献立は大きく変わった。


具の少ない汁物。


わずかな野菜。


少しだけの雑穀。


母は工夫して料理を作ったが、どうしても足りなかった。


それでも店を閉めることだけはしなかった。


「ここが閉まったら、食べられなくなる人がいる。」


そう言って母は鍋を火にかけ続けた。


清子は、父の籠の中を見て言葉を失った。昨日まで当たり前にあったものが、今日はもうない。そのことが、子どもにはうまく飲み込めなかった。けれど、母が黙って鍋をかき混ぜる姿を見て、足りない中でも店を守ることが大事なのだと、少しずつ分かり始めていた。



夕方、一人の老人が店へ入ってきた。


着物は泥で汚れ、顔色は青白い。


「……食べ物を。」


震える声だった。


母は静かに残っていたご飯を茶碗によそった。


「ありがとう……。」


老人は涙を流しながら食べ始める。


その姿を見ていた清子は、小さな声で母に尋ねた。


「お母さん。」


「なあに?」


「うちもご飯少ないのに、どうしてあげるの?」


母は清子の頭を優しく撫でた。


「困っている人を見捨てるようになったら、人間じゃなくなるから。」


「でも、お腹空くよ?」


「少しぐらいお腹が空いても、生きていける。でもね。」


母は老人を見つめた。


「あの人は今日、この一杯がなければ、生きられないかもしれない。」


清子は黙ってうなずいた。


その言葉は、幼い胸に深く刻まれた。


清子は、母の答えに驚いた。自分たちだって苦しいのに、どうして人に分けられるのだろうと最初は思った。けれど、涙をこぼしながら食べる老人を見ているうちに、ただ自分たちだけが我慢すればいいのではないのだと知った。胸は少し痛んだが、その痛みと一緒に、忘れてはいけないことを覚えた気がした。



夜になると、町は灯火管制のため真っ暗になった。


家々の窓には黒い布が掛けられ、明かりは外へ漏れない。


静寂の中、遠くで列車の音だけが響く。


「軍用列車だ。」


父が呟く。


最近は毎晩のように兵士を乗せた列車が北へ向かっていた。


そのたびに町の人々は窓の隙間から見送る。


誰も言葉を発さない。


帰ってこない者が多いことを知っているからだ。


清子は暗い部屋の中で、列車の音を聞くたびに息をひそめた。見えないはずなのに、遠くへ運ばれていく人たちの姿が頭に浮かぶ。自分もいつか、あの音の向こうへ連れていかれるのではないかと考えると、背中が冷たくなった。



数日後。


近所の佐伯さん一家が店へ挨拶に来た。


「日本へ引き揚げることになりました。」


母は驚いた。


「もう船が出るんですか?」


「最後になるかもしれません。」


佐伯は苦笑いを浮かべた。


「向こうへ帰れる保証もありませんが……。」


清子は仲の良かった娘・和代の手を握った。


「また遊ぼうね。」


「うん!」


二人は笑った。


しかしその笑顔は、ぎこちなかった。


翌朝。


荷物を背負った佐伯一家は駅へ向かった。


和代は何度も振り返りながら手を振る。


「清子ちゃん!」


「またね!」


清子も大きく手を振った。


その「またね」が永遠の別れになるとは思いもしなかった。


清子は、和代が何度も振り返るたびに胸がきゅっと縮むのを感じていた。いつもならすぐにまた会えると思えたのに、その日はなぜか違った。手を振りながらも、もう戻ってこないかもしれないという考えが頭をよぎり、子どもながらに理由の分からない不安を覚えた。



六月。


町の空気はさらに重くなる。


父は夜遅くまでラジオに耳を傾けていた。


雑音混じりの放送。


難しい言葉ばかりで、清子には意味が分からない。


だが父の顔色だけは日に日に悪くなっていった。


ある晩、父は静かに言った。


「もしもの時は、清子を連れて逃げろ。」


母は箸を止めた。


「あなたは?」


「店を放ってはいけない。」


「そんな……。」


「俺は最後までここに残る。」


母は何も言えなかった。


その横顔には、恐怖と覚悟が入り混じっていた。


清子は、父と母の会話を聞きながら、何を言っているのか半分も分からなかった。ただ、逃げるという言葉だけがやけに重く耳に残った。自分が連れていかれるのだと知ると、急に喉が乾いた。大人たちが隠そうとしている何かが、もうすぐ本当に来るのだと感じていた。



七月。


町の空には軍用機が飛ぶようになった。


爆音が響くたび、子どもたちは耳を塞ぐ。


学校では避難訓練が始まった。


教師は必死に叫ぶ。


「机の下へ!」


「慌てるな!」


清子も友達と一緒に身を縮める。


しかし心臓の音だけは止まらなかった。


休み時間。


友達の美代がぽつりと呟く。


「ねえ、戦争って終わるのかな。」


清子は答えられない。


以前なら「終わるよ」と笑えた。


だが今は、その言葉を口にする勇気がなかった。


清子は机の下で小さくなりながら、爆音が近づくたびに肩をすくめた。訓練だと分かっていても、本当に空から何か落ちてくるような気がして怖かった。美代の問いに答えられなかった自分が少し情けなかったが、終わると言い切れないほど、戦争はもう遠いものではなくなっていた。



その日の夜。


父は店の戸締まりを終えると、一枚の家族写真を見つめていた。


開店祝いの日に撮った写真だった。


父と母、そして笑顔の清子。


「この子だけは……。」


父は写真を握りしめた。


「何があっても、生き延びさせたい。」


母は涙をこらえながら頷いた。


その願いは、やがて戦争という大きな運命に試されることになる。


そして八月。


満州全土を揺るがす激動の日が、すぐそこまで迫っていた――。


清子は、写真の中の自分が今よりずっと無邪気に笑っているのを見て、少しだけ不思議な気持ちになった。あの頃は、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。けれど父の握りしめた手を見て、ただ守られているだけではいけないのだと、幼いながらに感じ始めていた。

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