第十章 芽生える想い
春が過ぎ、町には初夏の風が吹き始めていた。
朝日が昇るころには郵便局の前に人が集まり、手紙や小包を抱えた人々が列をつくる。乾いた土の匂いに、遠くから運ばれてくる風の匂いが混じっていた。
清子――李清華となってから、もう何年もの月日が流れていた。
郵便局の仕事にも慣れ、局員たちからも信頼されるようになっていた。
「清華さん、これお願い。」
「はい、すぐに。」
「いつも助かるよ。ほんと、頼りになるなあ。」
その言葉を聞くたびに、清子は胸の奥が少し温かくなった。
自分にも居場所がある。
そう思えるようになっていた。
一方で、王邑黄は誰からも慕われる青年だった。
力仕事を率先して引き受け、困っている人がいれば自然と手を差し伸べる。汗をぬぐいながら笑うその姿は、初夏のまぶしい光の中でもよく目立った。
年配の職員からも、
「お前は本当に気が利くな。」
と肩を叩かれるほどだった。
そんな姿を見るたびに、清子は思った。
(お父さんに少し似ている。)
誰よりも働き者で、人を安心させる笑顔。
その笑顔を見ると、亡き父の面影がふっと重なった。
だからだろうか。
邑黄と話していると、不思議と心が落ち着いた。
近づきすぎるわけではないのに、離れすぎてもいない。そんな、ほどよい距離が清子には心地よかった。
ある日の昼休み。
二人は郵便局の裏庭で昼食を食べていた。
秀蘭が作ってくれた雑穀のおにぎり。少し硬めだが、噛むほどに素朴な甘みが広がる。
邑黄は蒸した饅頭を持ってきていた。
「交換する?」
邑黄が、いたずらっぽく笑う。
「え?」
「毎日同じだと飽きるだろ。ほら、半分こだ。」
清子は少し戸惑いながら、おにぎりを半分差し出した。
「じゃあ……。」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
たったそれだけのことが、清子には新鮮だった。
戦争が始まってから、誰かと穏やかな時間を過ごすことなどほとんどなかったからだ。裏庭を抜ける風はやわらかく、木陰の葉を小さく揺らしていた。
「美味しい。」
邑黄が饅頭を頬張りながら笑う。
「秀蘭さんが作ってくれたんです。」
「そうか。今度、お礼を言わなきゃな。」
「そんな、わざわざ……。」
「いや、言いたいんだ。」
その何気ない会話が、清子には宝物のように思えた。
仕事帰り。
町外れの橋を歩いていると、夕焼けが川面を赤く染めていた。水面はゆっくり流れ、空の朱色を細かく砕いて揺らしている。遠くの家々の屋根も、薄い金色に縁取られていた。
「きれいですね。」
清子が立ち止まる。
邑黄も足を止め、空を見上げた。
「こういう景色を見ると、戦争なんて嘘だったみたいだな。」
その言葉に、清子の笑顔が消えた。
「……。」
胸が締め付けられる。
戦争は終わった。
でも、自分の中では終わっていない。
父の叫び声。
母の涙。
森での別れ。
毎晩夢に見る。
忘れた日は一日もない。
邑黄はそんな清子の表情に気づいた。
「ごめん。」
「思い出させたかな。」
清子は小さく首を振った。
「いいえ。」
「忘れたくないんです。」
その言葉は、考えるより先に口からこぼれた。
「忘れたら、お父さんとお母さんが、本当にいなくなってしまう気がして。」
邑黄は何も言わなかった。
ただ静かに隣へ立った。肩は触れそうで触れない。けれど、そのわずかな距離が、かえって互いの気配を強く感じさせた。
「無理に忘れなくていい。」
「大切な人は、忘れない方がいい。」
その一言に、清子の目から涙があふれた。
夕焼けの赤が滲み、川風が頬をなでる。涙はすぐに乾きそうで、でも乾かないまま、静かにこぼれ続けた。
誰かの前で泣いたのは、秀蘭の前以来だった。
その日以来、二人は少しずつ互いのことを話すようになった。
邑黄は幼い頃の話。
郵便局で働き始めた日の失敗談。
夢だった旅の話。
清子は秀蘭との暮らし。
畑仕事。
好きな花。
好きな季節。
話しているあいだ、二人の間にはいつも、言葉にならない静けさがあった。近づけば壊れてしまいそうで、けれど離れれば寂しい。そんな、細い糸のような距離だった。
けれど、日本人であることだけは話せなかった。
喉まで出かかったことは何度もある。
(本当は……。)
そう思うたびに、秀蘭の言葉がよみがえる。
――生きるためには隠しなさい。
秘密は、二人の間にある小さな壁だった。
ある雨の日。
仕事が終わる頃には激しい雨が降っていた。
屋根を打つ雨音が、郵便局の軒先にまで響いてくる。空は鉛色に沈み、遠くの街並みも霞んで見えた。
清子は軒先で空を見上げる。
「困ったな……。」
傘を持ってきていなかった。
すると、邑黄が一本の傘を差し出した。
「一緒に帰ろう。」
「でも……。」
「家まで送るよ。こんな雨じゃ、ひとりで歩くのは危ない。」
二人は一本の傘に入った。
肩が少し触れる。
雨の音だけが静かに響いている。傘に落ちる雨粒が、ぱらぱらと小さな鼓動のように鳴っていた。
「寒くない?」
「大丈夫です。」
「本当に?」
邑黄はそう言うと、自分の上着をそっと清子の肩へ掛けた。
その温もりに、胸が高鳴る。
誰かに大切にされる。
そんな感覚を、清子はもう長いあいだ忘れていた。
雨に濡れた道は少しぬかるみ、二人の足音は重ならないまま、ゆっくりと並んで進んだ。近いのに、まだ遠い。けれど、その距離が少しずつ縮まっていくのを、清子は確かに感じていた。
家へ着くころには雨は小降りになっていた。
「ありがとう。」
「こちらこそ。」
別れ際、二人は少し照れくさそうに笑った。
傘の縁から落ちる雫が、最後にひとつだけ地面を打った。
その様子を、家の前で秀蘭が見ていた。
「いい人だね。」
夕食のあと、ぽつりと言う。
清子は驚いて箸を止めた。
「えっ?」
「お前を見る目が優しい。」
「……そんなこと。」
顔が赤くなる。
秀蘭はふっと笑った。
「久しぶりに笑うようになった。」
「戦争が終わってから、お前は心から笑えていなかった。」
その言葉に、清子は気づく。
確かに、邑黄といる時だけは自然と笑えている。
父や母を失ってから凍りついていた心が、少しずつ溶け始めているのだった。
その夜。
清子は母のお守りを握りながら空を見上げた。
雨はすっかり上がっていた。雲の切れ間から、淡い月明かりがにじんでいる。濡れた土の匂いが夜風に混じり、静かな庭を包んでいた。
「お父さん。」
「お母さん。」
「私……。」
言葉が止まる。
誰かを好きになることに、どこか後ろめたさがあった。
自分だけ幸せになっていいのだろうか。
戦争で命を落とした両親に申し訳ない。
そんな思いが胸を締めつける。
すると風が静かに頬をなでた。
優しく、包み込むような風だった。
まるで母が髪を撫でてくれているようだった。
「……ありがとう。」
清子は空へ向かって微笑んだ。
少しだけ前を向いてもいいのかもしれない。
父が命を懸けて守ってくれた人生を、自分は幸せに生きることもまた、親への恩返しなのかもしれない。
そう思えるようになっていた。
だが、穏やかな時間は永遠には続かない。
この頃から、仕事終わりに酒場へ立ち寄る邑黄の姿を見かける者が少しずつ増え始めていた。
まだ誰も、それが後の家族を苦しめる大きな影になるとは気づいていなかった。




