第十一章 結ばれる二人
夏の暑さが和らぎ始めた頃だった。
郵便局の庭に植えられた木々は青々と葉を広げ、朝の風が心地よく吹き抜けていた。
清子は郵便袋を抱えながら、いつものように局内を歩いていた。
「清華さん。」
後ろから邑黄の声が聞こえる。
「はい。」
振り返ると、邑黄は少し照れくさそうに立っていた。
「今日、仕事が終わったら少し付き合ってもらえないかな。」
突然の誘いに、清子は少し驚く。
「私ですか?」
「うん。」
「大事な話があるんだ。」
その真剣な表情に、清子は静かにうなずいた。
「分かりました。」
仕事を終えた二人は、町外れの丘へ向かった。
そこからは町全体が見渡せた。
夕日が赤く沈み、家々の煙突から立ち上る煙が空へ溶けていく。
戦争で焼け野原になった町にも、少しずつ人々の暮らしが戻っていた。
「きれいですね。」
清子がぽつりと言う。
邑黄は景色ではなく、清子の横顔を見つめていた。
「……清華さん。」
「はい。」
「初めて会った日を覚えてる?」
清子は笑った。
「郵便が全部散らばった日ですね。」
「恥ずかしかったな。」
邑黄も照れ笑いを浮かべる。
「あの日、君がいなかったら怒られてた。」
二人は声を上げて笑った。
その笑顔を見て、邑黄は静かに息を吸った。
「清華さん。」
「僕は……。」
一度言葉が止まる。
何度も考えた。
何度も練習した。
それでも本人を前にすると、胸が苦しくなる。
「君といる時間が、一番好きなんだ。」
清子は驚いたように邑黄を見つめた。
「君が笑うと嬉しい。」
「君が悲しそうにしていると、何とかしてあげたいと思う。」
「僕は……。」
「君を幸せにしたい。」
夕風が二人の間を通り抜ける。
静かな時間だった。
「清華さん。」
「僕と結婚してください。」
その言葉に、清子の心臓が大きく鳴った。
夢を見ているのだろうか。
戦争で家族を失い、一人ぼっちになった自分が。
誰かから「幸せにしたい」と言われる日が来るなんて。
思ってもいなかった。
しかし、その瞬間。
胸の奥から別の声が聞こえた。
(言わなきゃ。)
(この人には、本当のことを。)
清子は拳を握り締めた。
「……ごめんなさい。」
邑黄の表情が曇る。
「私は……。」
「あなたに隠していることがあります。」
長い沈黙。
風の音だけが聞こえる。
清子は震える声で続けた。
「私は、本当は中国人じゃありません。」
邑黄は黙って聞いている。
「戦争の時に両親を亡くして……。」
「日本人として生まれました。」
「水上清子といいます。」
そう口にした瞬間だった。
涙が止まらなくなった。
何年も胸の奥へ閉じ込めてきた本当の名前。
誰にも言えなかった自分自身。
ようやく口にすることができた。
「もし、このことを知って……。」
「嫌になるなら、それでも構いません。」
「私は……。」
「嘘をついたまま、あなたと一緒にはなれません。」
そう言って深く頭を下げた。
長い沈黙が流れた。
清子は顔を上げることができない。
やっぱり駄目だった。
そう思った、その時。
邑黄は静かに口を開いた。
「顔を上げて。」
恐る恐る見上げる。
邑黄は穏やかに笑っていた。
「君は君だ。」
「日本人でも、中国人でもない。」
「僕が好きになったのは、水上清子という一人の女性なんだ。」
その言葉に、清子は息をのんだ。
「でも……。」
「戦争は、大人が始めた。」
「君は何も悪くない。」
「それに。」
邑黄は少し照れながら笑った。
「僕は、清華さんも、清子さんも好きだよ。」
その瞬間。
清子は声を上げて泣いた。
戦争が終わってから初めて、自分が許されたような気がした。
自分は生きていていい。
幸せになってもいい。
父と母が命を懸けて守ってくれた人生を、歩いてもいい。
そんな気持ちが胸いっぱいに広がった。
数日後。
邑黄は李秀蘭の家を訪れた。
「娘さんをください。」
深々と頭を下げる。
秀蘭は驚いたように目を丸くした。
「私に許可を求めるのかい?」
「もちろんです。」
「清子さんをここまで育ててくれたのは、あなたです。」
その言葉に、秀蘭は涙ぐんだ。
「私は本当の母親じゃない。」
「それでも。」
「あなたがいなければ、僕は清子さんに出会えませんでした。」
秀蘭はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「幸せにしてやってください。」
「命に代えても。」
邑黄は力強く答えた。
その返事を聞いた秀蘭は、安心したように微笑んだ。
二人の結婚式は、とても質素なものだった。
村人たちが集まり、小さな料理を持ち寄る。
豪華な衣装もない。
高価な指輪もない。
それでも、笑顔だけは誰よりも輝いていた。
式の終わり、秀蘭は一つの小箱を清子へ手渡した。
「これは、お前が来た日のまま預かっていた。」
中には、母の形見のお守りと、小さな布人形が入っていた。
戦争の日からずっと、大切に保管していたものだった。
「お母さん……。」
清子は人形を胸へ抱き寄せる。
「お父さん。」
「私、幸せになります。」
空を見上げると、どこまでも青い空が広がっていた。
まるで遠い日本まで続いているかのように。
その日、水上清子は新しい家庭を築いた。
愛する人と共に歩み始めた人生。
二人の暮らしは、驚くほど静かで穏やかだった。朝は並んで食卓につき、夜は同じ灯りの下で笑い合う。清子は、その何気ない日々を、ようやく手にした幸せとして大切に抱きしめていた。
最初のうちは、邑黄も変わらなかった。夕食のあとに湯を沸かし、清子が洗い物をしていると「手伝うよ」と袖をまくる。そんな何気ない仕草に、清子は胸を温かくした。
けれど、ある晩、邑黄は玄関先で少しだけ立ち止まり、「今日は少し寄るところがある」と言った。帰ってきたのは、いつもより遅い刻限だった。頬は赤く、言葉も少なかったが、「仕事仲間に誘われてね」と笑ってごまかした。その笑い方が、清子にはほんの少しだけ引っかかった。
だが、その穏やかさの中に、少しずつ小さな違和感が混じり始めていた。
仕事仲間から酒へ誘われることが増えた邑黄。
最初は「今日はやめておく」と断っていたはずなのに、ある日から「一杯だけなら」と笑って応じるようになった。その笑い方は、どこか以前より軽く、そして空虚だった。
帰りが遅くなる夜も増えた。
「先に寝ていてくれ」と言い残し、夜更けにそっと戸を開けることもあった。酔いの残る顔で黙り込むこともあった。
清子はまだ、その変化の意味をはっきりとは知らない。
けれど、あの穏やかな日々の端に、確かに不穏な影が差し始めていた。
「一杯だけ。」
そう笑っていたその一杯が、やがて家族の運命を大きく揺るがすことになるとは、まだ誰も知らなかった。




