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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第二部 異国で生きる
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第十二章 新しい命

結婚して一年。

清子と邑黄は、町外れの小さな借家で、邑黄の母・秀華と同居し始めた。

土壁の家に、六畳ほどの部屋が二つ。

雨が降れば屋根から雫が落ち、冬になれば隙間風が入り込む。

決して裕福な家ではない。

それでも、二人にとっては十分すぎるほど幸せな家だった。

土の匂いのする壁、軋む床板、湯気の立つ粗末な茶碗。朝は粟の薄い粥、昼は玉米面の蒸し饅頭、夜は土鍋で煮た白菜とじゃがいもの炖菜。何気ないものすべてが、清子には胸の奥をじんわり温めた。失ったはずの「家」が、ようやく手の届くところにある。そう思うだけで、息をするたびに小さな喜びがこぼれた。

ただし、清子は自分が日本人であることを邑黄以外に明かさなかった。義母にもそしていつか生まれる子にも、その秘密を胸の奥にしまい込んでいた。

ただ、そこに秀華が加わってから、家の空気は少しだけ張りつめた。

秀華はこの家の主のように振る舞い、朝から晩まで清子の一挙一動を見張った。

「嫁は目が覚めたら、誰より先に起きるものだよ」

朝寝坊をすればそう言って眉をひそめ、粟粥が薄ければ「こんな水っぽいものを出すのか」と鼻で笑う。

掃除の仕方、洗濯物の干し方、畑仕事の手つきまで、いちいち細かく言われた。

「そんなやり方では邑黄が恥をかくよ」

「これだからよそ者は困る」

「うちの嫁になるなら、うちのやり方を覚えなさい」

そう言われるたび、清子は唇を噛んで頭を下げた。

胸の奥がちくりと痛んでも、顔には出さない。ここで泣いてしまえば、もっと居場所がなくなる気がしたからだ。悔しさを飲み込み、指先に力を込めて、ただ黙って耐えた。

食事の席でも、清子はいつも最後だった。

秀華と邑黄が先に箸をつけ、清子は「嫁は後でいい」と言われて、冷めかけたおかずを前に座ることもあった。土鍋の底に残った白菜の芯、塩気の強い酸菜、豆腐を少しだけ崩した汁物。玉米面の饅頭は固く、噛めば噛むほど口の中の水分を奪った。味噌汁をよそおうとすれば、「その手つきではこぼす」と取り上げられ、洗濯物を干せば「まだまだ甘い」と結び直される。

時には、わざと聞こえるようにため息をつかれた。

「よそから来た娘は、気位ばかり高くて役に立たないね」

その言葉に、清子は何度も胸を刺された。

邑黄がかばおうとしても、義母は「男は黙って働いていればいい」と一蹴する。

「この家のことは私が見る。嫁は私の言うことを聞けばいい」

そう言い切られると、邑黄もそれ以上は強く出られなかった。

清子は笑顔を崩さぬよう努めながら、毎日を耐えていた。

それでも、夜になって邑黄が帰ってくると、張りつめていた心が少しだけほどけた。

「ただいま。」

夕方になると、邑黄が仕事から帰ってくる。

その声を聞くだけで、清子の肩が少しだけ下がった。土間に落ちる足音、外の冷たい空気をまとった彼の匂い。扉が開くたび、家の中に夕暮れの気配が流れ込む。

「おかえりなさい。」

清子は笑顔で迎え、温かい食事を並べる。

食卓には湯気の立つ白菜と豆腐の炖菜、細かく刻んだ葱を散らした卵炒め、そして玉米面の蒸し饅頭が並んでいた。

豪華ではない。

それでも二人は「おいしいね」と笑い合った。

その何気ない時間が、清子には夢のようだった。

箸先から伝わる温かさ、土鍋の底に残る素朴な旨み、向かい合って食べる相手がいること。その一つひとつが、清子の胸に静かにしみ込んでいく。幼い頃に失った家族の温もりが、ようやく自分のもとへ戻ってきた気がしていた。

ただ、その食卓にも秀華の視線はいつもあった。

「そんなに笑ってばかりいると、家の中が緩むよ」

「嫁はもっと慎ましくしていなさい」

そう言われるたび、清子は笑みを消さぬまま、そっと箸を置いた。


ある春の日。

清子は朝から体が重かった。

畑へ出ようとしても、立ちくらみがする。

食事の匂いをかぐだけで胸がむかついた。

いつもなら気にならない土の匂いまで、今日は妙に濃く感じる。台所の壺に漬けてある酸菜の匂い、蒸した玉米面の粉っぽい香り、それらが混じるたびに喉の奥がむずむずして、息を吸うたびに胸がざわついた。

「大丈夫か?」

邑黄が心配そうに尋ねる。

その声には、いつもの明るさの奥に、かすかな不安が混じっていた。

「少し疲れているだけ。」

そう笑ってみせたものの、症状は何日も続いた。

自分でもおかしいと思いながら、清子は胸の奥で小さな予感に触れていた。もしや、という思いが浮かぶたび、期待と怖さが同時に押し寄せる。嬉しいはずなのに、信じるのが怖かった。願ってしまえば、違っていた時にきっと立っていられない気がしたからだ。

心配した秀華が町の産婆を呼んでくれた。

診てもらった後、産婆は穏やかに笑う。

「おめでとう。」

「赤ちゃんがいるよ。」

その言葉を聞いた瞬間、清子は思わず口元を押さえた。

胸の奥で何かがぱっとほどけ、次の瞬間には熱いものが目の奥にあふれた。信じられない。けれど、確かにそこにある。自分の中に、小さな命が宿っている。

「……私が?」

声が震えた。

涙がにじむ。

嬉しさが波のように押し寄せるのに、その大きさに足元がふらつく。怖い。ちゃんと育てられるだろうか。無事に産めるだろうか。けれど、それ以上に、胸いっぱいに満ちていく温かさがあった。

自分のお腹に、小さな命が宿っている。

信じられなかった。

邑黄も驚きで目を丸くしたあと、子どものように笑った。

「本当か!」

その声は弾んでいて、喜びが隠しきれていなかった。思わず清子の手を握る。大きな手のひらが、少しだけ震えているのが分かった。

「ありがとう。」

その言葉に、清子は首を振った。

「ありがとうは私の方。」

「家族を作ってくれて。」

言いながら、清子は自分でも驚くほど胸がいっぱいになった。ずっと欲しかったもの。失ったと思っていたもの。誰かと生き、誰かを迎え、誰かを守る暮らし。その中心に、自分の命がつながっていく。

二人は手を握ったまま、しばらく何も話さなかった。

ただ、互いの温もりを確かめ合っていた。

掌の熱が、これから始まる日々の重みと、かけがえのなさを静かに教えていた。

その様子を、義母は少し離れたところから黙って見ていた。

いつもなら「騒がしい」と眉をひそめるところだが、その日は何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ目を細めていた。

清子はその視線に気づき、胸の奥がふっと温かくなるのを覚えた。厳しい人だと思っていた。けれど、あの沈黙の中に、確かに家族を見つめるまなざしがあった。


その夜。

清子は一人、庭へ出た。

空には満月が浮かんでいる。

冷えた夜気が頬を撫で、草の葉には露が光っていた。遠くで虫が鳴き、静かな満ち足りた音が闇に溶けていく。

母のお守りを握りしめながら、小さくつぶやいた。

「お父さん。」

「お母さん。」

「私、お母さんになるよ。」

言葉にした途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。嬉しいのに、少しだけ怖い。自分が母になるなんて、まだどこか夢のようだった。けれど、指先に触れるお守りの感触が、これは現実なのだと教えてくれる。

風が優しく吹いた。

まるで両親が祝福してくれているようだった。

清子は目を閉じた。頬をなでる風が、幼い頃に母が髪を撫でてくれた手のぬくもりを思い出させる。もう会えない人たちの面影が、夜の静けさの中でそっと寄り添ってくる。

「きっと守るから。」

「この子だけは。」

あの日、自分を守るために命を懸けてくれた父と母。

今度は、自分が命を守る番だった。

その決意は誰にも揺るがせないものだった。

たとえ不安が胸をよぎっても、たとえ未来が見えなくても、この子を抱きしめて生きる。そう思うと、清子の背筋は自然と伸びた。


妊娠が分かってから、邑黄は以前にも増して優しくなった。

重い荷物は持たせない。

水汲みも自分がやる。

仕事帰りには市場で果物を買ってくることもあった。

「栄養をつけないと。」

照れくさそうに差し出す。

その不器用な優しさが、清子にはたまらなく愛しかった。梨や林檎の甘い香りをかぐたび、これから生まれてくる命のことを思って胸が熱くなる。

「ありがとう。」

そんな夫の姿を見るたび、清子は幸せをかみしめた。

だが、その一方で気になることもあった。

仕事仲間に誘われると、邑黄は酒場へ立ち寄るようになっていた。

「今日も飲んできたの?」

ある晩、清子が尋ねる。

邑黄は少し照れ笑いを浮かべた。

「祝いだよ。」

「子どもができたって聞いて、みんなが奢ってくれた。」

酒臭さはしたが、酔ってはいない。

清子もそれ以上は何も言わなかった。

(少しくらいなら……。)

そう自分に言い聞かせた。

本当は、少しだけ胸がざわついていた。嬉しい知らせに浮かれる人たちの輪の中で、邑黄が無理をしていないだろうか。けれど、今は責めたくなかった。新しい命を迎えるこの時を、できるだけ穏やかに過ごしたかったからだ。


季節は巡り、夏。

お腹は日に日に大きくなっていく。

布越しに丸みを帯びた腹を撫でるたび、そこに確かな重みがあることに清子は息をのんだ。自分の体の中で、別の鼓動が育っている。その不思議さに、時折立ち止まってしまう。

赤ん坊が初めて動いた日のことだった。

「あっ……。」

清子が思わず声を上げる。

胸の奥が跳ね、思わず息を止めた。今、確かに何かが触れた。小さく、でもはっきりと。

「どうした!」

邑黄は慌てて駆け寄る。

「今、この子が動いた。」

「え?」

「触ってみて。」

恐る恐るお腹へ手を当てる。

その瞬間、小さく「とん」と動いた。

邑黄の目が見開かれる。驚きと喜びが一気に顔に広がり、次の瞬間には少年のような笑顔になった。

「動いた!」

邑黄は目を輝かせる。

まるで少年のような笑顔だった。

「元気だな。」

「きっとお父さんに似たのね。」

「いや、お母さん似だ。」

二人は笑い合った。

その笑い声は、小さな家いっぱいに響いた。

清子は笑いながらも、胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。まだ見ぬ我が子が、確かにここにいる。その実感が、喜びと同時に、守らなければという責任を静かに強くした。

その様子を、台所から秀華が黙って見ていた。

いつもなら「騒がしい」と眉をひそめるところだが、その日は何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ目を細めていた。


出産予定日が近づいた頃。

秀蘭が赤ん坊用の小さな服を縫っていた。

古い布を何枚もつなぎ合わせた手作りの服。

針を動かす手つきは不器用ではないのに、どこか慎重で、布を扱う指先にやさしさがにじんでいた。

「こんなので悪いね。」

申し訳なさそうに言う。

清子は首を横に振った。

「世界で一番嬉しい。」

その服を胸へ抱き締める。

布は少しごわついていたが、そこに込められた思いの温かさが、清子の胸をいっぱいにした。生まれてくる子のために、誰かが手を動かしてくれている。その事実だけで、涙がこぼれそうになる。

「ありがとう、お母さん。」

その一言に、秀蘭は目を潤ませた。

「今、何て……?」

「お母さん。」

清子は少し照れながら笑った。

「私を育ててくれたのは、お母さんだから。」

秀蘭は静かに涙を流した。

実の親子ではない。

血もつながっていない。

それでも、その瞬間、二人は本当の母娘になった。

長く張りつめていたものが、そこでようやくほどけたようだった。秀蘭の涙を見て、清子もまた目頭が熱くなる。言葉にしなくても伝わるものがある。そう思えたことが、何より嬉しかった。


秋。

激しい陣痛が始まった。

家の中には産婆が駆けつけ、秀蘭が湯を沸かす。

邑黄は家の外を何度も行ったり来たりしていた。

「頑張って!」

秀蘭が清子の手を握る。

清子は痛みに耐えながら、お守りを強く握り締めた。

腹の底をえぐるような痛みが波のように押し寄せるたび、息が詰まり、視界が白くなる。それでも、手の中のお守りだけは離さなかった。汗で濡れた額、震える膝、喉の奥で漏れる声。痛みの向こうに、まだ見ぬ我が子の気配がある気がした。

(お母さん……。)

(私も、お母さんになる。)

長い苦しみの末――。

元気な産声が部屋いっぱいに響いた。

「おぎゃあ……!」

その声を聞いた瞬間、清子の目から涙があふれた。痛みも疲れも、すべてがその一声に押し流される。生きている。無事に生まれた。その事実だけで、胸が震えた。

産婆が笑顔で赤ん坊を抱き上げる。

「元気な女の子だよ。」

清子は涙で霞む目を開き、小さな命を見つめた。

小さな手。

小さな足。

力いっぱい泣く姿。

そのあまりの小ささに、愛おしさと畏れが同時に込み上げる。こんなにもか弱いのに、こんなにも強く泣いている。清子は胸がいっぱいになって、ただ見つめることしかできなかった。

「ありがとう……。」

思わずそうつぶやいた。

その命が、この先どんな人生を歩むのか、まだ誰にも分からない。

邑黄は震える手で娘を抱き上げた。

「よく来てくれた。」

「お父さんだよ。」

その笑顔は、父親になった喜びに満ちていた。

抱き上げた腕の中で、小さな体がかすかに動く。その重みを感じた瞬間、邑黄の目にも涙がにじんだ。守りたい。何があっても、この子を守る。そう誓うような表情だった。

数日後、二人は娘に静香と名付けた。

「静かな時代を生きてほしい。」

「戦争のない世の中で、穏やかに笑っていてほしい。」

そんな願いが、その名前には込められていた。

名前を口にするたび、清子は胸の奥に小さな祈りを感じた。どうかこの子の未来が、血と涙ではなく、やわらかな光に包まれますように。そう願わずにはいられなかった。

しかし、生まれたばかりの静香には、まだ誰も知らない試練が待っていた。

母・清子が戦時中に受けた深刻な栄養不足は、お腹の中の小さな命にも静かに影を落としていたのである。

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