第五十二章 静香の決断
静香は、幸江を育てながら毎日を生きていた。
朝は、まだ薄暗いうちに目を覚ます。布団の中でまず足をゆっくり動かし、こわばった膝をさすってから、ようやく上体を起こす。立ち上がるまでに少し時間がかかる。床に足をついた瞬間、古傷のあたりに鈍い痛みが走ることもあった。
それでも、台所に立たなければならない。かまどに火を起こし、重い鍋に水を張り、米を研ぐ。片手で幸江を抱えたままでは、思うように動けない。娘がぐずれば、しゃがみ込んであやしながら、もう片方の手で味噌汁をかき混ぜる。火の前に長く立っていると、腰の奥がじんじんと熱を持ち、夕方には足先まで重くなった。
洗濯も、掃除も、買い物も、ひとつひとつが静香には負担だった。
井戸まで水を汲みに行く時は、桶を持ち上げるだけで肩が震えた。濡れた洗濯物を竿に掛ける時は、腕を伸ばすたびに背中が引きつる。階段を上る時は、手すりを握って、一段ずつ息を整えながら進む。幸江を抱いている時などは、足元に気を取られるだけで胸がざわついた。もし転んだら、この子を守れない。そう思うたび、静香は唇を噛んだ。
周りの人なら何でもないことが、静香にはひどく遠いものに感じられた。買い物袋ひとつ持つにも、途中で腕を休めなければならない。風の強い日には、洗濯物を押さえるだけで体が揺れた。指先がかじかむ冬の日は、幸江の着物の紐を結ぶのにも時間がかかった。
それでも、娘のためなら不思議と力が湧いた。
幸江の小さな手が自分の指を握る。眠る前に頬を寄せてくる温もり。熱を出した夜に、額に浮かぶ汗をぬぐいながら聞く浅い寝息。そのたびに、静香は痛みを忘れるように背筋を伸ばした。
「お母さん。」
そう呼ばれるたび、静香は思った。
(私は、この子の母親なんだ。)
その事実だけで、どんな苦労も耐えられる気がした。
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しかし、静香の心には長い間消えない不安があった。
夫・黄来真との関係。
結婚した時から、静香はどこかで感じていた。
来真は、自分を心から愛して結婚したのだろうか。
それとも、あの時できた子どものために責任を取っただけなのだろうか。
一夜の過ち。
その結果としての結婚。
その事実は、夫婦になった後も静香の心に影を落としていた。
来真がそばにいる時でさえ、静香はふとした瞬間に相手の横顔を見つめてしまうことがあった。食卓で箸を動かす手。黙って煙草をくゆらせる指先。何かを考え込んだまま遠くを見る目。そのたびに、胸の奥に小さな棘が刺さるようだった。
自分は本当に妻なのか。
それとも、ただ子を産んだ女として置かれているだけなのか。
夜、幸江を寝かしつけたあと、静香はひとりで布団に入る。隣に来真の体温がない夜は、やけに広く、冷たく感じられた。襖の向こうから風が鳴る音を聞きながら、静香は何度も目を閉じたまま天井を見つめた。
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それでも静香は、来真を信じようとした。
自分たちは家族になった。
幸江という大切な命がいる。
過去がどうであれ、これから愛し合える夫婦になればいい。
そう願っていた。
しかし、来真との距離は少しずつ広がっていった。
会話は減った。
家にいても心ここにあらずということが増えた。
静香が話しかけても、来真は上の空だった。
「最近、どうしたの?」
そう聞いても、
「疲れているだけだ。」
そう答えるだけだった。
食事の席でも、来真は箸を止めずに短く返事をするだけで、静香の顔を見ようとしないことが増えた。幸江が笑いかけても、どこか遠くを見ているような目をしていた。静香はその背中を見ながら、言葉を飲み込むことが多くなった。
問いただしたいことは山ほどあった。
けれど、声に出せば壊れてしまう気がして、静香はただ湯気の立つ茶碗を両手で包み込むしかなかった。
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ある日。
来真は静香に言った。
「少し中国へ行ってくる。」
突然の話だった。
静香は、洗い物をしていた手を止めた。濡れた指先から水がぽたぽたと落ち、板の間に小さな染みを作る。
「いつ帰ってくるの?」
静香は尋ねた。
来真は少し間を置いた。
「……用事が終われば戻る。」
その言葉を信じるしかなかった。
静香には、まだ夫を疑う理由がなかった。
幸江もいる。
家族は続いている。
そう思いたかった。
来真が出ていく朝、静香は玄関先で見送った。荷物を肩に掛けた背中が、戸口の向こうへ消えていく。草履の音が遠ざかるたび、胸の奥がひやりとした。振り返ることもなく去っていくその姿を見ながら、静香は何か大切なものが少しずつ離れていくような気がしていた。
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しかし、時間が過ぎても来真は戻ってこなかった。
最初の頃は、静香も待っていた。
仕事が忙しいのかもしれない。
何か事情があるのかもしれない。
自分に言い聞かせた。
朝になると、戸口の方を何度も見た。郵便が来れば、胸を高鳴らせて封を開けた。夜には、幸江を寝かせたあと、灯りの下で何度も手紙を読み返した。だが、返事は次第に短くなり、やがて途絶えた。
連絡も途絶えていった。
幸江が成長するほど、静香の中の不安は大きくなった。
「お父さん、いつ帰ってくるの?」
娘の言葉に、静香は胸が締めつけられた。
幸江は、戸口の方を見ながら何度もそう尋ねた。小さな靴を揃えて待つ姿を見るたび、静香は喉の奥が痛くなった。夕暮れ時、外から足音がするたびに、娘はぱっと顔を上げる。そのたびに違う人だと分かると、肩を落として静かに座り直した。
「きっと帰ってくるよ。」
そう答えながら、自分自身に言い聞かせていた。
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ある日。
静香のもとに、思いもよらない知らせが届いた。
来真が中国で、別の女性と親しくしているらしい。
それだけではなかった。
静香は、その話を聞いた瞬間、息を呑んだ。
「……嘘。」
最初は信じられなかった。
自分が何か間違えたのではないか。
聞き間違いではないか。
何度も考えた。
しかし、調べるほど現実は残酷だった。
来真は中国で別の女性と関係を持っていた。
静香はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。耳の奥がじんと鳴り、目の前の景色がぼやける。手にしていた布巾が床に落ちても、拾う気力が湧かなかった。胸の中に冷たい水を流し込まれたようで、息を吸うたびに喉が痛んだ。
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静香は、しばらく何も言えなかった。
怒りよりも先に、悲しみが押し寄せた。
自分は何だったのか。
妻ではなかったのか。
幸江の母としてだけ必要とされていたのか。
あの日、結婚すると言った来真の言葉。
家族になろうと言った言葉。
全てが嘘だったのか。
静香の目から涙が落ちた。
夜になっても涙は止まらなかった。布団に入っても、枕が濡れるほど泣いた。幸江が隣で眠っているのに、声を殺して肩を震わせるしかなかった。胸の奥がひりつき、指先まで冷たくなっていく。怒りをぶつける相手もなく、ただ自分の呼吸だけが荒く響いた。
それでも、静香の心の底には、消えない思いが残っていた。
来真を好きだという気持ちだった。
裏切られたと知っても、すぐには嫌いになれなかった。
別れたくない。
そう思ってしまう自分が、静香にはどうしようもなく苦しかった。
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その夜。
静香は眠る幸江の横に座った。
小さな寝顔。
自分を必要としてくれる唯一無二の存在。
静香は娘の髪をそっと撫でた。
細い髪は、指の間をすべるように柔らかかった。寝息に合わせて小さな胸が上下する。その規則正しい動きを見ていると、静香の張りつめていた心が少しだけほどけた。
「幸江……。」
「お母さんね。」
「少しだけ、悲しいことがあったの。」
もちろん、幼い娘には理解できない。
それでも静香は続けた。
「でも、大丈夫。」
「あなたがいるから。」
言いながら、静香は自分自身にもそう言い聞かせていた。泣き腫らした目をこすり、娘の布団をかけ直す。小さな足が布団の端から出ているのを見つけて、そっと包み込む。その温もりが、静香を現実につなぎとめていた。
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翌日。
静香は清子に全てを話した。
清子は黙って娘の話を聞いていた。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
全てを飲み込むように。
静香は、話している途中で何度も言葉を詰まらせた。喉が乾き、唇が震える。手のひらには汗がにじみ、膝の上で握った指先が白くなる。それでも、清子の前では隠せなかった。胸の中に溜め込んでいたものが、堰を切ったようにあふれ出した。
「お母さん……。」
静香が呟く。
「私、どうしたらいいの。」
清子は静かに首を振った。
「違うよ。」
「あなたは何も間違っていない。」
「間違えたのは、約束を破った人だよ。」
その言葉に、静香の涙が溢れた。
清子の声は静かだったが、その静けさがかえって胸に沁みた。責められることを覚悟していた静香にとって、その一言は、凍えた手を温める火のようだった。
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清子は思い出していた。
戦争で夫や故郷を失った自分。
異国で日本人であることを隠した日々。
何度も裏切られ、傷つきながら生きてきた。
でも、自分には守るものがあった。
子どもたち。
そして今、静香にも守るものがある。
幸江。
清子は、静香がどれほど無理をしてきたかを知っていた。痛む足を引きずりながら台所に立つ姿。夜中に幸江が泣けば、眠い目をこすりながら起き上がる姿。誰にも見せないところで、静香がどれほど歯を食いしばってきたかを、清子は見ていた。
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「静香。」
清子は娘の手を握った。
「あなたは、来真を好きなままでいい。」
「裏切られたからって、すぐに嫌いになれるものじゃない。」
「別れたくないなら、今は別れなくていい。」
静香は黙って涙を拭いた。
身体の不自由さ。
夫の裏切り。
これまで背負ってきた全て。
それでも、自分には幸江がいる。
そして、来真を好きだという気持ちも、まだ消えていない。
静香は、ゆっくりと息を吐いた。痛みを抱えた体は重かったが、それでも立ち上がれないわけではない。誰かに支えられながらでも、一歩ずつ進むことはできる。そう思えたのは、初めてだった。
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その日から、静香は変わった。
もう、誰かに愛されることで自分の価値を決めない。
自分は母親。
幸江を守る存在。
そして、一人の人間として生きる。
来真が選んだ道は変えられない。
でも、静香はまだ来真を好きだった。
だからこそ、簡単に別れを口にするつもりはなかった。
戻ってきたら、きちんと話をする。
裏切られたまま終わらせたくない。
朝、痛む足をかばいながらも、静香は以前より少しだけ背筋を伸ばして歩いた。幸江の着物のほころびを繕い、食事を整え、洗濯物を干す。ひとつひとつの動作は相変わらず楽ではない。それでも、誰かを待ちながら空を見上げる時間は減っていった。代わりに、目の前の娘の顔を見る時間が増えた。
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満州から始まった清子の人生。
その娘である静香もまた、傷を抱えながら歩いていく。
しかし、母から受け継いだものがあった。
どれほど傷ついても。
命を守るために立ち上がる強さ。
静香は幸江の手を握った。
「大丈夫。」
「お母さんが、あなたを守るから。」
その言葉は、かつて自分が母に守られたように。
次の世代へ繋ぐ約束だった。




