第五十一章 家族それぞれの試練
清子の家には、以前とは違う時間が流れていた。
戦争の音もない。
誰かが日本人であることを隠す必要もない。
明日の食事を心配して眠れない夜もない。
けれど、人生から苦しみが消えたわけではなかった。
人は生きている限り、何かと向き合わなければならない。
清子は、それを誰よりも知っていた。
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最初の変化に気づいたのは、清子だった。
一新のことだった。
幼い頃から家族を支え続けた息子。
学校へ行くこともできず、靴磨きをしてお金を稼いだ少年。
母を助けるため、自分のことを後回しにしてきた子。
そんな一新が、今は父親になっていた。
娘の見栄を抱く姿を見ると、清子は嬉しかった。
小さな肩に赤ん坊の体温を受け止めるその腕は、昔よりずっとたくましく見えた。だが、夕方になると台所の隅に置かれた酒瓶が目に入るたび、清子の胸はひやりと冷えた。ふわりと漂う焼酎の匂いが、湯気の立つ味噌汁の香りに混じる。その匂いは、遠い昔に家の空気を重くした父・王邑黄の気配を思い出させた。
しかし、その一方で不安もあった。
酒。
それは、かつて家族を苦しめた父・王邑黄と同じものだった。
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「今日は少し疲れただけだ。」
一新はそう言って笑った。
仕事の後、酒を飲む日が増えていた。
最初は本当に少しだった。
一日の疲れを忘れるため。
眠るため。
それだけだった。
だが、盃を重ねるたびに、頬が赤くなり、声が少しずつ大きくなっていく。畳に置いた徳利が小さく鳴る音、喉を通る熱い液体の感触、胸の奥がじわりと緩んでいくような気持ちよさ。そのたびに、一新は「これくらいなら」と自分に言い聞かせた。けれど、酒が入ると一新の声は大きくなった。
蘭々が気を遣うようになる。
子どもたちが父親の顔色を見るようになる。
その光景を見た瞬間、一新の胸に幼い頃の記憶が蘇った。
父が酒に酔って怒鳴っていた夜。
母が黙って耐えていた姿。
怯えていた自分。
酔いの熱が引いたあとに残る、こめかみの鈍い痛み。自分の声が思った以上に荒く響いたことに気づいたとき、一新は背筋が冷たくなった。子どもたちの小さな沈黙が、何よりも痛かった。あの夜の自分と、今の子どもたちの目が重なって見えたからだ。
「……俺は、何をしているんだ。」
一新は自分自身に問いかけた。
父のようにはならない。
そう誓ったはずだった。
盃を置いた指先がわずかに震えていた。酒の匂いが鼻の奥に残り、吐き気にも似た苦さが込み上げる。やめたい。だが、仕事の疲れも、胸の奥に溜まった焦りも、うまく言葉にできない寂しさも、酒を口にすると一瞬だけ薄れてしまう。その甘さが、かえって一新を怖がらせた。
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一方、新潔の身体にも変化が現れていた。
視界の異変。
以前より見えにくい時間が増えていた。
中国にいた頃から、夜になると少し見えづらかった。
しかし、日本へ来てから少しずつ進んでいた。
夕暮れどき、障子の白さがにじんで見える。茶碗の縁がぼやけ、箸先がどこにあるのか一瞬わからなくなる。畳の目も、遠くの人の顔も、薄い霧の向こうにあるようだった。目をこすれば少しは戻る気がしたが、こすったあとに残るのは、熱を持った眼球の痛みだけだった。
定子は心配していた。
「病院で診てもらった方がいいです。」
新潔は笑った。
「大丈夫だよ。」
「まだ見えている。」
しかし、その言葉の裏に不安があることを定子は分かっていた。
新潔自身も分かっていた。見えなくなることが怖いのではない。朝、子どもたちの顔を見分けられなくなること。庭先で遊ぶ小さな背中を、目で追えなくなること。泣きそうな顔をしたとき、すぐに気づいてやれなくなること。それが何より怖かった。
夜、灯りの下で家族の輪郭が少しずつ滲んでいくたび、新潔は胸の奥が締めつけられるのを感じた。見えないふりをして笑えば、家族は安心するかもしれない。だが、そのたびに自分の中で何かが削られていく気がした。父親として、そばに立っていたい。その願いだけが、暗がりの中でかすかな灯のように残っていた。
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静香もまた、夫婦の問題を抱えていた。
来真は、日本で生活をしていた。
しかし、静香の心には結婚した時から消えない傷があった。
自分を本当に愛してくれているのか。
それとも、責任だけで結婚したのか。
その疑問は、年月が経っても消えることはなかった。
幸江が成長するにつれ、静香は母として強くなっていった。
自分が幼い頃に欲しかったもの。
安心できる言葉。
無条件の愛情。
それを娘には与えようと思った。
「幸江。」
「あなたは、あなたのままでいいんだよ。」
その言葉は、かつて自分が言ってほしかった言葉でもあった。
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正恵は、清子の家で新しい生活を始めていた。
依子と瑞希。
二人の娘を守るために働く日々。
朝はまだ冷たい水で顔を洗い、手のひらに残るひび割れた痛みをこらえながら台所に立つ。洗濯物を干すたび、風に揺れる布の音が耳にやさしくもあり、同時に胸を締めつけた。仁人との離婚問題はまだ終わっていなかった。
仁人は離婚を認めない。
時々、戻ってきてほしいと言う。
「変わるから。」
「もう酒はやめるから。」
その言葉を聞くたび、正恵の心は揺れた。
楽しかった思い出もある。
依子が仁人を父と呼んだ日のことも覚えている。
だが、玄関先に立つ仁人の酒臭い息、低く押し殺した声、そして瑞希の左眉に残った傷を見るたび、胸の奥で何かが固く結ばれていくのを感じた。あの傷の白さは、今もふとした拍子に目に焼きつく。眠る娘の顔を見つめるたび、守れなかった時間の重さが指先にのしかかった。
「子どもを守ることが、私の一番大事なこと。」
正恵はもう、昔のように我慢するだけの女性ではなかった。
離婚届の紙の薄さを思うと、指先が少し震えた。たった一枚の紙なのに、それを出すまでに積み重なった痛みは、何年分もあった。迷いはある。怖さもある。それでも、子どもたちの寝顔を思い浮かべると、胸の奥に静かな力が戻ってくるのだった。
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そんな子どもたちを見ながら、清子は思っていた。
自分が歩いてきた人生も、決して平坦ではなかった。
でも、子どもたちはそれぞれの場所で生きている。
傷を抱えながら。
迷いながら。
それでも前へ進んでいる。
それだけで十分だった。
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ある夜。
清子は仏壇の前に座っていた。
満州で亡くなった両親。
遠い昔に別れた人たち。
心の中で静かに語りかける。
「見ていますか。」
「みんな、ここまで生きてきました。」
戦争で何もかも失った少女は、今では7人の孫を持つ祖母になった。
人生とは、不思議なものだった。
奪われたものだけを数えていた時代。
失ったものばかり見ていた時代。
でも今は違う。
残ったもの。
繋がったもの。
守れたものを見ることができる。
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しかし、清子はまだ知らなかった。
これから先、新潔の視力はさらに失われていくこと。
一新が父と同じ道へ進むかどうかの葛藤。
静香が夫・来真の裏切りと向き合う日。
そして、子どもたちが親になった後も続いていく家族の物語。
人生は、幸せだけでは終わらない。
それでも清子は信じていた。
どんな試練が来ても。
家族が帰る場所さえ残っていれば、人はまた立ち上がれる。




