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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第三部 故郷での再出発
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第四十八章 崩れ始める

瑞希が生まれてから、しばらくの間。


正恵は、たしかに幸せだった。


依子が妹をのぞきこみ、まだぎこちない手つきで頬をなでる。


瑞希が小さな指をぎゅっと握り返す。


清子が孫を抱いて、目尻を下げながら微笑む。


そんな何気ない光景を見ているだけで、胸の奥にこびりついていた苦しみまで、少しずつ薄れていく気がした。


(今度こそ、私は幸せな家庭を作れた。)


正恵は、そう信じていた。


けれど、その幸せは、音もなく、少しずつ崩れ始めていた。



最初に気づいたのは、ほんの小さな変化だった。


仁人が酒を飲んで帰ってくる日が、少しずつ増えていったのだ。


戸を開けた瞬間に、むっと鼻を刺す酒の匂い。


足取りは重く、靴を脱ぐ音もどこか乱暴になる。


それでも最初のうちは、正恵は「仕事で疲れているのだろう」と思おうとした。


男は外で苦労しているのだ、と。


自分が少し気をつければ、また以前のように穏やかに戻るのではないか、と。


けれど、酒が入った仁人の声は、次第に棘を含むようになっていった。


「俺のことを分かっているのか。」


「俺だって苦労しているんだ。」


低く押し殺した声が、家の中にじわじわと広がる。


正恵は戸惑いながら、何度も言葉を選んだ。


「仁人さん……どうしたの?」


けれど返ってくるのは、冷たい視線と、苛立ちを含んだ沈黙ばかりだった。


そのたびに正恵は胸の奥がざわついたが、まだはっきりと怖いとは思えなかった。


ただ、以前とは違う。


そう感じるだけだった。


(昔は、こんな人じゃなかった。)


そう思っても、正恵は耐えた。


自分が怒らせなければいい。


自分が気をつければいい。


そう言い聞かせて、胸の奥に湧く不安を押し込めていた。



けれど、違和感は日ごとに形を変えていった。


仁人は、酔っていない時でもどこか落ち着かず、家の中でため息をつくことが増えた。


依子や瑞希に向ける視線も、以前のような柔らかさを失っていた。


子どもたちが近づくと、わずかに顔をしかめる。


その小さな変化が、正恵には妙に引っかかった。


何かを隠しているのではないか。


自分たちの知らないところで、仁人の中で何かが変わってしまったのではないか。


そんな疑いが、消えそうで消えなかった。


それでも正恵は、まだ信じようとしていた。


疲れているだけ。


きっと、そういう時期なのだ。


そう思い込もうとするたび、胸の奥に沈んでいく不安を、見ないふりをした。



しかし、仁人の本当の目的を知ったのは、ある日のことだった。


偶然、仁人が昔の知人と話しているのを耳にしてしまったのだ。


「日本に来るために結婚したんだろ?」


「永住権が取れてよかったな。」


その言葉を聞いた瞬間、正恵の身体がぴたりと固まった。


永住権。


日本で暮らすための資格。


まさか。


そんなことのために、自分と結婚したのか。


依子に優しくしていたことも。


家族を作ろうとしていたように見えたことも。


そのすべてが、最初から計算されたものだったのか。


正恵はすぐには信じられなかった。


耳にした言葉の意味を、頭が拒んでいた。


けれど、胸の奥に冷たいものが落ちていく感覚だけは、どうしても止められなかった。


その夜、仁人が帰ってきても、正恵はまともに顔を見られなかった。


問いただしたい。


でも、聞くのが怖い。


もし本当なら、何もかもが壊れてしまう。


そう思いながら、正恵は眠れないまま朝を迎えた。



「仁人さん……。」


ようやく声を絞り出したのは、その翌日のことだった。


帰宅した仁人に、正恵は震える声で尋ねた。


「私との結婚は……日本で暮らすためだったの?」


仁人はすぐには答えなかった。


視線を逸らし、しばらく黙り込んだあと、吐き捨てるように小さく言った。


「最初は、そうだった。」


その一言で、正恵の心は音を立てて崩れた。


完全に否定されるよりも、その曖昧な認め方のほうが、よほど残酷だった。


最初は、そうだった。


では、今はどうなのか。


今までの優しさは、本当に少しでもあったのか。


正恵は何も言えず、ただ立ち尽くした。


胸の奥にあった最後の期待が、静かに、しかし確かに砕けていくのを感じていた。



それから、仁人の態度はさらに変わった。


酒を飲む量は増え、帰宅するたびに家の空気が重くなる。


酔うと怒りを抑えられなくなり、障子を乱暴に開け閉めし、茶碗を机に叩きつけるように置いた。


物に当たる音が、夜の静けさを何度も引き裂いた。


正恵はその音を聞くたび、身体がこわばるようになった。


仁人が戸を開ける足音だけで、胸がざわつく。


酒の匂いがしただけで、息が浅くなる。


以前は「また機嫌が悪いのだろう」と受け流そうとしていたのに、今は違った。


次に何が起こるのか分からない。


その不安が、じわじわと正恵の中に広がっていった。


やがて、その苛立ちは正恵へ向けられるようになった。


腕に残る痣。


頬に走る傷。


肩をつかまれた指の跡。


痛みが消えても、身体には確かに残った。


最初のうちは、正恵も「たまたま強く掴まれただけだ」と思おうとした。


けれど、同じことが重なるたび、言い訳は少しずつ苦しくなっていった。


それでも正恵は、依子と瑞希の前では笑おうとした。


「大丈夫。」


「お母さんは大丈夫だから。」


そう言い聞かせるたび、自分の声が少しずつ弱くなっていくのを感じていた。


依子もまた、父の顔色をうかがうようになっていた。


瑞希はまだ幼く、何が起きているのか分からないまま、泣き声を上げることが増えた。


そのたびに正恵は、胸の奥で小さな恐怖が膨らんでいくのを感じた。


このままではいけない。


そう思うのに、まだ決断する勇気はなかった。



そして、ある夜。


決定的な出来事が起きた。


その日は、仁人がひどく酔っていた。


息をするたびに酒臭い匂いが漂い、目は据わり、言葉の端々がもつれていた。


正恵は、できるだけ刺激しないようにと、静かに食事の片づけをしていた。


けれど、ほんの些細な言葉が引き金になった。


「子どもたちが怖がってるの。」


正恵は、ただ、もう少し酒を控えてほしいと言っただけだった。


その一言に、仁人の顔つきが変わった。


眉間に深いしわが寄り、口元がぴくりと引きつる。


「俺を責めるのか。」


低く、押し殺した声だった。


正恵は反射的に一歩下がった。


畳がきしむ。


部屋の隅で、依子が息を呑む気配がした。


正恵は、その気配に気づいた瞬間、はっとした。


子どもたちの前で、これ以上はまずい。


そう思ったのに、もう遅かった。


「違う……お願いだから、やめて。」


その声は、自分でも驚くほど細く震えていた。


次の瞬間だった。


仁人の腕が大きく振り上げられた。


手にしていたビール瓶が、空気を裂くように弧を描く。


正恵は、何が起きたのか理解するより先に、目の前を横切る緑色の瓶を見た。


それはまっすぐではなかった。


酔った腕から放たれた瓶は、狙いも定まらないまま、低く、速く、乱暴に飛んだ。


正恵はとっさに瑞希をかばおうとした。


けれど、身体が思うように動かない。


空気を切る鋭い音。


次の瞬間、鈍い衝撃音が響いた。


ゴン、と重く、嫌な音だった。


瑞希の小さな身体が、瓶の勢いに弾かれるように揺れた。


まだ幼いその子は、何が起きたのか分からないまま、目を見開いた。


そして、遅れて泣き声が上がる。


「う……あ……!」


瓶は床に落ち、乾いた破裂音を立てて砕け散った。


ガシャン、と耳をつんざくような音が部屋いっぱいに響く。


破片が畳の上に飛び散り、光を受けて細かくきらめいた。


その中の一片が、瑞希の左眉を深く切り裂いた。


赤いものが、じわりとにじむ。


最初は細い線だった血が、すぐに濃く広がり、白い肌の上を伝って落ちた。


瑞希は驚いたように顔をしかめ、次の瞬間、喉の奥から絞り出すような泣き声を上げた。


「ぎゃああ……!」


その声が、正恵の耳を突き刺した。



時間が止まったようだった。


割れた瓶の残響。


瑞希の泣き声。


依子の震える息。


そして、何が起きたのか理解できずに立ち尽くす正恵の視界に、血に濡れた小さな顔が映る。


正恵は、その瞬間、ようやくはっきりと恐怖を知った。


これは、もう「機嫌が悪い」では済まない。


この人は、子どもを傷つける。


次はもっとひどいことが起こるかもしれない。


その思いが、冷たい刃のように胸を貫いた。


「……瑞希。」


正恵は、足がもつれるようにして駆け寄った。


膝をつき、震える手で娘を抱き上げる。


瑞希の身体は熱く、泣きじゃくるたびに小さく震えた。


左眉から流れた血が、頬を伝って正恵の手に落ちる。


ぬるりとした感触。


生々しい赤。


「ごめんね……ごめんね……!」


声が裏返る。


正恵は何度も何度も謝った。


けれど、謝る相手は本当は自分ではない。


目の前で起きたことを止められなかった自分自身に、ただ謝っていた。


依子は青ざめた顔でその場に立ち尽くし、両手で口を押さえていた。


「いや……いや……!」


小さな声が、震えながら漏れる。


仁人は一瞬、酔いの残る目でその光景を見下ろしていたが、やがて何事もなかったかのように顔を背けた。


その無関心さが、正恵の胸をさらに深くえぐった。


怖い。


この人が怖い。


そう思った時、正恵の中で、ようやく何かがはっきりと形になった。


もう我慢してはいけない。


このままでは、子どもたちが壊れてしまう。


守らなければならない。


ここを出なければならない。



病院で処置を受けた瑞希には、左眉に消えない傷が残った。


小さな顔に刻まれた、あまりにも痛ましい痕。


その傷を見るたび、正恵の胸は締めつけられた。


「この子は何も悪くないのに。」


「どうして……どうしてこんなことに……。」


清子は黙って娘を抱きしめた。


背中をゆっくりと撫でながら、静かに言った。


「正恵。」


「もう十分苦しんだよ。」


「あなたは、子どもたちを守らなきゃいけない。」


その言葉で、正恵はようやく決意した。


離婚する。


もう二度と、子どもたちを同じ苦しみの中に置かない。


怖かった。


悔しかった。


それでも、守るべきものがある。


その思いが、正恵の背中をようやく押した。



しかし、仁人は離婚を拒否した。


「離婚なんて認めない。」


「俺の妻だろ。」


その声には、酔いも怒りも、そして自分のものだという執着だけがあった。


正恵は、震えを押し殺して答えた。


「私はあなたの所有物じゃない。」


「私は母親です。」


「子どもを守るために出ていきます。」


けれど仁人は、最後まで首を縦に振らなかった。


簡単には終わらない。


それが現実だった。



正恵は悩んだ末、別居を選んだ。


離婚が成立するまで、仁人と離れて暮らす。


それが、子どもたちを守るためにできる、唯一の方法だった。


荷物をまとめる日。


依子は何も言わず、ただ静かに母の手を握った。


瑞希はまだ幼く、何も知らないまま眠っていた。


小さな寝息を立てるその顔を見て、正恵は胸が張り裂けそうになった。


家を出る前、正恵は一度だけ振り返った。


幸せだと思った場所。


家族になれると思った場所。


けれど、そこにはもう戻れなかった。



清子の家の扉を開けた時。


正恵は、こらえていた涙をもう止められなかった。


「……お母さん。」


清子は何も聞かなかった。


ただ、娘を強く抱きしめた。


「帰ってきたね。」


その一言だけで、正恵の涙は堰を切ったように溢れた。


また母のもとへ戻ってきた。


一度目は、自分を守るために。


二度目は、子どもたちを守るために。


清子は静かに言った。


「ここは、あなたの帰る場所だよ。」



戦争で故郷を失った清子。


人生で何度も傷ついた正恵。


二人の母娘は、また同じ家で暮らすことになった。


けれど今度は違う。


正恵はもう、昔のようにただ耐えるだけの女性ではなかった。


守るべき子どもがいる。


そして、支えてくれる母がいる。


人生は何度でもやり直せる。


そう信じて、正恵は新しい一歩を踏み出した。

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