第四十九章 母と娘の再出発
正恵が清子の家へ戻ってきてから、数週間が過ぎた。
以前なら、実家へ戻ることは「失敗した」と認めることのように感じていた。
一度目の結婚が終わった時もそうだった。
自分が我慢すれば。
自分がもっと良い妻になれば。
そうすれば家族は壊れなかったのではないか。
そんな思いを抱えながら、依子を連れて清子のもとへ戻った。
そして今。
また同じ場所に戻ってきた。
しかし、今回は違った。
正恵は逃げてきたのではない。
子どもたちを守るために、自分で選んだ道だった。
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朝。
清子の家には、久しぶりに小さな子どもの声が響いていた。
「おばあちゃん。」
幼い瑞希が呼ぶ。
清子は笑顔で振り返った。
「なあに?」
瑞希は左眉に残った傷を指で触りながら聞いた。
「これ、なおる?」
その言葉に、清子の胸が締め付けられた。
幼い子どもが背負うには、あまりにも大きな傷だった。
清子は優しく瑞希の髪を撫でた。
「この傷はね。」
「瑞希が頑張って生きてきた証なんだよ。」
「恥ずかしいものじゃない。」
瑞希はまだ意味を全部理解できない。
でも、祖母の優しい声に安心したように笑った。
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正恵は働きながら、二人の娘を育てた。
生活は決して楽ではなかった。
しかし、以前のような恐怖はなかった。
夜、玄関の音に怯えることもない。
酒の匂いを気にすることもない。
誰かの顔色をうかがって食事をする必要もない。
当たり前のような日常。
それが、正恵には何より大切だった。
それでも、心のどこかはいつもざわついていた。
仁人からの連絡が、途切れずに届いていたからだ。
最初は短い文だった。
「話したい」
次は少し長くなった。
「戻ってきてくれないか。子どもたちのこともある」
その次には、妙に弱ったような言葉が並んだ。
「もう酒はやめる」
「本当に変わる」
「一度だけ会ってほしい」
正恵は、そのたびに携帯を握りしめたまま動けなくなった。
画面に表示された名前を見るだけで、胸の奥が冷たくなる。
指先が震えた。
返事を打とうとして、何度も消した。
何を返せばいいのか分からなかった。
怒りなら、まだ簡単だったかもしれない。
「もう連絡しないで」
そう言い切れたなら、どれほど楽だっただろう。
けれど、正恵の中には怒りだけではなく、かつての記憶が残っていた。
笑っていた日。
依子が「お父さん」と呼んだ日。
ほんの少しだけ、家族になれたような気がした夜。
その温かさを、完全には消せなかった。
だからこそ、迷った。
また信じてしまうのではないか。
少し優しくされたら、また戻ってしまうのではないか。
そして、戻った先で、また子どもたちが怯えるのではないか。
その想像だけで、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
⸻
ある夜、仁人から電話がかかってきた。
着信音が鳴った瞬間、正恵は息を止めた。
画面に浮かぶ名前を見て、すぐには出られなかった。
出れば、何かが変わってしまう気がした。
出なければ、また罪悪感が残る。
正恵はしばらく画面を見つめたあと、静かに通話を切った。
だが、すぐに再び鳴った。
二度目の着信。
三度目の着信。
正恵は唇を噛んだ。
「……しつこい」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
それでも、胸の奥では別の声がした。
一度くらい、話を聞いてやってもいいんじゃないか。
本当に変わったのかもしれない。
子どもたちの父親なんだから。
そんな甘い考えが、まだ残っている。
正恵はその声を振り払うように、強く首を振った。
違う。
聞いてしまえば、また揺れる。
揺れた先で、子どもたちを守れなくなる。
それだけは、もう嫌だった。
⸻
翌日、仁人からのメッセージが届いた。
「正恵、頼む。話を聞いてくれ」
「俺は本気だ」
「子どもたちに会いたい」
正恵は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
会いたい。
その言葉だけが、妙に生々しく胸に刺さる。
会いたいのは、子どもたちだろうか。
それとも、自分を許してほしいだけだろうか。
正恵は、ふっと息を吐いた。
許すことと、戻ることは違う。
頭では分かっているのに、心はまだ揺れる。
正恵は台所に立ったまま、誰にも聞こえない声で呟いた。
「今さら、何を言ってるの」
「酒をやめるって、何度言ったの」
「変わるって、何度約束したの」
言葉にするほど、怒りがはっきりしていく。
あの夜のことを思い出すたび、身体がこわばった。
子どもたちの泣き声。
自分の震える手。
何もできずに立ち尽くした無力感。
あの恐怖は、簡単に消えるものではない。
「もう一度だけ」などと言われても、正恵にはもう一度がどれほど危ういものか分かっていた。
一度目は、我慢で済ませた。
二度目は、子どもたちの傷になった。
三度目があってはいけない。
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その日の夕方、清子が正恵の様子に気づいた。
「正恵、顔色が悪いよ」
正恵は少し迷ってから、携帯を差し出した。
「……仁人から」
清子は画面を見て、何も言わずに正恵の顔を見た。
「返事、してないの?」
正恵は首を横に振った。
「したくない」
その言葉は、思ったよりもはっきりしていた。
清子は静かにうなずいた。
「そう」
正恵は唇を噛んだ。
「でも……」
「でも、って?」
清子が促すと、正恵は視線を落とした。
「私、ひどいのかなって思って」
「子どもたちの父親なのに、話も聞かないなんて」
清子は少しだけ目を細めた。
「ひどくなんかないよ」
「正恵は、子どもたちを守ろうとしてるだけだもの」
正恵は小さく首を振った。
「でも、あの人が本当に変わってたら?」
「もし、私が意地を張ってるだけだったら?」
その問いには、正恵自身の不安がにじんでいた。
清子はしばらく黙ってから、ゆっくり言った。
「変わったかどうかは、言葉じゃ分からない」
「本当に変わった人は、相手が怖がっていることを知ったら、無理に近づかないものよ」
その言葉に、正恵ははっとした。
仁人は、何度も連絡をしてきた。
返事がないと分かっていても、電話をかけてきた。
それは、正恵の気持ちを確かめるためではなく、自分の不安を埋めるためだったのではないか。
そう思うと、胸の奥に冷たいものが広がった。
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その夜、正恵はついに仁人に短く返事をした。
「もう連絡しないでください」
送信ボタンを押した瞬間、指先がじんと熱くなった。
たったそれだけの文なのに、全身の力が抜けた。
すぐに返信が来るかもしれない。
怒鳴られるかもしれない。
責められるかもしれない。
正恵は携帯を伏せ、しばらく目を閉じた。
だが、返ってきたのは長い沈黙だった。
その沈黙が、かえって怖かった。
何も言わないまま、また突然現れるのではないか。
そう思うと、正恵は携帯を手に取り、迷いながらも着信拒否の操作をした。
画面に「この番号を拒否しますか」と表示される。
正恵は一瞬だけ指を止めた。
ここで拒否すれば、もう後戻りはできない。
本当にそれでいいのか。
胸の奥で、まだ弱い声がする。
それでも、正恵はその声を押し込めた。
「いい」
「もう、振り回されたくない」
小さく呟いて、拒否を確定した。
その瞬間、怖さと同じくらい、ほっとした気持ちが広がった。
自分で決めた。
自分で切った。
それだけのことなのに、正恵には大きな一歩だった。
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ある日。
正恵は鏡の前に立った。
昔の自分なら、傷つけられても我慢していた。
家族を失うのが怖かった。
一人になるのが怖かった。
でも今は違う。
背後には母がいる。
隣には子どもたちがいる。
そして、自分自身もいる。
「私は……もう大丈夫。」
正恵は静かに呟いた。
その声は、まだ少し震えていた。
けれど、もう誰かに許しを乞う声ではなかった。
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清子の家には、再び家族が集まり始めていた。
戦争で離れ離れになった家族。
異国で苦労した家族。
傷つきながらも生きてきた家族。
誰も完璧ではない。
誰も傷を持っている。
それでも、支え合えば歩いていける。
清子は眠る孫たちを見ながら思った。
(この子たちには、私たちとは違う未来を歩いてほしい。)
その願いだけを胸に。
清子はまた、家族を守る母として生きていく。




