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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第三部 故郷での再出発
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第四十九章 母と娘の再出発

正恵が清子の家へ戻ってきてから、数週間が過ぎた。


以前なら、実家へ戻ることは「失敗した」と認めることのように感じていた。


一度目の結婚が終わった時もそうだった。


自分が我慢すれば。


自分がもっと良い妻になれば。


そうすれば家族は壊れなかったのではないか。


そんな思いを抱えながら、依子を連れて清子のもとへ戻った。


そして今。


また同じ場所に戻ってきた。


しかし、今回は違った。


正恵は逃げてきたのではない。


子どもたちを守るために、自分で選んだ道だった。



朝。


清子の家には、久しぶりに小さな子どもの声が響いていた。


「おばあちゃん。」


幼い瑞希が呼ぶ。


清子は笑顔で振り返った。


「なあに?」


瑞希は左眉に残った傷を指で触りながら聞いた。


「これ、なおる?」


その言葉に、清子の胸が締め付けられた。


幼い子どもが背負うには、あまりにも大きな傷だった。


清子は優しく瑞希の髪を撫でた。


「この傷はね。」


「瑞希が頑張って生きてきた証なんだよ。」


「恥ずかしいものじゃない。」


瑞希はまだ意味を全部理解できない。


でも、祖母の優しい声に安心したように笑った。



正恵は働きながら、二人の娘を育てた。


生活は決して楽ではなかった。


しかし、以前のような恐怖はなかった。


夜、玄関の音に怯えることもない。


酒の匂いを気にすることもない。


誰かの顔色をうかがって食事をする必要もない。


当たり前のような日常。


それが、正恵には何より大切だった。


それでも、心のどこかはいつもざわついていた。


仁人からの連絡が、途切れずに届いていたからだ。


最初は短い文だった。


「話したい」


次は少し長くなった。


「戻ってきてくれないか。子どもたちのこともある」


その次には、妙に弱ったような言葉が並んだ。


「もう酒はやめる」


「本当に変わる」


「一度だけ会ってほしい」


正恵は、そのたびに携帯を握りしめたまま動けなくなった。


画面に表示された名前を見るだけで、胸の奥が冷たくなる。


指先が震えた。


返事を打とうとして、何度も消した。


何を返せばいいのか分からなかった。


怒りなら、まだ簡単だったかもしれない。


「もう連絡しないで」


そう言い切れたなら、どれほど楽だっただろう。


けれど、正恵の中には怒りだけではなく、かつての記憶が残っていた。


笑っていた日。


依子が「お父さん」と呼んだ日。


ほんの少しだけ、家族になれたような気がした夜。


その温かさを、完全には消せなかった。


だからこそ、迷った。


また信じてしまうのではないか。


少し優しくされたら、また戻ってしまうのではないか。


そして、戻った先で、また子どもたちが怯えるのではないか。


その想像だけで、胃のあたりがきゅっと縮んだ。



ある夜、仁人から電話がかかってきた。


着信音が鳴った瞬間、正恵は息を止めた。


画面に浮かぶ名前を見て、すぐには出られなかった。


出れば、何かが変わってしまう気がした。


出なければ、また罪悪感が残る。


正恵はしばらく画面を見つめたあと、静かに通話を切った。


だが、すぐに再び鳴った。


二度目の着信。


三度目の着信。


正恵は唇を噛んだ。


「……しつこい」


小さく漏れた声は、自分でも驚くほど冷たかった。


それでも、胸の奥では別の声がした。


一度くらい、話を聞いてやってもいいんじゃないか。


本当に変わったのかもしれない。


子どもたちの父親なんだから。


そんな甘い考えが、まだ残っている。


正恵はその声を振り払うように、強く首を振った。


違う。


聞いてしまえば、また揺れる。


揺れた先で、子どもたちを守れなくなる。


それだけは、もう嫌だった。



翌日、仁人からのメッセージが届いた。


「正恵、頼む。話を聞いてくれ」


「俺は本気だ」


「子どもたちに会いたい」


正恵は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


会いたい。


その言葉だけが、妙に生々しく胸に刺さる。


会いたいのは、子どもたちだろうか。


それとも、自分を許してほしいだけだろうか。


正恵は、ふっと息を吐いた。


許すことと、戻ることは違う。


頭では分かっているのに、心はまだ揺れる。


正恵は台所に立ったまま、誰にも聞こえない声で呟いた。


「今さら、何を言ってるの」


「酒をやめるって、何度言ったの」


「変わるって、何度約束したの」


言葉にするほど、怒りがはっきりしていく。


あの夜のことを思い出すたび、身体がこわばった。


子どもたちの泣き声。


自分の震える手。


何もできずに立ち尽くした無力感。


あの恐怖は、簡単に消えるものではない。


「もう一度だけ」などと言われても、正恵にはもう一度がどれほど危ういものか分かっていた。


一度目は、我慢で済ませた。


二度目は、子どもたちの傷になった。


三度目があってはいけない。



その日の夕方、清子が正恵の様子に気づいた。


「正恵、顔色が悪いよ」


正恵は少し迷ってから、携帯を差し出した。


「……仁人から」


清子は画面を見て、何も言わずに正恵の顔を見た。


「返事、してないの?」


正恵は首を横に振った。


「したくない」


その言葉は、思ったよりもはっきりしていた。


清子は静かにうなずいた。


「そう」


正恵は唇を噛んだ。


「でも……」


「でも、って?」


清子が促すと、正恵は視線を落とした。


「私、ひどいのかなって思って」


「子どもたちの父親なのに、話も聞かないなんて」


清子は少しだけ目を細めた。


「ひどくなんかないよ」


「正恵は、子どもたちを守ろうとしてるだけだもの」


正恵は小さく首を振った。


「でも、あの人が本当に変わってたら?」


「もし、私が意地を張ってるだけだったら?」


その問いには、正恵自身の不安がにじんでいた。


清子はしばらく黙ってから、ゆっくり言った。


「変わったかどうかは、言葉じゃ分からない」


「本当に変わった人は、相手が怖がっていることを知ったら、無理に近づかないものよ」


その言葉に、正恵ははっとした。


仁人は、何度も連絡をしてきた。


返事がないと分かっていても、電話をかけてきた。


それは、正恵の気持ちを確かめるためではなく、自分の不安を埋めるためだったのではないか。


そう思うと、胸の奥に冷たいものが広がった。



その夜、正恵はついに仁人に短く返事をした。


「もう連絡しないでください」


送信ボタンを押した瞬間、指先がじんと熱くなった。


たったそれだけの文なのに、全身の力が抜けた。


すぐに返信が来るかもしれない。


怒鳴られるかもしれない。


責められるかもしれない。


正恵は携帯を伏せ、しばらく目を閉じた。


だが、返ってきたのは長い沈黙だった。


その沈黙が、かえって怖かった。


何も言わないまま、また突然現れるのではないか。


そう思うと、正恵は携帯を手に取り、迷いながらも着信拒否の操作をした。


画面に「この番号を拒否しますか」と表示される。


正恵は一瞬だけ指を止めた。


ここで拒否すれば、もう後戻りはできない。


本当にそれでいいのか。


胸の奥で、まだ弱い声がする。


それでも、正恵はその声を押し込めた。


「いい」


「もう、振り回されたくない」


小さく呟いて、拒否を確定した。


その瞬間、怖さと同じくらい、ほっとした気持ちが広がった。


自分で決めた。


自分で切った。


それだけのことなのに、正恵には大きな一歩だった。



ある日。


正恵は鏡の前に立った。


昔の自分なら、傷つけられても我慢していた。


家族を失うのが怖かった。


一人になるのが怖かった。


でも今は違う。


背後には母がいる。


隣には子どもたちがいる。


そして、自分自身もいる。


「私は……もう大丈夫。」


正恵は静かに呟いた。


その声は、まだ少し震えていた。


けれど、もう誰かに許しを乞う声ではなかった。



清子の家には、再び家族が集まり始めていた。


戦争で離れ離れになった家族。


異国で苦労した家族。


傷つきながらも生きてきた家族。


誰も完璧ではない。


誰も傷を持っている。


それでも、支え合えば歩いていける。


清子は眠る孫たちを見ながら思った。


(この子たちには、私たちとは違う未来を歩いてほしい。)


その願いだけを胸に。


清子はまた、家族を守る母として生きていく。


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