第四十七章 束の間の幸せ
正恵と來仁人が夫婦になってから、しばらくの月日が流れた。
正恵は、久しぶりに「家」というものを感じていた。
朝起きると、依子の声が聞こえる。
台所では仁人が手伝いをしている。
時には、前の晩に少し酒が残っているのか、仁人が湯気の立つ茶を飲みながら「頭が重い」と苦笑することもあった。けれど、そんな朝でさえ、依子に「おはよう」と声をかける仁人の顔は、どこか照れくさそうで、正恵はそれを見るたびに胸が温かくなった。
決して裕福な暮らしではなかった。
けれど、そこには以前にはなかった穏やかな時間があった。
怒鳴り声に怯えることもない。
誰かの機嫌をうかがって暮らす必要もない。
正恵にとって、それだけで十分幸せだった。
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仁人は、再婚してからも依子を大切にしていた。
血のつながりはない。
それでも、仁人は依子を自分の子どものように接した。
学校で嫌なことがあった日には、黙って話を聞いた。
転んで泣いた時には、傷を手当てした。
誕生日には、小さな贈り物を用意した。
仕事帰りに仲間と一杯飲んでくることもあったが、酔っていても依子の前ではなるべく笑顔を崩さず、少し赤くなった頬を手でこすりながら「今日は少し飲みすぎたな」と自分で苦笑することもあった。そんな姿も、依子にはどこか頼もしく映っていた。
依子にとって仁人は、いつしか「おじさん」ではなくなっていた。
「お父さん。」
初めてそう呼ばれた日。
仁人は驚いた顔をした。
そして、少しだけ目を潤ませた。
「……もう一回、呼んでくれるか?」
依子は不思議そうな顔をしながら笑った。
「お父さん。」
その瞬間、仁人は依子を強く抱きしめた。
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その姿を見ていた正恵は、胸がいっぱいになった。
一度目の結婚では、家族を作ることが怖くなっていた。
愛されることを諦めていた。
しかし今は違う。
もう一度、人を信じることができる。
そう思えていた。
清子も、そんな娘の変化を喜んでいた。
「正恵。」
「今度は、あなたが笑っているね。」
その言葉に、正恵は少し照れながら笑った。
「うん。」
「私、幸せになってもいいんだって思えるようになった。」
清子は優しく頷いた。
「あなたはずっと、幸せになる資格があったんだよ。」
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そして数年後。
正恵のもとに、新しい命が宿った。
妊娠を知った時、正恵はしばらく言葉が出なかった。
嬉しさ。
不安。
様々な感情が入り混じった。
一度、母になる喜びを知っている。
けれど同時に、依子を守るために苦しんだ過去もあった。
「私……また母親になるんだね。」
お腹に手を当てながら、正恵は静かに呟いた。
仁人は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。」
「今度は、俺が君と子どもを守る。」
その言葉を聞き、正恵は涙を浮かべた。
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出産の日。
家族は病院でその瞬間を待った。
清子も駆けつけた。
娘が再び母になる。
その姿を見るだけで、清子の胸には長い年月がよみがえった。
自分も、何もない場所で子どもを産んだ。
医者もいなかった。
助けてくれる人もいなかった。
ただ、生まれてくる命を守るために必死だった。
その娘が今、安心できる場所で命を迎えようとしている。
それだけで、清子には大きな意味があった。
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そして。
小さな産声が響いた。
「女の子です。」
その言葉に、正恵は涙を流した。
腕の中に抱かれた小さな命。
「あなたが……私の子なのね。」
仁人も、静かにその姿を見つめていた。
「名前は……。」
正恵は優しく微笑んだ。
「瑞希。」
希望のある未来を歩んでほしい。
そんな願いを込めた名前だった。
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瑞希の誕生を、清子は心から喜んだ。
これまで何度も奪われそうになった家族。
戦争。
貧困。
差別。
別れ。
それでも命は繋がってきた。
「こんなに小さな命が……。」
清子は瑞希の手をそっと握った。
「この子たちには、私たちみたいな苦労をさせたくないね。」
正恵は頷いた。
「うん。」
「絶対に守る。」
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しかし。
幸せな時間は、永遠ではなかった。
最初の変化は、本当に小さなものだった。
仁人が仕事仲間との付き合いで酒を飲んで帰ってくる日が増えた。
「今日は付き合いなんだ。」
そう言って笑う仁人。
その笑い方は、以前より少し大きく、どこか無理に明るく見えることもあった。酔いが回っている日は、玄関先で靴を脱ぐ手つきが少し乱れ、正恵が「大丈夫?」と声をかけると、「平気だ」と短く返す。その一言に、ほんのわずかな棘が混じることもあったが、正恵はまだ深く気に留めなかった。
正恵も最初は何も思わなかった。
誰にだって疲れる日はある。
息抜きも必要だ。
そう思っていた。
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ある夜。
仁人は少し酔った状態で帰ってきた。
「遅かったね。」
正恵が声をかける。
すると仁人は、普段とは違う表情を見せた。
「……俺だって疲れてるんだよ。」
「分かってるよ。」
正恵は驚きながら答える。
「責めているわけじゃない。」
しかし、仁人は苛立ったように黙り込んだ。
その空気に、依子は不安そうに瑞希を抱きしめた。
正恵はその姿を見て、胸がざわついた。
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翌朝。
仁人は何事もなかったように謝った。
「昨日は悪かった。」
「酒が入っていた。」
正恵は頷いた。
「うん……。」
許したかった。
信じたかった。
この人だけは違うと思いたかった。
でも、その時。
正恵の胸の奥に、昔の記憶が一瞬よみがえった。
怒鳴り声。
怯える日々。
逃げるように帰ってきた自分。
(まさか……。)
正恵は首を振った。
「違う。」
「仁人さんは、あの人とは違う。」
そう自分に言い聞かせた。
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清子は、娘の小さな変化に気づいていた。
母親というものは、子どもの表情を見れば分かる。
正恵は笑っている。
けれど、どこか無理をしている。
清子は何も言わず、ただ見守った。
しかし心の奥では、小さな不安が芽生えていた。
また娘が傷つくのではないか。
また大切な人に裏切られるのではないか。
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瑞希という新しい命が生まれた。
家族は幸せの中にいた。
しかし、その幸せの隣には、少しずつ暗い影が近づいていた。
正恵はまだ知らなかった。
これから先、自分がもう一度「家族を守る」という戦いに向き合うことになることを。




