第四十章 帰る場所
依子が生まれてから、正恵の毎日は、喜びよりも先に、息の詰まるような苦しさに満ちていった。
母になれたことは、確かに嬉しかった。
産声を聞いた瞬間の震えも、腕の中に抱いたときの重みも、正恵は今でもはっきり覚えている。小さな指が自分の指をぎゅっと握るたび、胸の奥がじんと熱くなった。夜泣きに眠れなくても、粗末な布で縫った産着を洗いながら手が荒れても、それでも依子がそばにいるだけで、正恵は救われていた。
けれど、その温もりを踏みにじるように、姑の言葉は日ごとに鋭さを増していった。
「女の子しか産めない嫁に、何の価値があるんだい。」
「頼家の血を残せないなら、ここにいる意味はない。」
食卓の向こうから投げつけられるその声は、まるで冷たい石のようだった。正恵は何も言い返せず、ただ膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みだけが自分を現実につなぎとめる。依子を抱いているときでさえ、姑の視線は容赦なく突き刺さった。
「泣かせるんじゃないよ。母親なら、もっとしっかりしな。」
そう言われるたび、正恵は唇を噛んだ。以前なら、どんな言葉も飲み込めた。自分ひとりが傷つくのなら、耐えることもできた。けれど今は違う。依子がいる。まだ何も知らないこの子の前で、自分が崩れてしまうわけにはいかなかった。
それでも、心は少しずつ削られていった。
朝、井戸端で水を汲むだけで足が重い。台所に立てば、味噌の匂いに吐き気が混じる。姑の足音が近づくだけで背筋がこわばり、胸が苦しくなった。依子が泣けば急いで抱き上げたいのに、腕が鉛のように重くて動かない日もあった。眠っても眠っても疲れが抜けず、夜中に目を覚ませば、暗い天井を見つめたまま朝を迎えることが増えていく。
成一は、そんな正恵に気づいていた。
気づいてはいたが、母親に逆らうことができなかった。
「母さんも悪気があるわけじゃない。」
その言葉を聞くたび、正恵の心は、少しずつ、確実に冷えていった。
悪気がなければ、人を傷つけてもいいのか。
悪気がなければ、何度でも踏みにじっていいのか。
正恵は返事をする気力さえ失い、ただ黙ってうつむくようになった。食事の味は分からない。笑おうとしても頬がうまく動かない。依子が小さく笑いかけてくれても、その笑顔を受け止める余裕すらない夜があった。
ある日、姑に「役立たず」と吐き捨てられたあと、正恵は台所の隅でしばらく動けなかった。手にしていた茶碗を落としそうになり、慌てて抱え直す。指先が震えている。胸の奥がざわざわと騒ぎ、息を吸っても吸っても足りない。涙が出そうになるのを必死でこらえ、奥歯を噛みしめた。
泣いてはいけない。
ここで泣けば、もっとひどい言葉が返ってくる。
そう分かっているのに、視界が滲んだ。依子の寝息が聞こえる部屋へ戻る途中、正恵は壁に手をついて、ようやく立っているような状態だった。
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やがて、ある夜のことだった。
家じゅうが寝静まり、外では風が乾いた土を撫でる音だけがしていた。正恵は暗い部屋の隅で、依子を胸に抱いたまま、とうとう堪えきれずに涙をこぼした。
「ごめんね……。」
声はかすれて、ほとんど息のようだった。
「お母さん、強くなれないかもしれない。」
依子は何も知らない。ただ、母の頬に落ちる涙の気配を感じたのか、小さな手を伸ばして正恵の指を握った。まだ柔らかく、頼りないその温もりが、暗闇の中でひどくまぶしかった。
その瞬間、正恵の中で何かがはっきりと変わった。
(この子を守らなきゃ。)
(私が壊れたら、この子を守る人がいなくなる。)
依子の寝息は小さく、か細い。それでも、その命は確かにここにあった。自分が沈んでしまえば、この子まで沈んでしまう。そう思ったとき、正恵は初めて、自分の苦しみを抱えたままではいられないのだと悟った。
涙を拭う。震える手で依子を抱き直す。胸の奥に残っていた最後の力をかき集めるようにして、正恵は静かに息を整えた。
その夜、正恵は決意した。
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翌朝。
まだ空気の冷たい時間に、正恵は成一の前へ立った。昨夜ほとんど眠れなかった目は重く、頬はこけていた。それでも、逃げなかった。依子を守るためには、もう目を逸らしてはいけないと思ったからだ。
「成一さん。」
呼びかけた声は震えていたが、正恵は続けた。
「私は……もうここでは暮らせません。」
成一は、まるで突然殴られたような顔をした。
「正恵……。」
「あなたが優しいことは分かっています。」
それでも、と正恵は息を飲み込みながら言葉をつないだ。
「でも、私はもう限界です。」
喉の奥が熱くなり、視界がまた滲む。けれど、ここで泣いてしまえば終わってしまう気がした。正恵は必死に涙をこらえ、まっすぐ成一を見た。
「依子まで、女だから価値がないと言われる場所で育てたくありません。」
その言葉は、正恵自身の胸をも深くえぐった。けれど、言わなければならなかった。依子の小さな寝顔が、昨夜の温もりが、正恵の背中を押していた。
成一は何も言えなかった。
母の顔色をうかがい、妻の苦しみに目を向けることを後回しにしてきた自分。守るべきものを守れなかった自分。その事実が、ようやく胸に落ちてきたのだ。
正恵の肩は細く、今にも折れてしまいそうだった。なのに、その細い肩で、彼女は依子を守ろうとしている。成一は初めて、自分がどれほど無力だったかを思い知らされた。
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それから数日後、離婚の日を迎えた。
正恵は静かに荷物をまとめた。
多くはなかった。
自分の着替え。依子の小さな服。洗い替えの布。母からもらった大切な布袋。指先で触れるたび、遠い故郷の匂いがかすかに蘇る、それだけが、正恵に残された確かなものだった。
荷を結ぶ紐を締める手が、何度も震えた。ここを出ることが怖くないわけではない。行く先がすぐに安らぎをくれるとも限らない。それでも、もう戻れない場所にしがみつくよりはましだった。
姑は最後まで冷たい目を向けた。
「戻ってくる場所なんてないよ。」
その声は、まるで追い払うようだった。
正恵はもう何も言い返さなかった。言い返す気力も、怒りも、とうに擦り切れていた。ただ、依子を抱き上げる。小さな体は軽く、腕の中で温かかった。
「行こう。」
そう囁くと、依子は意味も分からず、正恵の襟元を小さな手でつかんだ。
「あなたには、あなたを大切にしてくれる場所があるから。」
その言葉は、依子に向けたものであり、同時に自分自身への約束でもあった。
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そして、しばらくして。
正恵は久しぶりに清子の家へ帰った。
門をくぐった瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、音を立てて崩れた。見慣れた庭、土の匂い、母の気配。どれも懐かしくて、どれも今の正恵には眩しすぎた。
「お母さん……。」
その一言を口にした途端、堰を切ったように涙があふれた。
清子は何も聞かなかった。ただ、娘を強く抱きしめた。
「よく帰ってきたね。」
その声を聞いた瞬間、正恵は子どものように泣き崩れた。結婚してから、一度も見せなかった涙だった。肩を震わせ、息を詰まらせながら、正恵は何度も何度も「ごめんなさい」と「疲れた」を繰り返した。
「私……頑張ったの。」
「でも……もう疲れた。」
清子は責めなかった。どうして我慢できなかったのかとも、もっと耐えられなかったのかとも言わなかった。ただ、娘の背中をゆっくり撫で続けた。
「もう頑張らなくていい。」
「ここでは、あなたは娘だから。」
その言葉に、正恵の胸の奥で何かがほどけた。ずっと張りつめていた糸が切れ、堪えていたものが一気にあふれ出す。正恵は清子の肩に顔を埋め、子どものように泣いた。
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依子は清子の腕の中で、安心したように眠っていた。
清子はその小さな顔を見つめる。丸い頬、閉じたまぶた、かすかな寝息。戦争で故郷を失い、異国で生き抜いてきた自分。苦労して育てた子どもたち。その子どもが今、自分と同じように傷つき、疲れ果てて帰ってきた。
清子は静かに、しかし強く誓った。
「この子たちは、私が守る。」
どれだけ時代が苦しくても。
どれだけ運命が残酷でも。
家族だけは失わない。
そう心に決めた。
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その頃、日本へ帰るための手続きを進めていた健一から、また新たな知らせが届いていた。
清子たちが日本へ帰れる可能性。
その知らせは、傷ついた正恵にも新しい人生を与えることになる。
しかしその前に、清子は子どもたちへ隠し続けてきた大きな秘密を明かさなければならなかった。




