第三十九章 母になる決意
依子が生まれてから数か月。
正恵の生活は、以前よりさらに厳しいものになっていた。
朝は夜が明ける前に起き、家族の食事を作る。
依子が泣けば抱き上げ、眠れば急いで家事へ戻る。
眠る間も惜しんで動き続ける毎日は、若い身体には堪えたが、それでも正恵の胸の奥には、これまで知らなかった静かな熱が灯っていた。
母親になった喜びは大きかった。
小さな手。
柔らかな頬。
自分を見つめる純粋な瞳。
その全てが、正恵の生きる力になっていた。
抱き上げるたびに、こんなにもか弱い命が自分の腕の中にあるのだと思うと、嬉しさと同時に、言葉にできないほどの責任が胸にのしかかった。
この子を守りたい。
泣いても、笑っても、病んでも、飢えても、最後までこの手で守り抜きたい。
そう思うたび、正恵は自分が母になったのだと、ようやく実感した。
しかし、姑の態度は変わらなかった。
「泣かせるんじゃないよ。」
「赤ん坊一人もまともに育てられないのかい。」
「女の子なんだから、そんなに手をかけても仕方ないだろう。」
その言葉を聞くたび、正恵の胸は痛んだ。
依子は何も悪くない。
ただ生まれてきただけ。
それなのに、性別だけで価値を決められる。
正恵には、それがどうしても許せなかった。
自分もまた、女として生まれたことで幾度となく軽んじられてきた。だからこそ、目の前の小さな娘にまで同じ冷たさが向けられることが、たまらなく悔しかった。
この子には、せめて自分のような思いをさせたくない。
その一心で、正恵は黙って耐えた。
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ある夜。
依子が熱を出した。
小さな身体が熱で赤くなり、苦しそうに息をしている。
正恵は必死に濡れた布で額を冷やした。
「大丈夫よ。」
「お母さんがいるからね。」
何度も声をかける。
けれど、熱にうなされる依子の呼吸は浅く、か細く、正恵の胸を締めつけた。
もしこのまま熱が下がらなかったら。
もし、もっと悪くなったら。
そんな考えが一度よぎるたび、正恵は自分を叱りつけるように首を振った。母親なのだから、弱気になってはいけない。そう思えば思うほど、手の震えは止まらなかった。
成一も心配そうに側に座っていた。
「明日、薬を探してくる。」
「ありがとう。」
正恵は小さく頷いた。
その声は落ち着いて聞こえたが、胸の内では不安が渦を巻いていた。依子を失うかもしれないという恐れは、正恵にとって自分の命を削られるよりも苦しかった。
この子が生まれてから、正恵の世界は変わった。
自分の痛みよりも、この子の熱のほうが怖い。
自分の眠気よりも、この子の泣き声のほうが切ない。
母になるとは、こんなにも心を持っていかれることなのだと、正恵は初めて知った。
その姿を見て、成一は思った。
正恵はまだ若い。
十代の少女だったはずなのに、今は誰よりも強い母親になっている。
だが、その強さは生まれつきのものではない。愛するものを失いたくないという切実さが、彼女をそうさせているのだと、成一には分かった。
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翌朝。
依子の熱は下がった。
正恵は小さな寝顔を見つめながら、静かに涙を流した。
安堵で力が抜けると同時に、昨夜まで押し殺していた恐怖が一気にあふれ出したのだった。
「お母さんね。」
「あなたが生まれてきてくれて、本当に嬉しい。」
「女の子だからなんて、絶対に思わない。」
「あなたは、あなたのままでいいの。」
その言葉は、幼い頃から家族を守ってきた母・清子の姿と重なっていた。
清子もきっと、同じ気持ちで自分たちを育ててくれた。
どれだけ貧しくても。
どれだけ苦しくても。
命だけは平等に愛してくれた。
正恵は改めて思った。
(私も、お母さんみたいな母親になる。)
それはただ優しい母になるという意味ではなかった。誰に何を言われても、子どもの存在そのものを否定させない母になるという、静かで強い決意だった。
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一方、果樹園では新潔と定子の関係が深まっていた。
定子は、新潔の過去を少しずつ知っていった。
戦争で人生を変えられたこと。
幼い頃から家族のために働いてきたこと。
自分のことより、いつも家族を優先してきたこと。
その話を聞くたび、定子は胸の奥に、言いようのない痛みを覚えた。新潔は誰かに甘えることを知らないまま、大人になってしまったのだと思ったからだ。
ある日、定子は尋ねた。
「新潔さんは、自分の幸せを考えたことがありますか?」
新潔は少し考えた。
「……ありませんでした。」
「母や兄弟が笑ってくれるなら、それでいいと思っていました。」
定子は悲しそうに微笑む。
「でも、新潔さん自身が幸せになることも大事です。」
その言葉に、新潔は黙った。
誰かにそんなことを言われたのは初めてだった。
自分の幸せを願ってもいいのだと、そう言われたことが、胸の奥に小さな灯をともした。
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その冬。
新潔は家族へ手紙を書いた。
「母さん。
元気にしていますか。
こちらで大切な人ができました。
優しくて、強い人です。
いつか紹介したいと思っています。」
清子はその手紙を読み、微笑んだ。
「新潔にも……大切な人ができたのね。」
子どもたちが大人になっていく。
嬉しいはずなのに、少し寂しくもあった。
自分の手から離れていくような気がした。
けれど、それも母親の幸せなのだと思った。
子どもが自分の知らない場所で誰かを愛し、誰かに愛されるようになること。それは誇らしいことのはずなのに、胸のどこかがひどく静かに痛んだ。守るべきものが増えた喜びと、もう以前のようには抱きしめていられない寂しさ。その二つが、清子の中で同じ重さで揺れていた。
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そんなある日。
清子のもとへ、一通の知らせが届いた。
差出人は、日本にいる弟・健一だった。
いつもの手紙とは違った。
封を開ける清子の手が震える。
中には、長い年月探し続けた答えが書かれていた。
「姉さん。
関係機関へ相談を続けています。
戦後、中国に残された日本人を帰国させる制度が進められています。
姉さんが日本人であることを確認できれば、帰国できる可能性があります。」
清子は何度もその文章を読み返した。
帰国。
その二文字。
何十年も夢に見た故郷。
胸の奥で、忘れていたはずの景色が一気に蘇る。潮の匂い、土の冷たさ、遠い空の色。帰れるかもしれないという喜びは、あまりにも眩しくて、清子はしばらく息をすることさえ忘れた。
しかし同時に、恐怖もあった。
今まで子どもたちには、自分が日本人であることを話していない。
もし話したら、どう思うだろう。
自分たちを騙していたと思われないだろうか。
帰りたい。
けれど、帰ればこの家族はどうなるのだろう。
満州で生きてきた年月は、嘘だったのだろうか。
清子は手紙を胸に抱えた。
「ごめんね……。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
戦争が奪った故郷。
隠さなければ守れなかった家族。
その秘密を、いつか子どもたちに話す日が近づいていた。
嬉しさは確かにあった。だがそれ以上に、長く閉じ込めてきた真実が扉を叩き始めたような、冷たい不安が清子の背中を這った。帰国は救いであるはずなのに、同時に、これまで守ってきたものを壊してしまうかもしれない。母としての喜びと、母としての罪悪感が、静かにせめぎ合っていた。
⸻
そして数か月後。
新潔と定子の間にも、新しい命が宿る。
その知らせを聞いた清子の人生は、さらに大きく動き始めることになる。
日本へ帰る道。
そして、初めて家族へ真実を告げる日。
その時は、もうすぐそこまで来ていた。




