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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第四部 それぞれの人生
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第三十九章 母になる決意

依子が生まれてから数か月。


正恵の生活は、以前よりさらに厳しいものになっていた。


朝は夜が明ける前に起き、家族の食事を作る。


依子が泣けば抱き上げ、眠れば急いで家事へ戻る。


眠る間も惜しんで動き続ける毎日は、若い身体には堪えたが、それでも正恵の胸の奥には、これまで知らなかった静かな熱が灯っていた。


母親になった喜びは大きかった。


小さな手。


柔らかな頬。


自分を見つめる純粋な瞳。


その全てが、正恵の生きる力になっていた。


抱き上げるたびに、こんなにもか弱い命が自分の腕の中にあるのだと思うと、嬉しさと同時に、言葉にできないほどの責任が胸にのしかかった。


この子を守りたい。


泣いても、笑っても、病んでも、飢えても、最後までこの手で守り抜きたい。


そう思うたび、正恵は自分が母になったのだと、ようやく実感した。


しかし、姑の態度は変わらなかった。


「泣かせるんじゃないよ。」


「赤ん坊一人もまともに育てられないのかい。」


「女の子なんだから、そんなに手をかけても仕方ないだろう。」


その言葉を聞くたび、正恵の胸は痛んだ。


依子は何も悪くない。


ただ生まれてきただけ。


それなのに、性別だけで価値を決められる。


正恵には、それがどうしても許せなかった。


自分もまた、女として生まれたことで幾度となく軽んじられてきた。だからこそ、目の前の小さな娘にまで同じ冷たさが向けられることが、たまらなく悔しかった。


この子には、せめて自分のような思いをさせたくない。


その一心で、正恵は黙って耐えた。



ある夜。


依子が熱を出した。


小さな身体が熱で赤くなり、苦しそうに息をしている。


正恵は必死に濡れた布で額を冷やした。


「大丈夫よ。」


「お母さんがいるからね。」


何度も声をかける。


けれど、熱にうなされる依子の呼吸は浅く、か細く、正恵の胸を締めつけた。


もしこのまま熱が下がらなかったら。


もし、もっと悪くなったら。


そんな考えが一度よぎるたび、正恵は自分を叱りつけるように首を振った。母親なのだから、弱気になってはいけない。そう思えば思うほど、手の震えは止まらなかった。


成一も心配そうに側に座っていた。


「明日、薬を探してくる。」


「ありがとう。」


正恵は小さく頷いた。


その声は落ち着いて聞こえたが、胸の内では不安が渦を巻いていた。依子を失うかもしれないという恐れは、正恵にとって自分の命を削られるよりも苦しかった。


この子が生まれてから、正恵の世界は変わった。


自分の痛みよりも、この子の熱のほうが怖い。


自分の眠気よりも、この子の泣き声のほうが切ない。


母になるとは、こんなにも心を持っていかれることなのだと、正恵は初めて知った。


その姿を見て、成一は思った。


正恵はまだ若い。


十代の少女だったはずなのに、今は誰よりも強い母親になっている。


だが、その強さは生まれつきのものではない。愛するものを失いたくないという切実さが、彼女をそうさせているのだと、成一には分かった。



翌朝。


依子の熱は下がった。


正恵は小さな寝顔を見つめながら、静かに涙を流した。


安堵で力が抜けると同時に、昨夜まで押し殺していた恐怖が一気にあふれ出したのだった。


「お母さんね。」


「あなたが生まれてきてくれて、本当に嬉しい。」


「女の子だからなんて、絶対に思わない。」


「あなたは、あなたのままでいいの。」


その言葉は、幼い頃から家族を守ってきた母・清子の姿と重なっていた。


清子もきっと、同じ気持ちで自分たちを育ててくれた。


どれだけ貧しくても。


どれだけ苦しくても。


命だけは平等に愛してくれた。


正恵は改めて思った。


(私も、お母さんみたいな母親になる。)


それはただ優しい母になるという意味ではなかった。誰に何を言われても、子どもの存在そのものを否定させない母になるという、静かで強い決意だった。



一方、果樹園では新潔と定子の関係が深まっていた。


定子は、新潔の過去を少しずつ知っていった。


戦争で人生を変えられたこと。


幼い頃から家族のために働いてきたこと。


自分のことより、いつも家族を優先してきたこと。


その話を聞くたび、定子は胸の奥に、言いようのない痛みを覚えた。新潔は誰かに甘えることを知らないまま、大人になってしまったのだと思ったからだ。


ある日、定子は尋ねた。


「新潔さんは、自分の幸せを考えたことがありますか?」


新潔は少し考えた。


「……ありませんでした。」


「母や兄弟が笑ってくれるなら、それでいいと思っていました。」


定子は悲しそうに微笑む。


「でも、新潔さん自身が幸せになることも大事です。」


その言葉に、新潔は黙った。


誰かにそんなことを言われたのは初めてだった。


自分の幸せを願ってもいいのだと、そう言われたことが、胸の奥に小さな灯をともした。



その冬。


新潔は家族へ手紙を書いた。


「母さん。


元気にしていますか。


こちらで大切な人ができました。


優しくて、強い人です。


いつか紹介したいと思っています。」


清子はその手紙を読み、微笑んだ。


「新潔にも……大切な人ができたのね。」


子どもたちが大人になっていく。


嬉しいはずなのに、少し寂しくもあった。


自分の手から離れていくような気がした。


けれど、それも母親の幸せなのだと思った。


子どもが自分の知らない場所で誰かを愛し、誰かに愛されるようになること。それは誇らしいことのはずなのに、胸のどこかがひどく静かに痛んだ。守るべきものが増えた喜びと、もう以前のようには抱きしめていられない寂しさ。その二つが、清子の中で同じ重さで揺れていた。



そんなある日。


清子のもとへ、一通の知らせが届いた。


差出人は、日本にいる弟・健一だった。


いつもの手紙とは違った。


封を開ける清子の手が震える。


中には、長い年月探し続けた答えが書かれていた。


「姉さん。


関係機関へ相談を続けています。


戦後、中国に残された日本人を帰国させる制度が進められています。


姉さんが日本人であることを確認できれば、帰国できる可能性があります。」


清子は何度もその文章を読み返した。


帰国。


その二文字。


何十年も夢に見た故郷。


胸の奥で、忘れていたはずの景色が一気に蘇る。潮の匂い、土の冷たさ、遠い空の色。帰れるかもしれないという喜びは、あまりにも眩しくて、清子はしばらく息をすることさえ忘れた。


しかし同時に、恐怖もあった。


今まで子どもたちには、自分が日本人であることを話していない。


もし話したら、どう思うだろう。


自分たちを騙していたと思われないだろうか。


帰りたい。


けれど、帰ればこの家族はどうなるのだろう。


満州で生きてきた年月は、嘘だったのだろうか。


清子は手紙を胸に抱えた。


「ごめんね……。」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


戦争が奪った故郷。


隠さなければ守れなかった家族。


その秘密を、いつか子どもたちに話す日が近づいていた。


嬉しさは確かにあった。だがそれ以上に、長く閉じ込めてきた真実が扉を叩き始めたような、冷たい不安が清子の背中を這った。帰国は救いであるはずなのに、同時に、これまで守ってきたものを壊してしまうかもしれない。母としての喜びと、母としての罪悪感が、静かにせめぎ合っていた。



そして数か月後。


新潔と定子の間にも、新しい命が宿る。


その知らせを聞いた清子の人生は、さらに大きく動き始めることになる。


日本へ帰る道。


そして、初めて家族へ真実を告げる日。


その時は、もうすぐそこまで来ていた。


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