第三十八章 小さな命と重い期待
広州へ嫁いで一年が過ぎた。
正恵は、この土地の匂いにも井戸水の冷たさにも、少しずつ慣れていた。けれど、姑の視線だけは、いつまでたっても慣れることができなかった。
「遅い」
「薄い」
「嫁に来たなら先に動きなさい」
包丁を置けば舌打ちが飛び、掃除の隅に埃が残っていれば責められる。黙って頭を下げても、許しは返ってこない。
そんな中でも、成一だけは変わらず優しかった。
「疲れているだろう。少し休め」
「大丈夫です。私はこの家の嫁ですから」
そう答えるたび、正恵は自分を奮い立たせた。弱音を吐けば怠け者と言われる。だから痛む足を引きずってでも立ち続けた。
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ある朝、正恵は急に食べ物の匂いを受けつけなくなった。身体は鉛のように重く、井戸端でしゃがみ込んだまま動けないこともあった。最初は疲れだと思っていたが、数日後、近所の女に言われて息をのむ。
「もしかして……おめでたじゃないのかい?」
正恵は自分の腹に手を当てた。まだ何も変わらない。けれど、その奥に小さな命がいる――そう思った瞬間、胸が熱くなった。
嬉しかった。けれど、同じだけ怖かった。
母になれるのか。姑は何と言うのか。もし役に立たない子だと責められたら。もし、この子まで値踏みされたら。
それでも、掌の下にあるかすかな温もりだけは、確かに守りたかった。
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その夜、正恵は成一に告げた。
「成一さん……赤ちゃんが、できました」
成一は目を見開き、すぐに笑った。
「本当か。ありがとう、正恵」
その笑顔に、正恵の涙がこぼれた。
「私、ちゃんと母親になれるでしょうか」
「なれるさ。君ならきっと大丈夫だ」
その言葉はうれしかった。だが、喜びが満ちるほど、姑の顔が浮かぶ。次に聞かれるのは、男か女か。跡取りになるかどうか。祝福より先に、また値踏みされる――そう思うだけで、胸の温かさが冷えていった。
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案の定、姑は妊娠を聞くなり言った。
「男の子だろうね」
「まだ分かりません」と答えると、冷たい目が返ってきた。
「分からないじゃ困るんだよ。この家に必要なのは、頼家の名を継ぐ子だ」
「女なら手間ばかりかかる。嫁は子を産んでこそだよ。産めないなら、食べる分だけ邪魔になる」
正恵は息を呑んだ。
お腹の子は、ただ生まれてくるだけでいいはずだった。男でも女でも、かけがえのない命のはずだった。なのにこの家では、まだ顔も見ぬ子が役に立つかどうかで測られる。正恵自身まで、子を産む道具のように扱われる。
嬉しさは、屈辱に変わった。守りたい気持ちと、期待に応えなければという恐れが、胸の中でぶつかり合う。
その夜、正恵は布団の中で何度も腹に手を当てた。
どうか無事でいて。どんな子でもいい、元気に生まれてきて。
祈るたび、姑の声が耳の奥で冷たく響いた。
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月日が流れ、出産が近づいたころ、正恵は母・清子へ手紙を書いた。
「お母さん。
私も、母になるみたいです。
不安はあるけれど、お母さんが私を守ってくれたように、私もこの子を守りたいです。」
書きながら、涙が紙を濡らした。うれしい。けれど、怖い。産んだあと、この子を抱いていられるのか。女の子なら取り上げられるのではないか。そんな不安まで浮かび、何度も筆が止まった。
それでも最後に、震える手で書き添える。
「私は、この子を守ります」
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出産の日。
長い苦しみの末、小さな産声が上がった。
「女の子です」
助産師の声に、正恵は泣いた。
「女の子……」
腕に抱かれた小さな命は、あまりにも軽かった。けれど、その重さこそが正恵には愛おしかった。
「あなたが、私の娘なのね」
名前は依子。清らかに、人を思いやれる子に――そう願ってつけた名だった。
小さな指が正恵の指をかすかに握る。その弱い力に、正恵は胸を締めつけられた。こんなにも小さな命を、誰が守るのか。違う。自分が守るのだ。何があっても、この子だけは離さない。
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だが、姑は赤ん坊を見るなり顔を曇らせた。
「……女か」
その一言が、正恵の胸を刺した。
「でも、この子は私たちの大切な子です」と成一が言う。
姑は鼻で笑った。
「男を産めなかった嫁に変わりはないよ。役に立つかどうか、これから見ものだね」
正恵は唇を噛んだ。涙がにじむ。けれど、依子を抱き直すと、もう泣いてはいられなかった。この子まで傷つけられるのは嫌だった。自分が何を言われてもいい。だが、この小さな命に冷たい目を向けることだけは許せない。
「この子だけは、私が守る」
心の中で、そう強く誓った。
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一方、果樹園では新潔と定子の距離も少しずつ縮まっていた。
仕事帰り、新潔は小さな布袋を差し出す。
「母が作ったものです。家族のお守りみたいなものなので」
定子は大切そうに受け取った。
「こんな大事なものを、私に?」
「あなたにも持っていてほしかったんです」
定子は静かに微笑んだ。言葉は少なくても、心は確かに近づいていた。
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同じ頃、清子のもとには日本の弟・健一から久しぶりの手紙が届いていた。
「姉さん。
まだ諦めていません。
必ず、もう一度姉さんと会える方法を探しています。」
清子はその手紙を胸に抱いた。遠い日本。もう帰れないと思っていた故郷。だが、運命の歯車は少しずつ動き始めていた。




