第三十七章 遠く離れた家族
広州へ嫁いでから、一か月が過ぎた。
正恵はまだ新しい家にも土地にも慣れず、毎朝夜明け前には起きて台所へ立っていた。
米を研ぎ、薪を割り、朝餉の支度をする。
食事が終われば畑仕事。
昼は洗濯、夕方には夕飯の支度。
夜になれば縫い物をし、ようやく布団へ入る頃には身体中が重かった。
それでも正恵は一度も弱音を吐かなかった。
(お母さんも、もっと苦しい時代を生きてきた。)
(私も頑張らなくちゃ。)
その思いだけが、正恵を支えていた。
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夫の成一は、相変わらず穏やかな人だった。
仕事から帰ると、
「今日もお疲れさま。」
そう言って、正恵の手から重い荷物を受け取ってくれる。
ある晩、二人は縁側で涼んでいた。
「慣れたかい?」
成一が静かに尋ねる。
正恵は少し笑って答えた。
「まだ少しだけ。」
「でも、成一さんが優しいから頑張れます。」
その言葉に、成一は照れくさそうに笑った。
「僕も、正恵が来てくれてよかった。」
その穏やかな時間だけは、正恵にとって心が休まるひとときだった。
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しかし、その様子を面白く思わない人物がいた。
成一の母――正恵にとっての姑だった。
「正恵。」
朝食の席で、姑は味噌汁を一口飲むと眉をひそめた。
「味が薄いね。」
「申し訳ありません。」
「作り直します。」
正恵は慌てて立ち上がる。
「そんなことも分からないのかい。」
「水上の娘は、こんな料理しか作れないのか。」
責めるような口調だった。
成一は口を開こうとしたが、
「母さん……。」
姑は鋭く睨み返した。
「男は黙って食べてなさい。」
その一言で、成一は言葉を飲み込んでしまった。
正恵はそんな夫を責めることはできなかった。
この家では、母親の言葉が絶対だったからだ。
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それからというもの、小さな失敗をするたびに姑は嫌味を言うようになった。
「掃除がなってない。」
「洗濯物の畳み方が違う。」
「そんなことも母親から教わらなかったのか。」
正恵は何度も頭を下げた。
「申し訳ありません。」
「次は気を付けます。」
夜、一人になると涙がこぼれた。
それでも翌朝には笑顔を作った。
母を心配させたくなかった。
兄たちに知られたら、きっと怒ってしまう。
だから手紙にはこう書いた。
「私は元気です。
成一さんも優しくしてくれています。
広州にも少しずつ慣れてきました。」
本当のことは、一行も書かなかった。
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一方、果樹園では収穫の季節を迎えていた。
木々にはたわわに実がなり、働き手たちは朝から晩まで忙しく動き回っていた。
新潔と定子も汗を流しながら働いていた。
昼休み。
木陰に腰を下ろした定子が、小さな包みを差し出した。
「これ。」
「家で漬けた梅です。」
「疲れが少し取れますよ。」
新潔は驚いた。
「私にですか?」
「いつも助けてもらっていますから。」
新潔は梅を一つ口へ入れる。
強い酸味に思わず顔をしかめる。
それを見た定子が声を立てて笑った。
新潔もつられて笑った。
その笑い声は、果樹園に爽やかに響いた。
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夕暮れ。
二人は並んで歩く。
提灯の灯りが二人の足元を照らしていた。
「新潔さん。」
「はい。」
「家族に会いたくなること、ありませんか?」
新潔は少し空を見上げる。
「毎日ですよ。」
「母も、兄も姉も妹も。」
「会いたくない日はありません。」
定子は静かに頷いた。
「私もです。」
「だから……。」
少し照れながら続ける。
「こうして誰かと帰ると、少し寂しくなくなるんです。」
新潔は足を止めた。
「実は、私も同じことを思っていました。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
言葉は少なかった。
それでも、お互いの存在が少しずつ心の支えになっていることだけは確かだった。
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その頃、水上家では、清子が一通の手紙を書いていた。
宛名は、日本にいる弟・健一。
「健一。
子どもたちは皆、立派に育ちました。
正恵も嫁ぎました。
あなたは元気ですか。
私は今でも、日本の空を忘れた日はありません。」
手紙を書き終えた清子は、しばらく窓の外を見つめた。
夜空には、満天の星が輝いていた。
「あの星の向こうに、日本があるのね……。」
その小さな願いは、まだ誰にも話していない。
だが、その願いが現実となる日は、少しずつ近づいていた。
そして広州では、正恵の運命を大きく変える出来事が、静かに近づき始めていた。




