第三十六章 娘の旅立ち
果樹園で働き始めて半年。
新潔は仕事にも慣れ、定子と過ごす時間も少しずつ増えていた。
昼休みになれば自然と隣に座り、仕事帰りには暗くなる前まで一緒に歩く。
夏の名残を抱いた風が葉を揺らし、枝先では実った果実が陽を受けて淡く光っていた。遠くでは蝉の声がまだかすかに残り、足元の土は乾いた熱をやわらかく返してくる。
定子は新潔の目が夜になると見えにくくなることを知ってから、何も言わず歩幅を合わせてくれた。
その気遣いが、新潔には何よりもうれしかった。
「今日は疲れましたね。」
定子が微笑む。
「でも、今年は実がよく育っています。」
新潔も果樹園を見渡しながら頷いた。
枝いっぱいに実った果物は、夕方の斜めの光を受けて、まるで小さな灯りのように見えた。葉の間を抜ける風には、甘い香りが混じっている。
「そうですね。」
「収穫が終わったら、お母さんに果物を持って帰りたいです。」
「きっと喜びますよ。」
その笑顔を見て、新潔は自然と笑みを返した。
一方、水上家では、正恵が十六歳を迎えていた。
幼い頃は兄たちの後ろをついて歩いていた少女も、今では家事を手伝い、清子を支える立派な娘へと成長していた。
けれど、正恵自身はまだ、自分が「娘」から「嫁」へと変わるなど、少しも想像していなかった。
ある晩、夕食を終えた後。
窓の外では秋の気配を含んだ風が戸をかすかに鳴らし、台所には煮物の湯気と薪の匂いがまだ残っていた。
清子は正恵を隣へ呼んだ。
「正恵。」
「少し話があるの。」
正恵は不思議そうな顔で母の前に座る。
「何、お母さん?」
清子は少し言葉を選ぶように間を置いた。
その沈黙が、正恵には妙に長く感じられた。胸の奥が、理由もなくざわつく。母がこんなふうに改まって話すときは、たいてい大事なことだ。けれど、何を言われるのか見当もつかない。箸を置いた指先が、わずかに冷たくなっていく。
「実は……あなたに縁談があるの。」
正恵は目を丸くした。
「えっ……私?」
自分の声が、思ったよりも高く、頼りなく響いた。耳の奥で、その言葉だけが何度も反響する。縁談。嫁入り。頭では意味がわかっても、心がすぐには追いつかない。まだ十六歳。家のことを手伝い、兄妹のそばにいるのが当たり前で、遠い先のことだと思っていた。
「そう。」
「広州で農業を営んでいる頼さんというご家族よ。」
「息子さんの名前は、頼成一さん。」
「真面目で働き者だと聞いているわ。」
清子の声は穏やかだったが、正恵にはその一つ一つが、少しずつ自分の足元を揺らしていくように感じられた。
知らない家。知らない土地。知らない人の隣で生きていく。
その想像が胸に落ちた瞬間、正恵は息をするのも忘れた。驚きの奥から、じわじわと怖さが湧いてくる。嬉しいのか、悲しいのか、それすらわからない。ただ、今まで自分の中にあった「家」が、急に遠くへ離れていくようだった。
突然の話に、正恵は何も言えなかった。
まだ十六歳。
結婚など考えたこともなかった。
母の顔を見れば、そこには娘を思う真剣さがある。断ることなどできない。けれど、心のどこかでは、まだ子どものままでいたい自分が小さく震えていた。兄たちの笑い声、妹たちの気配、台所の匂い、夜に聞こえる家族の寝息。そうしたものが、これから少しずつ自分の手の届かない場所へ行ってしまうのだと思うと、胸がきゅっと痛んだ。
翌日、清子は正恵を連れて頼家を訪ねた。
朝の空気はひんやりとしていて、道端の草には露が残っていた。荷車の車輪が石を踏むたび、ぎしぎしと乾いた音が響く。
正恵はその音を聞きながら、何度も自分に言い聞かせていた。
大丈夫。まだ何も決まったわけじゃない。会ってみるだけ。そう思おう。
けれど、心の奥では別の声が囁く。
もし本当にここで決まったら、自分はこの家を出るのだ。母のそばを離れ、兄妹と別れ、見知らぬ家の人になるのだ、と。
成一は物静かな青年だった。
日に焼けた顔に、穏やかな目。
「初めまして。」
「頼成一です。」
正恵は少し緊張しながら頭を下げる。
「水上正恵です。」
短い挨拶だったが、成一の優しい口調に正恵の緊張は少し和らいだ。
庭先を歩きながら、成一が話しかける。
「結婚なんて急な話で驚きましたよね。」
正恵は苦笑した。
「はい。」
本当は、驚いたどころではなかった。胸の中がひっくり返ったようで、昨夜はほとんど眠れなかった。けれど、目の前の青年が気まずそうに笑うのを見ていると、少しだけ肩の力が抜ける。
「でも、私も同じです。」
成一も照れくさそうに笑う。
「僕もです。」
その笑顔は誠実で、不器用だった。
正恵は少しだけ安心した。
この人なら、少なくとも乱暴に自分を扱うような人ではないかもしれない。そう思えたことが、正恵には救いだった。だが同時に、安心した分だけ、別の寂しさが胸に広がる。知らない人なのに、これから夫になるかもしれない。そう考えると、現実がようやく形を持って迫ってきた。
帰り道、正恵は荷車の揺れに身を任せながら、黙っていた。
清子が何か話しかけても、うまく返事ができない。嬉しいとも嫌だとも言えない。ただ、心の中で何度も「本当にこれでいいのだろうか」と問い返していた。
けれど、その問いに答えてくれる人は誰もいない。
家に戻れば、いつもの夕餉の支度があり、いつもの声がある。けれど、正恵にはそれが、もう少しで終わってしまう日々のように思えてならなかった。
その夜、正恵はなかなか眠れなかった。
布団に入っても、目を閉じるたびに昼間の景色が浮かぶ。成一の穏やかな目、頼家の庭先、母の静かな声。どれも現実なのに、どこか遠い夢のようだった。
隣の部屋からは、兄妹たちの寝息がかすかに聞こえる。台所の戸が風に鳴る音、梁を渡る夜気の冷たさ。いつもと変わらない家の気配が、今夜に限ってはひどく愛おしく、胸を締めつけた。
この家を出たら、朝起きて母の背中を見ることも、妹たちの髪を結ってやることも、兄たちの何気ない言葉に笑うことも、当たり前ではなくなる。
そう思うと、急に涙がこみ上げてきた。
けれど、泣いてはいけない、と正恵は唇を噛んだ。
母は自分のために縁談を持ってきてくれたのだ。家のためでもあり、自分の将来のためでもある。ここで弱音を吐いてはいけない。怖いからといって逃げるわけにはいかない。そう何度も心の中で繰り返しながら、正恵は暗闇の中で静かに目を閉じた。
怖い。
寂しい。
それでも、行かなければならない。
その思いが、少しずつ正恵の中に沈んでいった。
数日後。
正恵は清子へ静かに言った。
「お母さん。」
「私……お嫁に行こうと思う。」
清子は娘の顔を見つめた。
その瞬間、正恵は母の目の奥に、安堵と寂しさが同時に浮かぶのを見た。自分もまた、同じように揺れているのだと気づく。母だって平気なわけではない。娘を送り出すことが、どれほど胸を痛めることか。そう思うと、正恵の喉の奥が熱くなった。
「本当にいいの?」
「うん。」
正恵は小さく頷いたが、その声は少し震えていた。
「成一さん、優しい人だった。」
「それに……私もいつか、お母さんみたいな家庭を作りたい。」
言いながら、正恵は自分でも驚いていた。
本当はまだ怖い。知らない家に入ることも、夫となる人と暮らすことも、すべてが不安でたまらない。それでも、母の前でそう口にした瞬間、胸の奥に小さな火が灯った気がした。自分も誰かを支え、誰かに支えられる場所を持てるのだろうか。母のように、苦しみの中でも家族を守れるのだろうか。
その言葉に清子は涙ぐんだ。
戦争で何もかも失い、中国で命がけで子どもたちを育ててきた。
その娘が「家庭を作りたい」と笑っている。
母として、それ以上の喜びはなかった。
正恵はその涙を見て、ようやく自分の決意が本物になった気がした。母を悲しませたくない。心配させたくない。だからこそ、怖くても前を向こう。そう思うと、胸の奥の震えが少しだけ静まった。
結婚式は質素だった。
近所の人々が集まり、ささやかな祝いの席が設けられた。
秋のやわらかな日差しが庭先に落ち、風に揺れる木々の葉がさらさらと音を立てていた。卓の上には素朴な料理が並び、湯気の立つ椀からは温かな匂いが漂う。
正恵は粗末ながらも白い衣をまとい、少し恥ずかしそうに微笑んでいた。
けれど、その笑みの裏では、胸が何度も波立っていた。
もう後戻りはできない。
そう思うと足元がふわりと頼りなくなる。けれど、同時に、ここで泣いてしまえば母がもっとつらくなるとわかっていた。だから正恵は、笑おうとした。うまく笑えているかはわからない。それでも、せめて今日だけは、家族に心配をかけたくなかった。
静香は妹の手を握る。
「幸せになるのよ。」
「お姉ちゃんも。」
正恵は目に涙を浮かべる。
その言葉がうれしいのに、同時に胸が痛い。幸せになる、と口にするたび、今までの暮らしが遠ざかっていく気がした。妹の手の温かさが、いつもより強く指先に残る。離したくない。けれど、離さなければならない。
一新はぶっきらぼうに言った。
「泣かせるようなことがあったら、俺が迎えに行く。」
「兄ちゃん。」
正恵は笑いながら涙をぬぐった。
その言葉に、少しだけ救われた。兄はいつも不器用だが、こういうときだけはまっすぐだ。自分は一人ではないのだと思える。けれど、だからこそ余計に寂しい。守られてきた場所を離れるのだという実感が、じわじわと押し寄せてくる。
新潔も果樹園から駆けつけていた。
「困ったら手紙を書くんだぞ。」
「うん。」
「約束。」
兄妹は固く手を握り合った。
その手のぬくもりを、正恵は忘れまいと心に刻んだ。これから先、どんなに遠く離れても、この手の感触だけは自分を支えてくれる気がした。
旅立ちの朝。
空はまだ薄青く、東の端にだけ淡い光が差し始めていた。荷車の車輪が土を踏む音が、静かな朝の中でやけに大きく響く。
正恵は小さな荷物を抱え、広州へ向かう荷車に乗った。
昨夜まであれほど覚悟したはずなのに、いざ家を出るとなると、胸の奥がひどく痛んだ。振り返れば、見慣れた家の屋根が朝靄の中にぼんやりと浮かんでいる。あの戸をくぐれば、いつもの朝がある。母の声があり、兄妹の気配があり、自分の居場所がある。そう思うと、足がすくみそうになった。
清子は娘の手を両手で包み込む。
「どんなことがあっても、人を思いやる心だけは忘れないで。」
「はい、お母さん。」
「体を大事にするのよ。」
「はい。」
正恵は何度も何度も振り返りながら手を振った。
そのたびに、胸の奥で何かが少しずつほどけていく。離れたくない。帰りたい。そう叫びたい気持ちを、正恵は必死に飲み込んだ。母の前で泣けば、きっと自分も戻れなくなる。だから笑う。笑っていなければ、前へ進めない。
その笑顔には、不安と希望が入り混じっていた。
広州で始まる新しい暮らし。
正恵はまだ知らない。
そこで待ち受けているのが、優しい夫との生活だけではなく、嫁を厳しく扱う姑との苦しい日々であることを。
そしてその頃、果樹園では、新潔と定子がお互いをかけがえのない存在として意識し始めていた。
夕暮れの果樹園には、熟した実が風に揺れるかすかな音と、遠くで鳥が帰る声が満ちている。実りの季節のあたたかな光の中で、二人の距離は少しずつ近づいていた。
二人の運命もまた、大きく動き始めようとしていた。




