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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第四部 それぞれの人生
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第三十五章 果樹園の風

秋が深まり始めた頃、新潔は家族に見送られ、小さな荷物を背負って果樹園へ向かった。

少しでも家計の足しになれば――。

その思いだけを胸に、住み込みで働くことを決めたのだった。

家を出る朝、清子は息子の襟元を整えながら、少しだけ手を止めて顔を見上げた。

「無理だけはしないで。」

「夜は目が見えにくいんだから、暗くなる前には休みなさい。」

新潔はその手の温かさを感じながら、照れくさそうに笑った。

「分かってるよ、お母さん。」

「ちゃんと帰ってくる。」

静香は自分で縫った手ぬぐいを、そっと両手で差し出した。

「汗を拭くのに使って。」

新潔は受け取る前に一度、静香の顔を見て、それから小さく頷いた。

「ありがとう、お姉ちゃん。」

正恵は兄の袖をぎゅっと掴んだまま、離そうとしなかった。

「お兄ちゃん、寂しいよ。」

新潔は少し困ったように笑い、しゃがんで妹と目を合わせる。

「泣くな。」

そう言って、正恵の頭を優しく撫でた。

「休みになったら帰ってくる。」

一新は弟の肩を力強く叩いた。

「困ったことがあったら、一人で抱え込むな。」

「兄ちゃんもいる。」

新潔はその言葉に、少しだけ目を細めて大きく頷いた。

家族へ深く一礼すると、ゆっくりと歩き出す。

その背中を、清子は見えなくなるまで見送り続けた。


果樹園は山あいの静かな村にあった。

一面に広がる果樹。

季節の実りを待つ木々。

朝早くから日が暮れるまで働く毎日だった。

収穫だけではない。

枝を切り、畑を耕し、重い籠を何度も運ぶ。

身体は疲れ切っていた。

それでも、新潔は弱音を吐かなかった。

「家族のため。」

その一言が、彼を支えていた。


ある日。

重い籠を運んでいた新潔は、足元の石につまずいた。

昼間だったため大きな怪我はなかったが、籠いっぱいの果実が坂道へ転がっていく。

「しまった……。」

慌てて拾おうとする新潔の前に、一人の女性がすっとしゃがみ込んだ。

「大丈夫ですか?」

柔らかな声だった。

女性は転がった果実を一つずつ丁寧に拾い集めていた。新潔が手を伸ばそうとすると、彼女は一瞬だけ視線を上げ、静かに首を振る。

新潔は慌てて手を引っ込め、代わりに深く頭を下げた。

「すみません、ありがとうございます。」

「私の不注意で……。」

女性は果実を拾う手を止めずに、もう一度だけ新潔の方を見た。

「誰にでも失敗はあります。」

「それより、お怪我はありませんか?」

そう言って彼女は、新潔の手元や膝元を気遣うように見た。新潔が大丈夫だと答えると、ようやくほっとしたように微笑む。その笑みは、責めるでもなく、ただそっと寄り添うような優しさを帯びていた。

「一緒に拾いましょう。果実が傷んでしまう前に。」

その言葉に、新潔は少し肩の力を抜いた。

「……ありがとうございます。」

二人で果実を拾い集めるうち、女性はふと新潔の顔を見上げた。新潔も思わず手を止め、彼女の視線を受ける。

「あなた、最近来た方ですよね。」

「はい。新潔です。」

「頼定子です。よろしくお願いします。」

新潔は丁寧に頭を下げたあと、少し遅れて顔を上げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

定子は籠の中を確かめながら、落ちた果実を傷つけないように並べ直す。

その手つきは慣れていて、それでいてとても優しかった。

新潔は思わず見入ってしまう。気付けば、定子の横顔を見つめたまま、言葉を探していた。

「定子さんは、ずっとここで働いているんですか?」

「ええ。もう数年になります。」

「大変でしょう。」

定子は少しだけ笑った。新潔の問いかけに、ほんのわずか首を傾ける。

「大変ですけど、誰かと一緒なら何とかなるものです。」

その言葉は、果樹園の風のように静かで、けれど不思議と胸に残った。


昼休み。

木陰で弁当を広げる新潔の前へ、定子がやって来た。

「隣、いいですか?」

新潔は少しだけ驚いたように顔を上げ、それからすぐに笑った。

「もちろん。」

二人の弁当はよく似ていた。

雑穀ご飯に漬物だけ。

決して豊かとは言えない食事。

定子は少し恥ずかしそうに笑う。弁当箱を膝の上に置いたまま、視線を落とした。

「質素でしょう?」

新潔も笑った。

「うちも同じです。」

「兄や姉、妹、それに母と暮らしています。」

定子は興味深そうに聞いた。話を聞くあいだ、時折うなずきながら、新潔の表情をそっと確かめるように見ていた。

「家族が多いんですね。」

「はい。」

「貧しいですけど、にぎやかですよ。」

その笑顔に、定子も自然と笑みを浮かべた。

「にぎやかな家、少しうらやましいです。」

「定子さんは?」

新潔がそう尋ねると、定子は箸を止めて少しだけ目を伏せた。すぐに答えず、短い間が落ちる。

「私は、ここで働くようになってから長いので……。」

それだけ言って、すぐに柔らかく笑う。

「でも、こうして誰かと一緒に食べると、少し家に帰ったみたいな気持ちになります。」

新潔はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。

「じゃあ、また一緒に食べましょう。」

口にしてから少し照れたように、新潔は視線を落とす。

定子は驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに頷いた。

「ええ。ぜひ。」

そのやり取りは短かったが、二人の間には、これから何度も言葉を交わすことになるような、静かな予感が芽生えていた。


仕事を終えた帰り道。

夕暮れが近づくと、新潔の歩みは少し遅くなった。

定子はそれに気付いて、少し前を歩いていた足を止める。

「新潔さん。」

呼ばれて顔を上げた新潔に、定子は心配そうに目を向けた。

「足でも痛めましたか?」

「いや……。」

少し迷ったあと、新潔は正直に話した。

「夜になると、少し見えにくくなるんです。」

定子は驚いた表情を見せたが、それ以上は何も聞かなかった。ほんの一瞬だけ言葉を探すように唇を結び、それから何事もなかったように、自分の提灯を少し新潔の方へ寄せる。

「これなら、少し歩きやすいでしょう。」

新潔は目を丸くした。

「ありがとうございます。」

「迷惑じゃ……。」

「迷惑なら最初からしません。」

定子は優しく微笑んだ。

その笑顔は、どこか清子を思わせる温かさがあった。けれど、それだけではない、胸の奥を静かにくすぐるような柔らかさもあった。


休みの日。

新潔は実家へ帰った。

正恵は兄の姿を見るなり飛びついた。

「お兄ちゃん!」

「元気だった?」

「元気だよ。」

清子は息子の少し日に焼けた顔を見つめ、安心したように笑う。

「少し逞しくなったわね。」

夕食を囲みながら、新潔は果樹園での出来事を家族へ話した。

「仕事は大変だけど、みんな親切なんだ。」

「そう。」

清子は嬉しそうに頷く。

「それなら安心した。」

静香がふと尋ねた。

「仲のいい人はできたの?」

新潔は少し照れたように箸を止める。すぐには答えず、湯気の立つ椀を見つめた。

「……一人だけ。」

その様子を見た一新が笑う。

「へえ。」

「兄ちゃんにも紹介してもらわないとな。」

家族から冷やかされ、新潔は困ったように笑った。

しかしその胸の奥には、自分でも気づかないほど小さな温もりが芽生え始めていた。

果樹園で出会った一人の女性。

頼定子。

その名を思い浮かべるたび、新潔はなぜか少しだけ胸の奥が落ち着かなくなるのを感じていた。

この出会いが、新潔の人生を大きく変えていくことになる。

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