第三十四章 故郷への願い
一新と蘭々が夫婦になって、一年が過ぎていた。
裕福ではない暮らしだったが、二人は互いに支え合いながら日々を重ねていた。
朝は並んで家を出て働き、夜はささやかな食卓を囲む。
ごちそうなどなくても、そこにはあたたかな笑顔があった。
「今日もお疲れさま。」
蘭々が差し出した湯飲みを、一新は両手で受け取る。
「ありがとう。」
「蘭々も疲れただろ。」
「私は平気よ。」
そう言って微笑む蘭々の顔を見て、一新はようやく、誰かと寄り添って生きる喜びを知り始めていた。
幼いころから家族を守ることばかり考えてきた一新にとって、それは初めて手にした安らぎだった。
その頃、清子は子どもたちが寝静まったあと、ひとりで小さな木箱を開いていた。
蓋を開ける指先は、いつもより少しだけ慎重だった。
中には、誰にも見せたことのない手紙が数通しまわれている。
差出人は、日本に残った弟の健一だった。
「姉さん。
こちらは相変わらずです。
役所にも何度も足を運びました。
必ず迎えに行きます。
どうか、体を大切にしてください。」
清子は便箋をそっと指でなぞった。
紙は何度も読み返したせいで、端がわずかにやわらかくなっている。
その感触に触れるたび、健一がこの言葉を書くまでにどれほど足を運び、どれほど頭を下げたのだろうと想像してしまう。
戦争で死んだと思っていた弟が、今も自分を探し続けている。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
喉の奥がきゅっと詰まり、息を吸うたびに目の奥まで痛んだ。
だが、この手紙のことを子どもたちに話すことはできなかった。
清子が日本の生まれだと知れば、今の暮らしはきっと揺らいでしまう。
そう思うと、言葉は喉の奥で何度も止まった。
手紙を握る指に、知らず力がこもる。
「健一……。」
小さく名を呼んでから、清子は手紙を胸に抱きしめた。
紙越しに伝わるはずのないぬくもりを、そこに探すように。
いつか話す日が来るのだろうか。
その日まで、この思いは自分だけのものにしておこう。
そう決めたはずなのに、胸の内では何度も揺れた。
会いたい。
けれど、会いたいと願うほどに、今の暮らしを失うのではないかという恐れもまた大きくなる。
清子は木箱を閉じると、しばらくその上に手を置いたまま動けなかった。
新潔の目は、相変わらず夜になると見えにくくなっていた。
昼間なら問題なく働ける。
だが、日が沈むと景色はぼやけ、人の顔も判別しづらくなる。
そのため新聞配達は、一新や家族が交代で付き添うようになっていた。
ある晩、配達を終えて帰る道すがら、新潔がぽつりと口を開く。
「兄ちゃん。」
「このまま新聞配達だけじゃ、家族を楽にはできないよね。」
一新は弟の横顔を見た。
暗がりの中で、その表情はよく見えない。
けれど、声の奥にある焦りだけははっきりと伝わってきた。
「何か考えてるのか。」
新潔はゆっくりとうなずく。
「果樹園で働いている人が、人手を探してるらしい。」
「住み込みだけど、今より給料はいいって。」
一新は少し考え込んだ。
「遠くへ行くことになるぞ。」
「分かってる。」
新潔はそう答えたが、その声は思ったよりも静かだった。
本当は、迷いがないわけではないのだろう。
それでも口にしたのは、家族の顔が浮かんだからだ。
自分が少しでも役に立てるなら。
そう思うたび、胸の奥で何かがきしむ。
「でも、少しでも家の助けになりたい。」
その言葉は、まさしく新潔らしかった。
自分のためではない。
いつだって家族のために動く男だった。
一新は弟の肩に手を置いた。
その肩は思ったよりも細く、夜風に触れているせいか少し冷たかった。
「無理はするなよ。」
そう言いながらも、一新の胸には別の不安が静かに広がっていた。
新潔は昔から、苦しいことを苦しいと言わない。
目のことも、体のことも、きっとぎりぎりまで我慢してしまう。
遠くへ行けば、誰がその無理に気づけるのだろう。
一新は言葉を飲み込み、ただ弟の歩調に合わせて帰路を進んだ。
その夜、新潔はその話を清子にも伝えた。
「お母さん。」
「果樹園へ働きに行こうと思う。」
清子は箸を止めた。
その一瞬、食卓の上の湯気まで止まったように感じられた。
「住み込みなの。」
「うん。」
「しばらくは帰れないと思う。」
新潔は平静を装っていたが、膝の上に置いた手はわずかに握られていた。
清子はその手に気づき、胸の奥がひやりとする。
息子が不安を隠そうとしていることが、かえって痛かった。
部屋に静かな沈黙が落ちる。
正恵は寂しそうにうつむいた。
「お兄ちゃん、行っちゃうの?」
その声は小さく、今にも消えそうだった。
新潔はすぐに笑ってみせる。
「ちゃんと帰ってくるよ。」
「お土産も買ってくるから。」
そう言いながら、妹の頭をやさしく撫でる。
だが、その手つきには、いつもより少しだけ迷いが混じっていた。
正恵は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、新潔はほっとしたように息をつく。
けれど清子には、その安堵の裏にある緊張が見えていた。
行くと決めた以上、もう後戻りはしない。
そう自分に言い聞かせているような、硬さがあった。
清子はすぐには返事をしなかった。
食事のあと、新潔と二人で庭へ出る。
夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
草の匂いと、遠くで鳴く虫の声だけが、沈黙を埋めている。
清子はしばらく息を整えるように空を見上げ、それからようやく口を開いた。
「新潔。」
「本当は、お母さんは反対したいの。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
止めたい。
行かせたくない。
そう思う気持ちは、母としてあまりにも自然だった。
「目のこともある。」
「でも……。」
清子は息子を見つめた。
暗い庭の中でも、その顔立ちは幼いころの面影を残している。
それなのに、もう子どもではいられないほどの覚悟を背負っている。
「あなたは昔から、自分より家族を優先する子だった。」
「その優しさを、止めることはできない。」
言いながら、清子は自分の指先が震えているのを感じた。
止められないのは、優しさだけではない。
この子が決めたことを、母である自分が奪ってしまうのが怖かった。
新潔は静かに頭を下げる。
「必ず元気で帰ってくる。」
「それに、少しでも家にお金を入れたい。」
その言葉に、清子は胸を締めつけられる思いがした。
息子はまだ若い。
本当なら、自分の夢を追ってもいい年頃だった。
それなのに、その夢はいつも家族のためにあった。
清子は唇を結び、しばらく何も言えなかった。
やがて、ようやく絞り出すように言う。
「約束して。」
「無理だけはしないで。」
新潔は一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐに顔を上げた。
「はい。」
力強くうなずくその姿に、清子はかえって不安を覚える。
本当に無理をしない子なら、こんなふうに自分を追い込むような決断はしないのではないか。
そう思ってしまうからだ。
それでも、母としては信じるしかなかった。
数日後。
出発の日が決まった。
清子は新潔の着替えを丁寧に畳み、一新は使い込んだ作業手袋を弟に手渡した。
「兄ちゃんのお守りだ。」
「ありがとう。」
新潔はそれを受け取ると、しばらく手の中で確かめるように握った。
革の擦れた感触が、これまでの働きの日々を思わせる。
その重みを胸にしまい込むように、彼は静かにうなずいた。
正恵は小さな布袋を差し出す。
「これ。」
「私が縫ったの。」
縫い目は不揃いだったが、一針一針に兄への思いが込められていた。
新潔はそれを大切そうに胸へ抱く。
「一番の宝物にする。」
家族は笑った。
けれど、その笑顔の奥には、それぞれが隠しきれない寂しさがあった。
清子はふと、あの木箱の中の手紙を思い出す。
自分にも、いつか帰る場所があるのだろうか。
その問いが胸をよぎるたび、今はまだ考えてはいけないと自分を押しとどめる。
目の前にいる子どもたちを守ることが、何より先だった。
新潔の新しい人生が、もうすぐ始まろうとしていた。
その果樹園で、彼は一人の女性と出会うことになる。
名は――頼定子。
苦労を知る二人の出会いが、やがて新たな家族の物語へとつながっていく。




