第三十三章 消えゆく光
新潔の目の異変が家族に知られてから、数か月が過ぎた。
家族は以前よりも、言葉にしないまま彼を気に掛けるようになった。食卓では誰も露骨には触れないのに、箸を置く手が少しだけ遅れたり、視線がふと新潔の顔へ向いたりする。そのたびに、新潔は気づかぬふりをして笑った。けれど、その笑みの奥には、家族に心配をかけている痛みが静かに沈んでいた。
「夜の新聞配達は私も一緒に行く。」
そう言ったのは一新だった。いつものように軽く言ったつもりでも、その声の端には、弟を一人にしたくないという強い思いがにじんでいた。
「兄ちゃん、一人で大丈夫だよ。」
新潔は少し困ったように笑い、視線を落とした。だが一新は首を振り、弟の肩をぽんと叩く。その手つきは乱暴ではなく、むしろ確かめるように、そこにいることを伝えるようだった。
「遠慮するな。」
一新は笑いながら弟の肩を叩く。
「兄貴の役目だ。」
その言葉に、新潔は一瞬だけ目を伏せた。何かを言いかけて、結局飲み込む。その短い沈黙の中に、感謝と申し訳なさが入り混じっていた。
その日から、時間がある日は一新が新潔の配達を手伝うようになった。二人で並んで歩く足音は、夜の町に小さく重なり、互いの存在を確かめ合うように続いていった。
ある夜。
二人は新聞を抱えて町を歩いていた。
昼間は問題なく歩ける道も、日が沈むと新潔の足取りは急に遅くなる。彼は何度も瞬きをし、顔を少し上げたり下げたりしながら、見えにくくなった景色を追おうとする。そのたびに、一新は歩幅を合わせ、何も言わずに少し前を歩いた。
「あれ……。」
新潔は小さく声を漏らしたまま、配達先の家を通り過ぎてしまう。手に抱えた新聞がわずかにずれ、指先が落ち着かなく動いた。
「新潔。」
一新が低く呼ぶ。
「もう着いてるぞ。」
その声でようやく気付く。新潔は立ち止まり、家の輪郭を探すように目を細めた。暗がりの中で、戸口の位置さえ曖昧に揺れて見える。
「ごめん。」
その一言は、夜風に溶けるほど小さかった。
「暗くなると、家の形が分かりにくいんだ。」
新潔はそう言って、少しだけ笑った。けれどその笑い方は、いつもの明るさとは違い、どこか自分を慰めるような、寂しさを隠すためのものだった。
一新は胸が締めつけられた。
昼間は普通に歩ける。
人の顔も見える。
文字も読める。
しかし夜になると、景色が霧の中へ沈んでいくようだった。弟が見ている世界を思い浮かべようとしても、想像するほどに胸の奥が痛んだ。一新は何か言おうとして口を開きかけ、結局閉じる。その沈黙の間、新潔は気づかれぬように息を整えていた。
その帰り道。
夜道を並んで歩きながら、一新が静かに尋ねる。声を落としたのは、弟の心を傷つけたくなかったからだ。
「昼間はどうなんだ。」
新潔は少し考えてから答えた。答えるまでのわずかな間に、彼は何度か唇を結び直す。
「昼は平気。」
「少し遠くはぼやけるけど、仕事はできる。」
「でも夜になると急に見えなくなる。」
「月のない日は、本当に真っ暗なんだ。」
そう言って、新潔は苦笑した。だがその笑みの端には、諦めきれない悔しさがかすかに揺れていた。
「昔は星がいっぱい見えたのに。」
彼は空を見上げるように顔を上げたが、そこにあるはずの光を探す目は、どこか遠くをさまよっていた。
「今は空を見ても、星が少ししか見えない。」
一新は何も言えなかった。弟が笑って話していることが、かえって悲しかった。励ましの言葉を探しても、喉の奥でつかえて出てこない。ただ隣を歩き、時おり袖が触れるほど近くにいることだけが、一新にできる精一杯だった。
翌日。
清子は市場で働く女性から、食養生に詳しい老人を紹介された。
老人は新潔の目を見て、しばらく黙っていた。皺の深い顔に浮かぶ沈黙は、責めるものではなく、長く人を見てきた者の重みを帯びていた。新潔はその視線を受けながら、少し居心地悪そうに背筋を伸ばす。清子は隣で両手を膝の上に重ね、指先をぎゅっと握りしめていた。
やがて老人は、静かに話した。
「この子は、長いこと、ろくな物を口にしていないね。」
清子はうつむいた。返事をするまでに少し時間がかかる。その間、彼女の肩がわずかに震えた。
「はい……。」
「家族に食べさせるため、自分は米のとぎ汁ばかり飲んでいました。」
その言葉を口にしたとき、清子は新潔の顔を見られなかった。視線を落としたまま、膝の上の手を強く握る。新潔もまた、母の横顔を見つめていたが、何も言えない。自分のせいで母が頭を下げる、その痛みが胸に刺さっていた。
老人は深いため息をつく。
「それでは体がやせて、目にまで力が回らん。」
「夜になると見えにくいのは、そのせいだろう。」
「食べ物が足りないと、鳥目のような症状が出ることがある。」
「もっと栄養のある物を食べさせなさい。」
「すぐに治るとは言えないが、身体をいたわることが大事だ。」
その言葉の一つ一つが、清子の胸に重く落ちた。薬を買うお金はなかった。それでも彼女は、何もできないまま立ち尽くすのではなく、せめて食べ物だけでも、と心に決めた。帰り道、清子は何度も新潔の顔を見ようとして、結局見られずにいた。見れば泣いてしまいそうだったからだ。
それからというもの、清子は自分の食事を減らした。
卵が一つ手に入れば新潔へ。
魚が手に入れば子どもたちへ。
自分は粥だけの日も少なくなかった。茶碗を手にしても、ひと口食べるたびに箸を止め、子どもたちの様子を見守る。その目はいつも優しかったが、どこか疲れを隠しきれずにいた。
ある日、新潔はそのことに気付く。
「お母さん。」
食卓の向こうで、彼は少し不安そうに声をかけた。清子が返事をするまでの短い間、新潔は母の手元をじっと見つめていた。
「今日は食べないの?」
清子は一瞬だけ目をそらし、それから穏やかに笑う。だがその笑みは、息を整えてからようやく作ったものだった。
「お母さんは大丈夫。」
「市場で少し食べてきたから。」
その言葉が嘘だと、新潔には分かっていた。母の声がほんの少しかすれていることも、手の甲が以前より細くなっていることも、見逃せなかった。
「僕なら大丈夫だよ。」
新潔はそう言って、少しだけ背筋を伸ばした。
「昼は見えるし。」
「仕事もできる。」
「だから、お母さんがちゃんと食べて。」
清子は優しく微笑んだ。新潔の言葉を受け止めるように、ゆっくりと頷く。その頷きには、母としての強さと、子を思う切なさが同時に宿っていた。
「母親ってね。」
「子どもがお腹いっぱい食べている姿を見るだけで、お腹がいっぱいになるものなの。」
その言葉を聞いた新潔は、何も言えず、静かに茶碗を握りしめた。指先に力が入り、白くなる。食べ物の温かさよりも、母の思いの重さが手のひらに伝わってくるようだった。しばらくして、彼はようやく小さく頷いたが、その目はうっすらと潤んでいた。
一方、一新と蘭々は結婚生活を穏やかに送っていた。
裕福ではない。
それでも笑顔の絶えない家庭だった。狭い家の中でも、二人が顔を見合わせれば自然と空気が和らぐ。蘭々は忙しい手を止めて一新を見送り、一新もまた帰宅するとまず蘭々の顔を探した。そんな何気ないやり取りが、日々の暮らしを支えていた。
休日になると蘭々は実家へ顔を出し、新潔へよく声を掛けた。新潔の様子を見ては、少し眉を寄せ、けれどすぐに柔らかく笑う。その気遣いは押しつけがましくなく、そっと寄り添うようなものだった。
「無理しちゃ駄目ですよ。」
「夜道は私も心配です。」
そう言いながら、蘭々は新潔の顔をまっすぐ見つめる。新潔はその視線を受けて、少し照れたように目を逸らし、それから小さく笑った。
「ありがとう、お義姉さん。」
蘭々はもう、水上家の一員だった。言葉にしなくても、食卓での座り方や、誰かが疲れているときに自然と差し出される湯呑みの手つきに、そのことが表れていた。
ある晩。
正恵が新潔の隣へ座った。小さな体を少し寄せ、兄の袖をそっとつまむ。その仕草には、幼いながらも兄を気遣う気持ちがにじんでいた。
「お兄ちゃん。」
「目、治るよね?」
まだ幼い正恵は、不安そうに兄を見つめる。答えを待つ間、唇をきゅっと結び、膝の上で小さな手を握りしめていた。
新潔は妹の頭を優しく撫でた。指先で髪を梳くように、ゆっくりと、何度も。
「大丈夫。」
「少し見えにくいだけ。」
「昼間はちゃんと見えてる。」
「だから心配しなくていい。」
正恵は安心したように笑った。その笑顔は、まだ何も知らない子どもの無垢さをたたえていて、新潔の胸を静かに締めつけた。
「よかった。」
その笑顔を見ながら、新潔は心の中で願う。
(この笑顔を、ずっと見ていたい。)
(母さんの顔も、一新兄ちゃんも、静香姉ちゃんも、正恵も。)
(いつまでも、この目で見ていたい。)
だが、運命はあまりにも残酷だった。
新潔の視力は、ゆっくりと、しかし確実に衰えていく。見えるはずのものが少しずつ遠のき、家族の顔の輪郭さえ、ある日ふと曖昧になる。その変化は一気にではなく、日々の暮らしの中に静かに忍び込んでいった。
それは何年、何十年という長い年月をかけて進み、日本の地で四十歳を迎えた時、とうとう光は完全に失われることになる。
けれど、この時の新潔はまだ、その先に待つ長い闇も、やがて訪れる小さな希望も知らなかった。
それでも家族の暮らしは続き、静かな日々の中で、やがて新しい命がその輪に加わることになる。
一新と蘭々の第1子が生まれるのは、日本へ帰国してからのことである。




