第三十一章 隠された異変
新潔が視界の異変を感じ始めてから、半年が過ぎていた。
最初は、朝の光が少し眩しいだけだと思っていた。だが、日を追うごとに、見えるはずのものが少しずつ輪郭を失っていった。近くのものは妙ににじみ、遠くのものは距離がつかめない。道の先にあるはずの家が、手前にあるようにも、ずっと向こうにあるようにも見えてしまう。夕方には、灯りの周りが白く滲み、まるで薄い霧が目の前にかかったようだった。
朝。
新聞を抱え、いつもの配達路を走る。
見慣れた道のはずなのに、家々の輪郭がふわりと溶けたようにぼやけて見える。屋根の端も、窓枠も、以前のようにはっきりとは掴めない。番地の札は近づいて初めて形が分かり、文字は黒い染みのように滲んでいた。少し離れるだけで、どの家なのか判別がつかなくなる。
番地を何度も確認しなければ配れなくなっていた。
「……おかしいな。」
目を何度もこする。
しかし、ぼやけた景色は元には戻らなかった。こすった直後は少しだけ輪郭が戻ったように思えても、すぐにまた霞み、朝の光まで白くにじんで見える。人の顔も、近づくまでは表情が読み取れない。
(疲れているだけだ。)
(少し休めば治る。)
そう言い聞かせるたびに、胸の奥では別の声が小さく震えていた。
(もし、違ったら。)
(もし、もっと悪くなっていたら。)
その考えを振り払うように、新潔は首を振った。怖かった。だが、怖いと認めてしまえば、足が止まりそうだった。止まれば、家族の暮らしまで止まってしまう気がした。
新潔はそう自分に言い聞かせ、今日も走り続けた。
ある日の夕方。
仕事を終えた新潔は、家の前で薪を割っていた。
斧を振り下ろした瞬間、狙いがわずかにずれた。
「危ない!」
静香が思わず駆け寄る。
斧は薪ではなく地面へ深く突き刺さっていた。
「新潔、大丈夫?」
「う、うん。」
「ちょっと手が滑っただけ。」
そう笑ったが、静香は弟の表情に違和感を覚えた。
以前なら、こんな失敗はしなかった。
新潔は平気なふりをしていたが、その指先はかすかに震えていた。斧の柄を握る手に力が入りすぎて、白くなっている。静香はその小さな震えを見て、胸がざわついた。
「本当に?」
「無理してない?」
新潔は笑顔を作る。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。」
「心配しすぎ。」
その笑顔は、どこか無理をしていた。口元だけが上がっていて、目は笑っていない。静香は何かを隠していると感じたが、弟がそれ以上を拒むように肩をすくめるので、それ以上は言えなかった。
夜。
新潔は一人、家の外へ出た。
空を見上げる。
昔は無数に見えていた星が、今は数えるほどしか見えない。しかも、ひとつひとつが滲んで、輪郭がぼんやりと広がっていた。月の光もまぶたの裏に残るように白くにじみ、夜空の奥行きがうまく掴めない。
「……星が減ったのかな。」
そう呟いたあと、自分で苦笑した。
違う。
減ったのは星ではない。
見えている自分の目なのだ。
その事実を認めるのが怖かった。
もし目が見えなくなれば、働けなくなる。
働けなくなれば、家族の負担になる。
自分が倒れたら、誰かがその分を背負わなければならない。そう思うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。父の背中、姉たちの手、兄の無言の苦労。みんなが少しずつ我慢して、ようやく保っている暮らしだった。その上に、自分の弱さを重ねたくなかった。
(そんなのは嫌だ。)
(絶対に嫌だ。)
新潔は拳を強く握り締めた。
怖かった。見えなくなることが怖いのではない。家族の役に立てなくなることが怖かった。自分のせいで、みんなの顔に影を落とすことが何より怖かった。
数日後。
新聞配達の途中で、新潔は自転車にぶつかって転倒した。
新聞が道いっぱいに散らばる。
「大丈夫か?」
通りがかった老人が駆け寄った。
「はい……。」
慌てて新聞を拾う新潔。
だが、一枚だけどうしても見つけられない。足元にあるはずなのに、視線を落としてもそこだけが妙にぼやけ、紙の白さが地面の色に溶けてしまって見えない。少し離れた場所にあるようにも感じ、手を伸ばしても空を掴むばかりだった。
老人が黙って拾い、新潔へ渡した。
「ありがとう……ございます。」
老人は新潔の顔を見つめた。
「坊や。」
「目が悪いんじゃないか。」
その言葉に、新潔の身体が強ばる。
胸の奥を冷たいものが走った。見抜かれた、と思った瞬間、息が浅くなる。否定しなければ、と思うのに、喉がうまく動かない。
「そんなことありません。」
「ちゃんと見えています。」
そう言い残し、逃げるように走り去った。
背中には冷や汗が流れていた。
走りながら、新潔は唇を噛んだ。あの老人の声が、耳の奥にいつまでも残っていた。目が悪いんじゃないか。その一言は、胸の奥に隠していた不安を、容赦なく照らし出した。認めたくないのに、認めざるを得ないところまで来ているのではないか。そんな恐れが、足を重くした。
その夜。
一新が弟へ声を掛ける。
「最近、配達で転ぶことが増えたって聞いたぞ。」
新潔は箸を止めた。
「誰が言ったの?」
「町の人だ。」
「……。」
沈黙が流れる。
一新は真剣な表情だった。
「病院へ行こう。」
「駄目!」
思わず大きな声が出た。
家族全員が驚いて新潔を見る。
新潔は我に返り、慌てて頭を下げた。
「ごめん。」
「でも、本当に何でもない。」
「疲れてるだけだから。」
声は落ち着いているつもりだったが、実際には震えていた。病院という言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい手を差し込まれたようだった。診てもらえば、何かがはっきりしてしまう。悪い結果が出るかもしれない。治らないと言われるかもしれない。そうなったら、自分はどうすればいいのか。家族はどうなるのか。
怖かった。
ただ病院へ行く、それだけのことなのに、そこへ踏み出せば戻れなくなる気がした。
一新は弟の顔を見つめた。
「新潔。」
「隠しても、よくなるわけじゃない。」
「……。」
「怖いのか。」
その問いに、新潔は息を止めた。怖い、と言ってしまえば終わってしまう気がした。けれど、黙っていることもまた、家族を傷つけているようで苦しかった。
「怖くなんかない。」
そう言った声は、あまりにも弱かった。
「本当に何でもない。」
「疲れてるだけだから。」
清子は息子の顔を見つめていた。
笑っている。
けれど、その笑顔の奥に隠された不安を、母だけは感じ取っていた。無理に明るく振る舞うたび、心のどこかが削れている。そういう顔だった。清子は何も言わずにいたが、胸の奥では、息子が何かを抱え込んでいることを確かに悟っていた。
食事のあと。
清子はそっと新潔の隣へ座る。
「新潔。」
「お母さん。」
「何があっても、一人で抱え込まないで。」
新潔は目を伏せた。
「……うん。」
返事はした。だが、その声はどこか遠かった。清子はそれを聞いて、ますます胸が痛んだ。息子は何かを隠している。けれど、無理に聞き出せば、ますます殻に閉じこもってしまうかもしれない。母として、どう寄り添えばいいのか分からず、それでもそばにいたい気持ちだけが募った。
「お母さん。」
「もし僕が働けなくなったら、どうする?」
突然の質問だった。
清子は少し驚いたが、すぐに微笑んだ。
「その時は、家族みんなで支えるわ。」
「あなたが小さい頃、お兄ちゃんやお姉ちゃんが家族を支えたように。」
「今度は家族があなたを支える番。」
その言葉を聞いた新潔は、思わず目を潤ませた。
けれど、それ以上は何も言えなかった。
清子の声はやさしかった。やさしすぎて、新潔の胸はかえって苦しくなった。自分が弱ったとき、母はきっとこう言うだろうと分かっていた。だからこそ、余計に言えなかった。支えてもらうことが嬉しいのに、同時に申し訳なくてたまらない。母のやさしさに甘えたい気持ちと、これ以上心配をかけたくない気持ちが、胸の中でぶつかり合っていた。
(まだ言えない。)
(お母さんを悲しませたくない。)
秘密は、さらに重くなっていった。
一方、一新は蘭々の家を訪れていた。
緊張した面持ちで蘭々の両親の前へ座る。
「蘭々さんと結婚させてください。」
深々と頭を下げる。
蘭々の父はしばらく黙っていた。
そして静かに尋ねた。
「娘を幸せにできますか。」
一新は迷わず答えた。
「裕福な暮らしはさせられません。」
「でも、一生大切にします。」
「どんな苦労も、一人では背負わせません。」
その言葉には、家族を支えてきた二十年の重みがあった。
蘭々の父はゆっくりとうなずいた。
「娘を頼みます。」
蘭々は涙を浮かべながら微笑んだ。
その知らせを聞いた清子は、静かに手を合わせる。
「おめでとう、一新。」
「ようやく、あなた自身の幸せを考えられる日が来たのね。」
家族全員が祝福した。
貧しくても、家族が笑顔で集まれる。
それが何よりの幸せだった。
しかし、その笑顔の輪の中で、新潔だけは時折みんなの顔がぼやけて見えていた。近くにいるはずの家族の表情が、薄い靄の向こうにあるように曖昧で、笑っているのか、心配しているのかさえすぐには分からない。灯りの縁も白くにじみ、目を凝らすほど景色はかえって滲んでいった。
みんなが喜んでいるのは分かる。分かるのに、その輪の中に自分だけが少しずつ取り残されていくようで、胸が締めつけられた。家族の笑顔を、はっきり見ていたい。今この瞬間を、ちゃんと目に焼きつけておきたい。そんな願いさえ、視界の揺らぎに奪われていく。
(お願いだから……。)
(もう少しだけ、見えていて。)
それが新潔の、誰にも言えない願いだった。
そして翌年、一新と蘭々は夫婦となる。
家族に新たな喜びが訪れる一方で、新潔の視力は、医者にも止められない速さで失われ始めることになる




