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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第四部 それぞれの人生
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第三十章 見えなくなる世界

一新が蘭々と出会って一年。

二人は休日になると市場を歩き、川辺で話をし、互いの家族のことを語り合うようになっていた。

派手な恋ではなかった。

肩を並べて歩くだけで心が安らぐ。

そんな穏やかな時間を、二人は大切にしていた。

清子も蘭々と何度か顔を合わせるうちに、その実直な人柄を知るようになった。

「蘭々さん。」

「あなたは本当によく働くのね。」

蘭々は少し照れながら笑った。

「一新さんには敵いません。」

「私はまだまだです。」

その言葉を聞いた清子は安心した。

(この人なら、一新を支えてくれる。)

母として、初めて心からそう思えた。


その頃、新潔は十五歳になっていた。

新聞配達の仕事は五年目を迎えていた。

夜明け前。

まだ星が残る薄暗い町を、自転車もないまま新聞を抱えて走る。

寒さで手がかじかみ、足は霜で濡れる。

それでも家族のために働くことをやめようとは思わなかった。

ある朝、新聞を配っている途中だった。

「あれ……。」

家の表札がぼやける。

いつも読めていた文字が、今日は滲んで見えた。

新潔は目をこすった。

(寝不足かな。)

そう思い、そのまま仕事を続けた。


しかし、それは一度きりではなかった。

夕方になると、人の顔が見えにくい。

夜になると、道の先が黒く溶けていくように見える。

新聞の細かな文字も読みにくくなっていた。

それでも新潔は誰にも言わなかった。

(お母さんに心配をかけたくない。)

(病院へ行くお金なんてない。)

そう分かっていたからだ。


食卓では、相変わらず質素な食事が続いていた。

粟の粥。

塩漬けの野菜。

それだけの日も珍しくない。

新潔は自分の茶碗を見つめながら、小さく笑った。

「僕、お腹いっぱい。」

そう言って、自分の分を正恵へ渡す。

「えっ、お兄ちゃん食べないの?」

「今日はあんまりお腹空いてないから。」

正恵は素直に受け取った。

だが静香だけは気付いていた。

新潔の頬が以前より痩せていること。

腕も細くなっていること。

「新潔。」

「ちゃんと食べないと駄目よ。」

新潔は笑顔を作る。

「大丈夫。」

「僕は男だから。」

「少しくらい平気。」

その笑顔が、かえって静香の胸を痛めた。


ある日。

仕事帰りの新潔は道端でつまずいた。

石につまずいたと思った。

しかし足元を見ると、大きな石など何もない。

「おかしいな……。」

目を凝らしても、地面がぼやけていた。

不安が胸をよぎる。

(もしかして……。)

その夜。

布団へ入っても眠れなかった。

目を閉じると怖くなる。

もし、本当に目が悪くなっているのだとしたら。

もう新聞は配れない。

家族を支えられない。

その恐怖が、新潔の胸を締めつけた。


翌日。

一新が新潔の様子に気付く。

「最近疲れてるな。」

「大丈夫か。」

新潔は笑って答えた。

「兄ちゃんの方が働いてるよ。」

「僕は平気。」

その笑顔は昔と変わらない。

だが、一新にはどこか無理をしているように見えた。

「何かあったら言えよ。」

「一人で抱え込むな。」

新潔は小さくうなずく。

「ありがとう。」

その一言しか返せなかった。


一方、一新は意を決して清子へ話を切り出した。

夕食のあと、少し緊張した表情で座り直す。

「お母さん。」

「話があります。」

「どうしたの。」

「……蘭々さんと結婚したい。」

部屋が静まり返る。

正恵は嬉しそうに声を上げた。

「やった!」

静香も幸江を抱きながら微笑む。

「おめでとう。」

清子はしばらく何も言わなかった。

そしてゆっくりと息子を見つめる。

「一新。」

「あなたは、人を幸せにできる人になりましたね。」

その言葉に、一新は目を潤ませた。

「お母さん……。」

「結婚しなさい。」

「蘭々さんを、大切にするのよ。」

一新は深く頭を下げた。

「はい。」

家族から初めて心から祝福される結婚だった。

貧しい家に、再び笑顔が戻る。

しかし、その笑顔の陰で、新潔は一人、暗闇が少しずつ広がっていく恐怖と戦っていた。

その異変は、やがて隠しきれないほど大きくなり、家族全員の運命を揺るがすことになる。

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