第二十九章 長男の恋
義母を見送り、弟・健一との文通が始まってから数年が過ぎた。
清子は四十代後半になっていた。
髪には白いものが混じり始め、長年の苦労はその顔に深い皺を刻んでいた。
それでも、毎月届く一通の手紙だけは、清子の表情を少女のように変えた。
紙を開く指先が、わずかに震える。封を切った瞬間に立ちのぼる、かすかなインクの匂いさえ、清子には懐かしかった。
「姉さん、こちらは元気です。」
「日本は平和になりました。」
「いつか必ず迎えに行きます。」
弟・健一のその言葉を、清子は何度も読み返した。
そのたびに、日本で別れた幼い弟の姿が目に浮かぶ。
(本当に帰れる日が来るのだろうか。)
希望を抱くたび、それを打ち消す現実があった。
中国で生まれ育った子どもたち。
それぞれの生活。
そして、国を越えることの難しさ。
それでも、清子は諦めなかった。
手紙を胸に当てると、薄い紙越しに、遠い日本の空気まで届くような気がした。もう二度と会えないかもしれない。それでも、会いたいと願う心だけは、年を重ねても弱らなかった。
一新は二十歳になっていた。
幼い頃から靴磨きをして家族を支えてきた少年は、町の工場で働く青年へと成長していた。
大きく日に焼けた手。
父・邑黄によく似た体格。
無口ではあったが、責任感の強い青年だった。
朝の工場は、油と鉄の匂いが混じり合い、機械の音が絶えず響いていた。その中で一新は、黙々と手を動かしていた。汗が額を伝っても、拭う暇も惜しい。家族の顔を思い浮かべるたび、もう少し頑張れる気がした。
ある朝、職場に一人の女性が配属される。
「今日から働きます。」
「來蘭々です。」
長い髪を後ろで束ね、少し緊張した様子で頭を下げる女性だった。
その声は控えめだったが、はっきりしていた。新しい環境に足を踏み入れたばかりの不安と、それでも逃げない強さが、その一礼ににじんでいた。
職場の責任者が一新へ声を掛ける。
「一新。」
「蘭々さんは今日が初日だ。」
「仕事を教えてやってくれ。」
「はい。」
一新は短く返事をした。
けれど胸の奥では、なぜか少しだけ落ち着かなかった。見知らぬ相手に教えるというだけではない。蘭々のまっすぐな目が、妙に印象に残ったのだった。
最初の数日は、仕事の話しかしなかった。
「これはここへ運びます。」
「ありがとうございます。」
「重いので気を付けてください。」
「はい。」
蘭々は覚えが早く、誰よりも真面目に働いた。
一新はそんな姿を見て感心していた。
昼休み。
蘭々は弁当箱を開いた。
中には小さなおにぎりが二つだけ。
一新も同じような質素な弁当だった。
蘭々が少し笑う。
「似ていますね。」
一新も照れたように笑った。
「本当ですね。」
その日が、二人が初めて笑い合った日だった。
たったそれだけのことなのに、一新の胸には温かいものが広がった。硬い仕事場の空気の中で、ふっと差し込んだ陽だまりのようだった。蘭々の笑顔は、疲れた肩の力を少しだけ抜かせてくれた。
ある雨の日。
仕事帰りに突然の豪雨が降り出した。
蘭々は軒先で雨宿りをしていた。
一新は自分が持っていた古い傘を差し出す。
「使ってください。」
蘭々は首を振る。
「一新さんが濡れてしまいます。」
「私は家が近いので。」
「でも……。」
「風邪をひきます。」
一新は少し笑った。
「子どもの頃から雨の中で働いてきました。」
「これくらい平気です。」
蘭々はしばらく迷っていたが、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その日以来、二人は少しずつ話すようになった。
雨粒が傘を打つ音を聞きながら、一新は自分でも驚いていた。誰かに傘を貸しただけなのに、胸の奥が妙にあたたかい。濡れた袖口の冷たさとは対照的に、蘭々の「ありがとう」が、じんわりと残っていた。
休日。
一新は蘭々を市場まで送ることになった。
歩きながら蘭々が尋ねる。
「一新さんは、小さい頃はどんな子でしたか。」
一新は少し考えて笑う。
「靴磨きばかりしていました。」
「学校にもほとんど行けなくて。」
「弟や妹にご飯を食べさせることばかり考えていました。」
言いながら、一新はふと、あの頃の冷たい朝を思い出した。手はひび割れ、靴墨の匂いが指に染みついていた。それでも、家に持ち帰るわずかな銭が、家族の食卓につながると思えば耐えられた。
蘭々は足を止めた。
「大変だったんですね。」
「でも。」
「だから今の一新さんは、人に優しいんですね。」
その言葉に、一新は照れくさそうに頭をかいた。
誰かに自分の人生を認めてもらえた気がした。
胸の奥が熱くなり、うまく言葉が出ない。ただ、蘭々の横顔を見ていると、不思議ともっと話したくなった。苦労ばかりだった自分の過去が、初めて誰かにやさしく受け止められた気がしたのだった。
その頃、清子も変化に気付いていた。
夕食の席。
一新が珍しく鼻歌を歌っている。
新潔が笑う。
「兄ちゃん、今日なんか機嫌いいね。」
一新は慌てる。
「そんなことない。」
正恵はいたずらっぽく笑った。
「あるよ。」
「最近、お兄ちゃん笑うこと増えた。」
静香も幸江を抱きながら微笑む。
「好きな人でもできたの?」
その言葉に、一新は盛大にむせた。
家族は思わず笑い声を上げる。
貧しい家に、久しぶりの明るい笑い声が響いた。
清子はその様子を見ながら、静かに目を細める。
(この子が、こんなふうに笑う日が来るなんて。)
幼い頃から家族のためだけに働き、自分のことを後回しにしてきた息子だった。
だからこそ、母として心から嬉しかった。
食卓に並ぶ粗末なおかずも、その夜ばかりは少しだけ豊かに見えた。子どもたちの笑い声が壁に跳ね返り、家の中の空気までやわらかくなる。清子はその音を聞きながら、胸の奥にじんわりと広がる安堵を噛みしめていた。苦労してきた日々が、ようやく報われるような気がした。
数か月後。
一新は仕事帰り、蘭々を見送りながら立ち止まった。
胸が高鳴る。
今まで感じたことのない感情だった。
夕暮れの風が頬をかすめる。言葉にしようとすると、喉の奥が少し乾いた。けれど、逃したくないと思った。この気持ちは、ただの親しさではない。蘭々と並んで歩くたび、心が静かに満たされていくのを、一新はもうごまかせなかった。
「蘭々さん。」
「はい?」
「また……。」
一新は少し照れながら言う。
「休みの日、一緒に市場へ行きませんか。」
蘭々は驚いたあと、優しく笑った。
「はい。」
「喜んで。」
夕暮れの空の下。
二人は並んで歩き始める。
戦争も、飢えも、貧しさも消えたわけではない。
それでも、一新の胸には確かに新しい希望が芽生えていた。
その希望はやがて結婚へと実を結び、新しい命へとつながっていく。
そして同じ頃、新潔の身体には、誰にも気づかれない小さな異変が現れ始めていた。
夜になると、遠くの景色がぼやける。
新聞の文字が少しずつ読みにくくなる。
栄養不足によって蝕まれた身体は、静かに視力を奪い始めていた。
誰もまだ、その異変の深刻さに気づいてはいなかった。




