第二十七章 幸江の産声
静香と来真の結婚式は、大げさなものではなかった。
近所の人々が集まり、小さな食卓を囲み、二人の門出を祝った。
ごちそうと呼べるものは少なく、それでも人々は笑顔で「おめでとう」と声を掛けた。
静香は白い花を一輪だけ髪に飾り、来真の隣に立っていた。
その表情は穏やかだったが、胸の奥では、祝福の温かさと、どうしようもない不安がせめぎ合っていた。
(私は、この人に愛されるのだろうか。)
誰にも聞こえない声で、静香は何度も自分に問いかけた。
来真の横顔を見るたび、あの夜のことがよみがえる。責任を取るために結婚したのだと、頭では分かっている。けれど、分かっているからこそ苦しかった。自分は選ばれたのではなく、背負われただけなのではないか。そう思うたび、胸の奥がひりついた。
それでも、目の前で笑ってくれる人々の顔を見ていると、静香の心は少しだけほどけた。
(それでも、私は今日からこの家の人になる。)
その事実が、怖いほど嬉しかった。
一方、来真も祝いの席にいながら、どこか笑顔がぎこちなかった。
二人とも、この結婚が愛から始まったものではないことを知っていた。
そして、その事実を誰よりも重く受け止めている人物がいた。
母・清子だった。
結婚式が終わり、客人が帰った夜。
静香が新居へ向かったあと、清子は一人、薄暗い部屋で縫い物をしていた。
針は動いている。
しかし、その手は何度も止まった。
娘を送り出した安堵よりも、あの子がこれから背負うものの重さばかりが胸に残っていた。静香は笑っていた。けれど、その笑顔の奥に、どれほどの不安を隠していたか、母である清子には分かってしまう。
(あの子は、泣いていないだろうか。)
(今夜ひとりで、怖がっていないだろうか。)
そう思うたび、針先が指に触れそうになり、清子は息をついた。
そこへ来真が静かに訪ねてきた。
「お義母さん。」
「少し、お話をさせてください。」
清子は縫い物を置き、来真を見上げた。
「座ってください。」
来真が腰を下ろすと、部屋の空気はさらに重く沈んだ。
清子はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「来真さん。」
「あなたに一つだけ聞きたいことがあります。」
「……はい。」
「静香を、大切にできますか。」
来真はすぐに答えた。
「もちろんです。」
その返事に、清子の目が鋭く細められる。
「その『もちろん』を、あなたはどの口で言うのですか。」
来真の顔から血の気が引いた。
清子は声を荒げない。
だが、その静けさのほうが、かえって怖かった。
「結婚する前に、娘に手を出した。」
「そのせいで静香は、毎晩自分を責めて泣いていたんです。」
「あなたは、その涙を見て何を思ったのです。」
来真は深くうつむいた。
「……何も言えません。」
「言えないでは済みません。」
清子の言葉は冷たかった。
「娘は、あなたに抱かれたことを恥じていました。」
「自分が軽かったのではないか、自分が間違っていたのではないかと、あの子は一人で苦しんでいた。」
「その間、あなたは何をしていたのです。」
来真は唇を噛みしめる。
「……逃げていました。」
「逃げていた?」
清子は鼻で笑うように息を吐いた。
「責任を取ると言って、結婚すると言った。」
「では聞きます。」
「もし静香のお腹に子どもがいなかったら、あなたは本当に結婚していましたか。」
部屋が静まり返る。
来真は答えられなかった。
その沈黙こそが答えだった。
清子の目が、さらに厳しくなる。
「黙るのですね。」
「答えられないなら、それがあなたの本音です。」
来真は拳を握り締めた。
「……その通りです。」
「私は、静香さんを傷つけました。」
「逃げました。」
「取り返しのつかないことをしました。」
「だからこそ、償わせてください。」
清子はすぐに言い返した。
「償う?」
「その言葉で、娘の傷が消えるとでも思っているのですか。」
「口先で済むなら、誰も苦労しません。」
来真は顔を上げられない。
「私はあなたを許したわけではありません。」
「今も、あなたを信じてはいない。」
「静香を泣かせた男を、母親が簡単に受け入れられると思わないでください。」
来真の肩がわずかに震えた。
清子はなおも続ける。
「ですが……。」
その声には、怒りの奥に、娘を守ろうとする切実さがあった。
「静香を、これ以上傷つけないでください。」
「泣かせないと、約束しなさい。」
「そして、生まれてくる子どもに、あなたの迷いや弱さを背負わせないでください。」
来真は畳へ額がつくほど深く頭を下げた。
「約束します。」
「静香さんを、二度と泣かせません。」
「この子も、命に代えて守ります。」
その姿を見ても、清子の胸の不安が消えることはなかった。
新しい生活が始まった。
静香は来真の家へ嫁ぎ、義理の家族と暮らし始める。
来真は働き者だった。
生活費もきちんと家へ入れ、暴力を振るうこともなかった。
静香にも穏やかに接した。
しかし、どこか壁があった。
夫婦になっても、来真は静香へ「愛している」と言うことは一度もなかった。
静香も、それを求めなかった。
(この人は責任を果たそうとしている。)
(それだけで十分。)
そう自分へ言い聞かせていた。
けれど、夜になると、布団の中で静香は何度も目を閉じたまま考えた。
もし自分が本当に大切にされているのなら、こんなに胸が痛むだろうか。もし愛されているのなら、こんなに言葉を待ってしまうだろうか。来真が隣で眠っていても、その寝息を聞きながら、静香はひとり取り残されたような気持ちになることがあった。
それでも、朝になって来真が黙って湯を沸かし、重い荷を持ち、静香の歩幅に合わせてくれるたび、胸の奥に小さな灯がともる。
(この人は、少なくとも私を粗末にはしない。)
その事実だけで、静香は自分を支えた。
そして、まだ見ぬ子どもの存在が、その不安を少しずつ変えていった。
お腹の中で小さく動くたび、静香は息をのむ。
最初は戸惑いだった。自分の体の中に、確かに別の命がある。その重みが怖かった。けれど、やがてその動きが、夜の静けさの中で静香を呼ぶように感じられるようになると、怖さの中に、言葉にできない愛しさが混じり始めた。
(この子は、私の中で生きている。)
そう思うだけで、涙が出そうになった。
誰かに強く抱きしめられた記憶が少ない静香にとって、腹の中で育つ命は、初めて自分を必要としてくれる存在だった。愛されるかどうかを待つのではなく、自分が守る側になる。そのことが、静香の心を少しずつ変えていった。
月日は流れ、静香のお腹は大きくなっていく。
ある日、清子が娘の様子を見に訪ねた。
「体はどう?」
「元気です。」
静香は微笑む。
「来真さんも、よく気にかけてくださいます。」
その言葉に嘘はなかった。
来真は不器用ながらも、重い荷物を持ち、体を気遣い、静香を支えていた。
それでも清子は、来真を見るたびに胸の奥がざわついた。
(この人は本当に娘を愛せるのだろうか。)
その疑問だけは、どうしても消えなかった。
静香自身も、同じ問いを心のどこかに抱えていた。
来真が優しくしてくれるたび、嬉しいはずなのに、ふとした瞬間に不安が顔を出す。これは愛情なのか、それとも責任の形なのか。自分は、ただ子を宿したからそばに置かれているだけではないのか。そんな考えがよぎるたび、静香は自分を責めた。
(私は、こんなふうに疑ってはいけない。)
(この人は、ちゃんと家族になろうとしている。)
そう思い直しても、心は簡単には落ち着かなかった。
それでも、お腹の子が動くたび、静香はその不安を押しのけるように手を当てた。
「大丈夫よ。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
来真に対してなのか、自分自身に対してなのか、それともまだ見ぬ我が子に対してなのか。
ただ、その小さな命に触れている間だけは、静香は確かに母だった。
秋の終わり。
陣痛が始まった。
家には産婆を呼ぶお金はない。
静香は母と同じように、自宅の納屋で一人、出産に臨むことを決めていた。
「お母さん。」
「私も、お母さんと同じように産みます。」
その言葉を口にした瞬間、静香の胸には、怖さと誇らしさが同時に広がった。
自分もまた、命を産む側になる。そのことが嬉しかった。けれど同時に、もしこの子を無事に抱けなかったらどうしようという恐怖もあった。愛されるかどうかに怯えていた自分が、今はこの子を失うことを恐れている。その変化が、静香には不思議でならなかった。
清子は娘の手を強く握った。
「苦しくなったら、声を出していい。」
「我慢しなくていいの。」
静香は力強くうなずいた。
長い陣痛の末、小さな産声が納屋へ響く。
「おぎゃあ……。」
女の子だった。
その声を聞いた瞬間、静香の中で何かがほどけた。
痛みでぼやけていた視界の中に、確かな喜びが流れ込んでくる。生きている。泣いている。自分の体から、この子が出てきた。その事実が、静香の胸を熱くした。
静香は涙を流しながら、その小さな命を胸へ抱く。
「ありがとう。」
「生まれてきてくれて。」
腕の中の重みは、思っていたよりずっと軽い。けれど、その軽さがかえって愛おしかった。こんなにも小さく、こんなにも頼りない存在を、自分は守るのだ。守りたいと、心から思えた。その瞬間、静香は初めて、自分が誰かに必要とされる喜びを知った。
来真は納屋の外で、その泣き声を聞いていた。
震える足で中へ入る。
静香の腕には、小さな女の子。
来真はそっと娘を抱き上げた。
「小さいな……。」
初めて見せる柔らかな笑顔だった。
「この子の名前は。」
静香が静かに答える。
「幸江。」
「幸せな人生を歩んでほしい。」
その願いが込められていた。
名前を口にしたとき、静香の胸には、これまでにないほどの温かさが満ちた。自分が名を与える。自分が願いを託す。そのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。愛されるかどうかに怯えていた自分が、今はこの子の幸せを願う母になっている。その変化が、静香には眩しかった。
来真は眠る娘を見つめ、小さく呟いた。
「幸江……。」
「お前だけは、必ず守る。」
その誓いだけは、本心だった。
だが、静香はその横顔を見ながら気付いていた。
来真が優しく見つめているのは、自分ではなく娘なのだと。
その小さな寂しさが、胸の奥に静かに沈む。やはり自分は、まだ完全には愛されていないのかもしれない。そう思うと、少しだけ苦しかった。けれど同時に、幸江を見つめる来真の目に嘘がないことも分かった。だから静香は、その寂しさを無理に追い払わなかった。
(私は、この子を抱けた。)
(それだけで、もう十分に幸せだ。)
そう思いながら、静香は母となった。
そして数年後、清子たち家族に思いもよらぬ知らせが届く。
遠く離れた日本で、生き別れになっていた弟が、姉・清子を捜し続けているという知らせだった。
それは、水上家の運命を大きく変える転機の始まりとなる。




