第二十六章 一夜の過ち
春の終わり。
静香は十九歳になっていた。
家では相変わらず家事をこなし、弟妹たちの面倒を見ながら、母・清子を支える毎日を送っていた。
来真との縁談は進んでいたものの、二人の距離は少しずつ縮まる程度だった。
恋人というより、互いに礼儀を重んじる知人のような関係。
それでも、来真は時折、水上家へ米や野菜を持ってきてくれた。
「少しですが。」
「市場で安く手に入ったので。」
清子は何度も頭を下げた。
「いつもありがとうございます。」
来真は照れたように笑うだけだった。
ある日、村で豊作を祝う小さな宴が開かれた。
質素な集まりだったが、久しぶりに人々の笑顔があふれていた。
来真も誘われていた。
酒はあまり強くなかったが、勧められるまま杯を重ねる。
静香は子どもたちの世話を終え、遅れて会場へ向かった。
「静香さん。」
来真は少し赤い顔で笑った。
「今日は珍しく来たんですね。」
「たまには顔を出しなさいって、お母さんに言われまして。」
二人は少しだけ話をした。
こんなふうにゆっくり話すのは初めてだった。
静香は、来真が普段よりよく笑うことを知った。
来真は、静香が穏やかで聞き上手な女性だと感じていた。
宴も終わり、人々は帰り始めた。
空には細い月が浮かんでいた。
「送ります。」
来真が静かに言った。
「ありがとうございます。」
二人は並んで歩き始めた。
夜風はまだ少し冷たい。
道中、来真はぽつりと話し始めた。
「静香さんは……。」
「苦労ばかりしてきましたね。」
静香は少し笑った。
「そうですね。」
「でも、それが私の人生でしたから。」
「辛いと思ったことはありません。」
「家族がいましたから。」
その言葉を聞き、来真は胸の奥が少し痛んだ。
自分にはそんな強さはない。
そう思った。
途中で雨が降り出した。
激しい夕立だった。
二人は近くの古い倉庫へ雨宿りをする。
屋根を叩く雨音だけが響く。
しばらく沈黙が続いた。
来真は酒が残っていた。
いつもより判断力が鈍っていた。
「静香さん。」
「はい。」
「あなたは……。」
来真は言葉を探した。
しかし、うまくまとまらない。
静香は心配そうに顔をのぞき込む。
「大丈夫ですか。」
その優しさに触れた瞬間、来真は静香の手を握ってしまった。
静香は驚き、目を見開く。
「来真さん……。」
来真は我に返る。
「すみません。」
「私は……。」
「酔っています。」
そう言って手を離そうとした。
だが静香は、来真の震える手に気付いた。
「無理をしてきたんですね。」
「仕事も、家のことも。」
来真は苦笑した。
「男だから。」
「弱音は吐けません。」
静香は静かに答えた。
「男でも、苦しい時は苦しいですよ。」
その言葉に、来真の張り詰めていた心が揺らいだ。
雨音だけが二人を包む。
互いの寂しさや孤独が、ほんの一瞬だけ重なった。
その夜、二人は一線を越えてしまう。
それは激しい恋に身を任せた末ではなかった。
長年抱えてきた孤独と疲れ、そして弱さが招いた、取り返しのつかない過ちだった。
数週間後。
静香は体調の変化に気付く。
朝から吐き気が続き、食欲もない。
清子は娘の様子を見て、静かに尋ねた。
「静香。」
「何か心当たりはある?」
静香は青ざめた顔で黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
「……あります。」
その一言で、清子はすべてを悟った。
静香は震えながら涙を流した。
「お母さん、ごめんなさい。」
「私は……。」
「取り返しのつかないことをしてしまいました。」
清子は娘を責めなかった。
ただ、静かに抱きしめた。
「一人で苦しかったでしょう。」
「まずは来真さんと話をしましょう。」
翌日。
清子は来真を呼び出した。
静香も隣に座っている。
重い沈黙の中、清子が口を開いた。
「静香に……子どもができました。」
来真はその言葉を聞き、顔色を失った。
しばらく何も話せない。
やがて深く頭を下げた。
「……私の責任です。」
「申し訳ありません。」
清子は静かに問いかける。
「来真さん。」
「あなたはどうするつもりですか。」
来真は拳を強く握り締めた。
「結婚します。」
「責任は必ず取ります。」
その言葉に嘘はなかった。
しかし、それは愛を告げる言葉ではなかった。
責任。
世間体。
生まれてくる命への義務。
その思いだけで口にした決意だった。
静香は来真の横顔を見つめながら、胸の奥で静かに理解していた。
(この人は……私を愛して結婚するわけではない。)
それでも、お腹の子だけは守りたかった。
その小さな命に罪はない。
静香は涙をぬぐい、ゆっくりとうなずいた。
「……よろしくお願いします。」
こうして二人は結婚を決意する。
それは祝福だけでは始まらない、苦しみと葛藤を抱えた夫婦の始まりだった。
そして一年後、静香は長女・幸江を出産する。
その子の誕生が、家族に新たな希望をもたらす一方で、来真の心には決して埋まることのない迷いを残していく。




