第二十五章 運命の縁談
秀蘭が亡くなって一年が過ぎた。
清子は、まるで自分の体のどこかを削り取られたような喪失感を抱えたまま、それでも立ち止まることはできなかった。朝は早くから起き、手を動かし、日が暮れてもなお働き続けた。悲しみは消えない。けれど、悲しみに沈んでしまえば、残された子どもたちを守れない。そのことだけが、清子をかろうじて前へ押し出していた。
子どもたちもまた、それぞれのやり方で家を支えていた。
静香は十八歳。
一新は十四歳。
新潔は十一歳。
正恵は六歳になっていた。
それぞれの背丈が少しずつ伸び、声が変わり、顔つきにも幼さの中に確かな日々の重みが刻まれていく。その変化を見るたび、清子は嬉しさと寂しさを同時に覚えた。子どもたちは育っている。けれど、育っていくということは、いつかこの手から離れていくということでもあるのだ。
ある日、清子は市場で古くから付き合いのある女性に呼び止められた。
「清華さん。」
その声に振り向くと、相手は少し言いにくそうに、それでもどこか期待を含んだ目をしていた。
「少し話があるんだけど。」
清子は胸の奥に、何か小さな予感のようなものを覚えた。市場のざわめき、魚の匂い、野菜の土の匂い、行き交う人々の足音。その中で、女性の声だけが妙に近く、重く響く。仕事を終えた清子は、近くの茶屋でその女性と向かい合った。
湯気の立つ茶碗を前にしても、清子の指先はなかなか温まらなかった。女性はしばらく言葉を選ぶように視線を落としていたが、やがて小さく息をついて口を開いた。
「実はね。」
その一言だけで、清子の胸はわずかに強く打った。
「いい青年がいるんだ。」
清子は黙って聞いた。茶碗の縁に触れた指先が、かすかに熱い。女性は続ける。
「満鉄の工場で働いていて、真面目な子だよ。」
その言葉を聞いた瞬間、清子の頭に浮かんだのは、静香の顔だった。まだ幼さの残る横顔。家事を手伝うときの静かな手つき。弟妹を見守るときの、少し大人びた眼差し。あの子に、もうそんな話が来る年齢になったのか――そう思うと、清子は胸の奥がひやりとするのを感じた。
「私にですか?」
思わずそう返した声は、自分でも驚くほどかすれていた。女性はそれを見て、やわらかく笑いながら首を振る。
「違うよ。」
「静香さんに。」
その言葉に、清子は息を呑んだ。
静香に――。
頭では、いつかはこういう話が来るのだと分かっていた。十八歳という年齢は、もう決して早すぎるわけではない。むしろ、周囲から見れば遅くはないのかもしれない。それでも、実際に娘の縁談を告げられると、清子の胸には思いがけない痛みが走った。まだ家の中で静かに笑っている娘が、誰かの妻になる。別の家へ行き、別の人生を歩む。その現実が、急に輪郭を持って迫ってきた。
「静香に……。」
清子は、言葉を繰り返すことしかできなかった。
「まだ早いでしょうか。」
女性は静かに微笑む。その笑みには、押しつけるような気配はなかった。ただ、長く生きてきた者だけが持つ、現実を見据えた落ち着きがあった。
「昔なら十八歳は十分嫁入りの歳だよ。」
「苦労人同士なら、支え合って生きていけるかもしれない。」
その言葉は、清子の胸に重く、しかし確かに落ちた。
支え合って生きる――。
それは、清子自身がずっと願ってきたことでもあった。異国で、何度も失い、何度も耐え、ようやくここまで来た。だからこそ、娘にもただ苦労を背負わせるだけではなく、誰かと寄り添って生きてほしい。そう思う一方で、静香を手放すことへの怖さが、どうしても消えなかった。
娘は、家の中であまりにも長く、あまりにも多くを背負ってきた。もしこの縁談が静香にとって幸せなものなら――そう願う気持ちと、まだこの家にいてほしいと願う気持ちが、清子の中で静かにせめぎ合っていた。
数日後。
清子は静香へその話をした。
夕食を終え、子どもたちがそれぞれの部屋へ引き上げたあと、家の中がようやく静まり返った頃だった。灯りの下で向かい合うと、静香の顔はいつもより少し疲れて見えた。けれど、その疲れの奥にある穏やかさが、清子にはかえって胸を痛ませた。
「静香。」
「少し話があるの。」
静香は縫い物の手を止める。針と糸が、膝の上で小さく揺れた。
「何でしょう。」
その声は落ち着いていたが、清子には娘がすでに何かを察しているようにも思えた。静香は昔から、感情を大きく表に出す子ではない。けれど、だからこそ、心の奥で何を感じているのかが分かりにくい。清子は一度息を吸い、言葉を選びながら口を開いた。
「縁談が来ているの。」
その瞬間、静香の指先がほんのわずかに止まった。驚きはしたはずなのに、声を荒げることも、顔色を変えることもない。ただ、まぶたが少しだけ揺れた。その静かな反応が、かえって清子の胸を締めつけた。
「……私にですか。」
「ええ。」
しばらく沈黙が流れた。
家の外では風が木々を揺らし、どこかで犬が一度だけ吠えた。静香は窓の外を見つめ、小さく息をつく。その横顔は、幼い頃から何度も見てきたはずなのに、今夜は妙に遠く感じられた。娘が自分の知らない場所へ心を向け始めている――そんな予感が、清子の胸にじわりと広がる。
「お母さん。」
静香の声は低く、少しだけ震えていた。
「私は、この家を離れてもいいのでしょうか。」
その一言に、清子の胸がぎゅっと締めつけられる。
静香は幼い頃から、自分のことより家族を優先してきた。祖母の介護。弟妹の世話。家事。母を支えること。誰かが泣けばそっと背中をさすり、誰かが疲れていれば黙って代わりを引き受けた。十八年間、自分のために生きたことがほとんどなかった娘が、今、ようやく自分の人生を考え始めている。そのことが嬉しいはずなのに、清子は同時に、胸の奥に冷たい不安が広がるのを止められなかった。
「静香。」
清子はできるだけ穏やかに言った。
「あなたには幸せになる権利があるの。」
その言葉を口にしながら、清子自身もまた、その意味を噛みしめていた。娘に幸せになってほしい。けれど、幸せになるということは、今までのようにこの家に縛られないということでもある。清子はその現実を受け入れようとして、どうしても指先が震えた。
「でも……。」
静香は弟妹たちが眠る部屋へ目を向けた。襖の向こうには、幼い寝息がかすかに聞こえてくる。あの小さな呼吸のひとつひとつを、静香はどれほど長く守ってきただろう。
「一新も、新潔も、正恵も。」
「まだお母さんを必要としています。」
「私がいなくなったら、お母さん一人では……。」
その言葉は、静香自身の願いというより、これまで背負ってきた責任の重さからこぼれたものだった。自分が離れることへの不安よりも、残していく家族への心配が先に立っている。その優しさが、清子には痛いほど分かった。
清子は娘の手をそっと握る。静香の手は、働き続けてきたせいで少し硬く、けれど温かかった。幼い頃から何度も握ってきたその手が、今はもう、母の手と同じくらい大きくなっている。
「大丈夫。」
清子は静かに言った。
「あなたが今まで支えてくれたから、弟たちも立派に育っている。」
「もう、一新も新潔も、お母さんを助けられる年齢よ。」
静香は何も言えなかった。
ただ、握られた手のぬくもりだけが、じんわりと胸に染みていく。離れたいわけではない。けれど、離れなければ始まらない人生があるのかもしれない――そんな思いが、静香の中でまだ形にならないまま揺れていた。
数日後。
紹介された青年と会うことになった。
その青年の名は、黄来真。
二十三歳。
大柄で物静かな青年だった。
満鉄の工場で働き、周囲からは「真面目な男」と評判だった。
その日、静香は朝から落ち着かなかった。髪を結い直しても、襟元を整えても、胸の奥のざわめきは消えない。鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけ硬く見えた。期待しているのか、怖がっているのか、自分でも分からない。ただ、初めて会う相手が自分の人生を少しでも変えるかもしれない――その事実だけが、静香の呼吸を浅くしていた。
来真は静香を見ると、軽く頭を下げた。
「初めまして。」
「黄来真です。」
低く落ち着いた声だった。大柄な体つきに似合う、無駄のない言い方。けれど、その声の奥には不思議と荒さがなく、静香はその瞬間、胸のどこかがふっと熱くなるのを感じた。
「静香です。」
二人はぎこちなく挨拶を交わした。
その瞬間、静香は来真に一目惚れした。
大柄で落ち着いた雰囲気。まっすぐな眼差し。派手さはないのに、そこにいるだけで場の空気が少し静まるような人だった。静香は生まれて初めて、胸が強く高鳴るのを感じた。耳の奥で自分の鼓動が大きく響き、指先が熱を持つ。視線を合わせるだけで、頬の内側がじんとする。こんな感覚があるのだと、静香は知らなかった。
話をしても、来真は必要以上のことは話さない。
けれど、そのぶっきらぼうに見える静けさの中に、妙な安心感があった。静香が言葉を探している間も、急かすことなく待っている。その沈黙は気まずさだけではなく、相手を軽んじない誠実さのようにも感じられた。
静香もまた、人見知りな性格だった。
だが、来真を前にすると緊張でうまく言葉が出ず、沈黙が流れる時間の方が長かった。何か話さなければと思うほど、喉が乾く。視線を上げれば来真の横顔が見える。そのたびに胸が跳ね、何でもない一瞬が妙に長く感じられた。
帰り道。
家へ向かう道は、夕暮れの薄い光に包まれていた。土の匂い、遠くで鳴く鳥の声、風に揺れる草の擦れる音。静香はそのすべてを、どこか夢の中のように感じていた。隣を歩く清子の足音が、いつもより少し遠い。さっきまで目の前にいた来真の姿が、まだ瞼の裏に焼きついている。
清子は娘へ尋ねた。
「どうだった?」
静香は少し考えて答える。
「……とても素敵な方でした。」
その言葉を口にした瞬間、自分の頬が熱くなるのが分かった。素敵――そんなありきたりな言葉しか出てこないことが、もどかしい。けれど、それ以上に、胸の奥にある高鳴りをどう言葉にしていいのか分からなかった。
「また、お会いしたいです。」
それは正直な気持ちだった。
初めて会ったその瞬間から、静香の胸は来真のことでいっぱいになっていた。歩くたびに、話すたびに、視線が合うたびに、心の奥が小さく震える。こんなにも誰かを意識したことはなかった。家族のために生きてきた自分の中に、まったく知らない感情が芽を出している。そのことが嬉しくて、恥ずかしくて、少し怖かった。
清子はそんな娘の横顔を見ながら、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。娘の声に宿った、これまで聞いたことのない柔らかさと熱を感じ取っていたからだ。
一方の来真も、家へ帰ると父から尋ねられた。
「どうだった。」
来真は短く答える。
「真面目そうな人だった。」
それ以上、言葉は続かなかった。
来真の胸に恋心は芽生えていなかった。
結婚とは家を守るためにするもの。
それが彼の考えだった。
けれど、静香のことを思い返すたび、あの控えめな声や、緊張で少し硬くなった表情が、妙に印象に残った。まだそれが恋だとは知らない。ただ、何かが静かに引っかかっている。その感覚を、来真はまだ言葉にできずにいた。
そして静香は、初めて会ったその日から来真に恋をしていた。
恋愛より家族を守ることだけを考えて生きてきた静香にとって、その胸の高鳴りはあまりにも新鮮で、苦しいほどだった。嬉しいのに落ち着かない。会いたいのに、会えば会うほど自分の気持ちがあふれそうになる。そんな初めての感情に、静香は戸惑いながらも、どうしようもなく惹かれていった。
二人はまだ、お互いを知らなかった。
それから数か月。
来真は何度か水上家を訪れるようになる。
正恵は人懐っこく近寄った。
「来真お兄ちゃん!」
来真は少し照れながら笑う。
「こんにちは。」
その笑みは不器用で、けれどどこか温かかった。正恵はすぐに懐き、来真の袖を引いてはあれこれ話しかける。来真もそれを嫌がらず、静かに相手をする。その様子を見るたび、静香の胸は小さく弾んだ。
新潔も新聞配達の帰りに挨拶をする。
一新とは仕事の話をすることも増えた。
家族の中へ少しずつ溶け込んでいく来真。
静香はその姿を見るたびに胸をときめかせ、うまく話しかけられない自分をもどかしく思っていた。来真が家の中にいるだけで、空気が少し変わる。静かなのに、どこか安心できる。そんな存在が、いつの間にか自分の暮らしの中に入り込んでいることが、静香には信じられなかった。
しかし、静香との距離だけはなかなか縮まらなかった。
二人とも不器用だった。
来真は感情を言葉にするのが得意ではなく、静香は気持ちを伝える勇気が持てない。目が合えば心臓が跳ね、何か言おうとすれば喉が詰まる。ほんの少し近づきたいだけなのに、その一歩がどうしても踏み出せない。静香はそのたびに、自分の臆病さを苦く思った。
それでも静香は思っていた。
(この人のそばにいたい。)
その小さな願いが、静香の胸に芽生え始めていた。
だが、その願いはやがて残酷な現実によって打ち砕かれる。
来真が静香を愛して結婚することはない。
ある一夜の出来事が、二人の運命を大きく変えてしまうのだった。




