第二十三章 幼き働き手
正恵が生まれてから五年。
季節は何度も巡ったが、暮らしが楽になることはなかった。
静香は十七歳。
一新は十三歳。
新潔は十歳。
正恵は五歳になっていた。
父を失ってから、家族は誰一人として立ち止まることなく生き続けていた。
戦争が終わっても、満州の地に残された人々の暮らしはすぐには安定しなかった。日本人だった者たちは帰国の道を失い、あるいは身分を隠し、周囲に合わせて生きるしかなかった。清子もまた、子どもたちにさえ本当の出自を明かさず、中国人として名乗り、中国人の家族として暮らしていた。
日本人だと知られれば、戦争の記憶が残る土地では、差別や監視の目にさらされる。文化大革命の混乱が広がる時代には、出自や家柄、過去の経歴ひとつで生活が脅かされることも珍しくなかった。だから清子は、子どもたちを守るために、沈黙を選び続けていた。
夜明け前。
町がまだ暗闇に包まれている頃、一新は重たい靴磨き箱を肩に掛けて家を出る。
「お母さん、行ってきます。」
「気を付けるのよ。」
清子はそう言いながら、一新の擦り切れた上着の襟を整えた。
十三歳の肩には、大人でも重い箱が食い込む。
それでも一新は弱音を吐かなかった。
駅前へ行き、人が通るたびに声を掛ける。
「靴を磨きませんか。」
返事もなく通り過ぎる人。
「子どもに頼むことじゃない。」
そう言って笑う者もいた。
それでも一新は頭を下げ続けた。
ようやく仕事が入ると、父から教わった通りに丁寧に靴を磨く。
磨き終えた靴は鏡のように光っていた。
「坊主、上手だな。」
そう言われると、一新は少しだけ笑顔になった。
その笑顔を見ることができるのは、その瞬間だけだった。
一方、新潔はまだ十歳だった。
本来なら学校へ通い、友達と遊びたい年頃だった。
しかし文化大革命の影響で学校はまともに機能せず、家計を支えるため働かなければならなかった。
朝早く新聞配達をし、昼は市場で荷物運びを手伝う。
家へ帰れば薪を割り、水を汲む。
そんな毎日だった。
「兄ちゃん。」
仕事帰り、一新へ尋ねる。
「疲れないの?」
一新は苦笑する。
「疲れるよ。」
「でも俺たちが働かなきゃ、お母さんが倒れる。」
新潔は黙ってうなずいた。
「僕も頑張る。」
その瞳には、十歳とは思えない覚悟が宿っていた。
正恵はまだ幼かった。
それでも母が苦労していることは分かっていた。
「お母さん。」
「お水くんでくる。」
小さな桶を抱えて井戸へ向かう。
桶は重く、何度も転びそうになる。
静香は慌てて駆け寄った。
「正恵、まだ危ないわ。」
「でも、お母さん、いつも疲れてる。」
静香は妹を抱き寄せる。
「ありがとう。」
「その気持ちだけで、お母さんは嬉しいと思う。」
正恵は照れくさそうに笑った。
家へ帰ると、夕飯の時間だった。
鍋の中には、野菜の切れ端が浮いた薄い粥。
四人の子どもたちは、それぞれ茶碗を手に取る。
清子はいつものように座るだけだった。
静香が気づく。
「お母さん。」
「今日は食べてください。」
「私は後で。」
「また、その言葉ですか。」
静香は静かに立ち上がる。
自分の茶碗を半分、母の器へ移した。
一新も続く。
「俺も。」
新潔も何も言わず、自分の粥を少し入れる。
正恵は兄や姉を見て真似をした。
「ましゃえも。」
四つの茶碗から集まった粥は、一人前にも満たなかった。
それでも清子は涙が止まらなかった。
「ありがとう……。」
「みんな、ごめんね。」
静香は首を振った。
「謝らないでください。」
「私たちは、お母さんに育ててもらいました。」
「今度は私たちがお母さんを支える番です。」
その言葉に、一新も新潔も力強くうなずいた。
しかし、貧しさは子どもたちの身体を少しずつ蝕んでいた。
ある日の夕食。
新潔は自分の茶碗をそっと一新へ差し出した。
「兄ちゃん。」
「食べて。」
「今日はたくさん働いたでしょ。」
一新は首を横に振る。
「新潔も働いただろ。」
「でも兄ちゃんの方が大変だから。」
そう言いながら、新潔は台所へ行き、水瓶の横に置いてあった米を研いだ後の白く濁った水を器へ注いだ。
それを静かに飲み始める。
静香は思わず立ち上がった。
「新潔!」
「そんなもの飲んじゃ駄目!」
新潔は少し困ったように笑う。
「大丈夫。」
「これでも、お腹は少し膨れるから。」
「それに……。」
「お母さんも食べてない。」
「だから僕は平気。」
清子はその姿を見て胸が締めつけられた。
「新潔。」
抱き寄せようとするが、新潔は笑って首を振る。
「僕、強い子になる。」
「だから心配しないで。」
その小さな笑顔の裏で、栄養不足は確実に新潔の身体を蝕んでいた。
必要な栄養を摂れない生活は何年も続き、成長とともに視力は少しずつ失われていく。
この時、誰もそのことに気づいてはいなかった。
その夜。
静香は縫い物をしながら、眠る弟妹たちを見つめていた。
一新の手には靴墨の跡。
新潔の指先には新聞紙でできた細かな傷。
正恵は小さな身体を丸めて眠っている。
静香はそっと窓の外を見上げた。
満州で両親を失い、中国で名前を変え、日本人であることを隠しながら生きてきた母。
その母が命を懸けて守ってきた家族。
子どもたちはまだ、自分たちが日本人であることを知らない。清子は、いつか話す日が来るのかどうかさえ分からないまま、それでも中国人の一家として生き抜くしかなかった。
(私も守らなければ。)
その決意は、日に日に強くなっていった。
そして翌年。
静香の人生を大きく変える出会いが訪れる。
母・清子が連れてきた一人の青年。
その名は――黄来真。
この出会いが、静香に新たな幸せと、そして大きな苦しみをもたらすことになる。




