第二十二章 父のいない春
邑黄が亡くなってから、一か月が過ぎた。
家の中は静まり返っていた。
夕方になっても「ただいま」と戸を開ける声は聞こえない。
酒の匂いもしない。
怒鳴り声もない。
それなのに家は以前より静かで、以前より寂しかった。
清子はふと戸口へ目を向けては、
(もう帰ってこない。)
そう思い知らされるのだった。
夫を亡くしたことで、家計は完全に途絶えた。
残っていたわずかな貯えも底をつき、家の中で売れる物はほとんど残っていない。
食卓に並ぶのは、粟を少し混ぜた粥だけ。
それすら四人で分け合う日もあった。
清子は子どもたちに器を配り、自分は湯だけを飲んだ。
静香はそれを見逃さなかった。
「お母さん。」
「また食べていませんね。」
清子は笑顔を作る。
「お腹がいっぱいなの。」
静香は静かに首を横へ振った。
「私はもう子どもではありません。」
「その言葉が嘘だって分かります。」
清子は少し驚いた。
いつの間にか、娘は母の表情だけで心を読むようになっていた。
「お願いです。」
「少しだけでも食べてください。」
「お母さんが倒れたら、この家は終わってしまいます。」
その言葉に、清子は静かに粥を一口だけ口へ運んだ。
「ありがとう。」
そう言う声は震えていた。
義母の身体はさらに弱っていた。
寝返りを打つことも難しくなり、一日のほとんどを布団の中で過ごしていた。
静香は学校へ行く前に祖母の体を拭き、食事を食べさせる。
帰宅すると洗濯をし、夕飯の支度を手伝い、新潔の世話をする。
夜になれば義母の様子を見に行き、何度も布団を直した。
そんなある日。
義母が静かに口を開いた。
「静香。」
「はい。」
「お前は……まだ子どもなのに。」
静香は少し笑った。
「そうでしょうか。」
「私は、お母さんの娘ですから。」
その一言に義母は目を閉じた。
「お前の母親は強い。」
「そして、お前も……強い子だ。」
静香は黙って祖母の手を握った。
その手は以前よりもずっと細く、小さくなっていた。
春が近づいた頃。
清子の陣痛が始まった。
外ではまだ冷たい風が吹いている。
「静香。」
「始まったみたい。」
清子は静かにお腹を押さえた。
静香は慌てることなくうなずいた。
「分かりました。」
「一新、新潔。」
「今日はお姉ちゃんと一緒にいよう。」
一新は心配そうに母を見る。
「お母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ。」
清子は優しく笑った。
「今回もきっと元気な子が生まれるから。」
その言葉を残し、清子は一人、納屋へ向かった。
納屋には誰もいない。
古い干し草。
薄い布。
それだけだった。
四度目の出産。
それでも痛みは決して慣れるものではない。
激しい陣痛に歯を食いしばり、柱へ身体を預ける。
汗が流れ、何度も意識が遠のく。
(邑黄さん。)
苦しみの中で、夫の顔が浮かんだ。
酒に苦しみ、後悔しながらも、家族を愛していた人。
最後にお腹へ手を当ててくれた日のことを思い出す。
『会いたかったな……。』
その言葉が耳に蘇る。
「あなた。」
「この子は……。」
「あなたの分まで、私が守ります。」
涙が頬を伝った。
その涙とともに、大きな痛みが押し寄せる。
「……っ!」
やがて納屋に、小さな産声が響いた。
「おぎゃあ、おぎゃあ。」
清子は震える腕で赤ん坊を抱き上げる。
小さな女の子だった。
「よく頑張ったね。」
「お父さんには会えなかったけれど……。」
「あなたは、お母さんが命をかけて守る。」
赤ん坊は泣きながら、小さな手を握った。
まるで母の言葉に応えるようだった。
家の中では、新潔が落ち着かない様子で何度も外を見ていた。
「お姉ちゃん。」
「お母さん、まだ?」
静香は優しく頭を撫でる。
「もうすぐよ。」
その時だった。
納屋から元気な泣き声が聞こえてきた。
一新は思わず立ち上がる。
「生まれた!」
静香は安堵の息をついた。
「良かった……。」
しばらくして清子が赤ん坊を抱いて家へ戻る。
疲れ切った顔だった。
それでも、その腕にはしっかりと新しい命が抱かれている。
静香はそっと赤ん坊を覗き込んだ。
「女の子……。」
赤ん坊は眠るように目を閉じていた。
「かわいい。」
静香は自然と笑みを浮かべる。
一新も嬉しそうに顔を近づけた。
「僕、お兄ちゃんだ。」
新潔は不思議そうに妹の手をつついた。
その小さな指が新潔の指を握る。
「握った!」
兄妹たちの笑い声が、久しぶりに家へ戻ってきた。
数日後。
清子は娘へ名前を贈った。
「正恵」
「正しく、人に恵みを与えられる人になってほしい。」
それが母の願いだった。
静香は眠る妹を見つめながら、小さく呟く。
「正恵。」
「あなたは、お父さんに会えなかった。」
「でも安心して。」
「お父さんの分まで、私たちがお兄ちゃん、お姉ちゃんになるから。」
その誓いは、幼い少女が胸に刻んだ新たな使命だった。
しかし、この先の人生は、さらに過酷なものとなる。
成長した一新は家族を支えるために本格的に靴磨きの仕事へ。
そして新潔もまた、幼くして新聞配達を始めることになる。
飢えと貧しさの中で、それぞれが大人になることを強いられていく。




