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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第三部 文化大革命
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第二十一章 父の最期

冬の冷たい風が家の隙間から吹き込んでいた。

壁の土はところどころ崩れ、窓には薄い紙が貼られているだけで、夜になると外の寒さがそのまま部屋に入り込んだ。石炭も思うように手に入らず、火鉢の火はすぐに弱まる。文化大革命の混乱で、町には貼り紙や批判大会の声があふれ、学校は閉鎖され、店先には物が並ばない日も多かった。配給の雑穀や芋をやりくりしながら、家族はどうにか冬をしのいでいた。

清子のお腹は大きく膨らみ、四人目の命は順調に育っていた。

しかし、その喜びとは裏腹に、邑黄の身体は日ごとに衰えていった。

朝になると激しく咳き込み、顔色は土のように青白い。

食事を口にしてもすぐに吐き戻し、酒を飲まなければ手足の震えが止まらない。

それでも酒を口にすると、今度は胃を押さえて苦しんだ。

この頃の町では、病院へ行くことさえ簡単ではなかった。革命委員会の管理で診療は制限され、医師の数も足りない。多くの医者は批判闘争に立たされたり、農村へ下放されたりして、外来はいつも長い列だった。薬も不足し、抗生剤や痛み止めは配給のように限られていた。診てもらうには紹介状が必要なこともあり、待っている間に一日が終わることも珍しくなかった。

「あなた……。」

清子は心配そうに背中をさする。

「病院へ行きましょう。」

邑黄は力なく笑った。

「金がない。」

「それに……。」

咳をこらえながら続ける。

「今さら医者に診てもらっても、家族を食わせる金が減るだけだ。」

病院へ行けば、診察代だけでは済まない。町までの交通費もいる。薬が出ても、すぐに手に入るとは限らない。何より、家には食べ盛りの子どもたちがいた。清子は妊娠中で、長く並ぶこともできない。誰かが付き添えば、その間の仕事も家事も止まってしまう。病院へ行くための一日が、そのまま一家の食卓を削ることになる。

その言葉に、清子は何も返せなかった。

病院へ連れて行きたい。

薬を飲ませたい。

けれど、その金があれば子どもたちは数日食べていける。

それが現実だった。


そうしているうちに、邑黄の衰えは、家の誰の目にも隠せないものになっていった。

静香は十二歳になっていた。

朝早く起きて祖母の介護をし、家事を済ませる。

文化大革命の混乱で学校は閉鎖されており、教師たちは批判大会に立たされたり、農村へ送られたりしていた。教室は空いたまま、黒板には粉のようなチョークの跡だけが残る。子どもたちは勉強よりも、家の手伝いを優先せざるを得なかった。静香もまた、母の代わりに家を守る時間が増えていた。

ある朝、邑黄が庭で倒れた。

「お父さん!」

静香は駆け寄り、細くなった身体を支える。

「大丈夫ですか。」

邑黄は苦しそうに息をしながら微笑んだ。

「静香か……。」

「少し、立ちくらみをしただけだ。」

そう言って立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

静香は黙って父の腕を肩に回した。

「部屋まで行きましょう。」

その小さな肩を借りながら歩く邑黄は、ふと涙ぐんだ。

「大きくなったな。」

「お前に支えられる日が来るなんてな……。」

静香は少し照れたように笑った。

「お父さんが、昔たくさん抱っこしてくれたからです。」

その言葉が、邑黄の胸に深く刺さった。


それから数日、邑黄は起き上がることもつらそうにしていた。

夜になると震えがひどくなり、酒を飲まずに眠ろうとした身体は、たちまち苦しみに襲われる。

身体中から汗が噴き出し、歯が鳴る。

苦しそうに布団の上で身体を丸める。

「寒い……。」

「寒い……。」

清子は毛布を重ねる。

静香は濡れた手ぬぐいで父の額を拭いた。

「お父さん、水を飲んでください。」

震える手で湯飲みを差し出す。

邑黄は娘の手を見つめた。

細く、小さな手。

本来なら遊んでいるはずの年齢なのに、その手は家事と介護で荒れていた。配給の列に並び、薪を拾い、祖母の世話をし、弟たちの面倒を見る。文化大革命の騒ぎで大人たちも落ち着かず、家の中では子どもが子どもでいられなかった。

「すまない……。」

「全部……俺のせいだ。」

静香は静かに首を振る。

「違います。」

「お父さんは家族のために働いてきました。」

「だから、もう自分を責めないでください。」

邑黄は声を上げて泣いた。

娘に慰められる父親になってしまった。

その現実が、何より苦しかった。


その苦しみは、やがて仕事にも及んだ。

数日後。

邑黄は仕事へ向かう途中、郵便局の前で倒れた。

同僚に支えられ、ようやく家へ戻される。

その日を境に、もう仕事へ行くことはできなかった。

収入は途絶えた。

家の中にあるものを売り、食料へ換える。

布団が減り、家具が減り、最後には服まで質へ入れた。

それでも足りなかった。

病院へ行くことも考えたが、行けば行ったで、診察の順番を待つ間に一日が終わる。薬があっても、すぐには手に入らない。医師の数は少なく、病院の廊下には同じように病人を抱えた家族があふれていた。革命の時代、誰もが「我慢するしかない」と口にした。家族の誰かが病院へ付き添えば、その分だけ畑仕事も配給の受け取りも遅れる。清子は妊娠中で、長く外に出ることもできない。静香はまだ十二歳で、弟たちを置いて遠くまで行くこともできなかった。

そうして、看病するしかない日々が続いた。


ある夜。

邑黄は布団の中で静かに目を開いた。

枕元には清子が座っている。

その隣には静香、一新、新潔。

三人とも父の手を握っていた。

邑黄はゆっくりとお腹の大きな清子を見つめる。

「……生まれてくる子は。」

「女の子かもしれないな。」

清子は涙をこらえながらうなずいた。

「ええ。」

「元気に生まれてきてくれると思います。」

邑黄はお腹へ震える手を伸ばした。

そっと撫でる。

「会いたかったな……。」

「抱っこ……したかった。」

その言葉に、清子は涙を流した。

「きっと、この子にもあなたの気持ちは伝わっています。」

邑黄は微かに笑う。

そして子どもたちへ目を向けた。

「静香。」

「はい。」

「お母さんを……頼む。」

静香は涙を拭いながら、まっすぐ父を見つめた。

「約束します。」

「私がお母さんを守ります。」

「弟たちも、みんなで守ります。」

邑黄は静かにうなずいた。

次に一新を見る。

「一新。」

「はい、お父さん。」

「男だからと無理をするな。」

「母さんを助けてやれ。」

「はい。」

涙を流しながら答える。

新潔はまだ幼く、何が起きているのか分からない。

「お父さん……。」

その小さな声に、邑黄は優しく微笑んだ。

「大きくなれ。」

「優しい男になれ。」

新潔は何も言えず、父の手を強く握り返した。


やがて夜明け前が近づいた。

外では静かに雪が降り始めていた。

邑黄は最後に清子を見つめる。

「清子。」

「……幸せだった。」

「ありがとう。」

清子は夫の手を握りしめる。

「私もです。」

「ありがとう。」

その言葉を聞くと、邑黄は安らかな表情になった。

静かに目を閉じる。

そして――

そのまま二度と目を開けることはなかった。

部屋には静寂だけが残った。

清子は夫の胸に顔を伏せ、声を押し殺して泣いた。

静香は母の肩を抱き、一新は唇を噛み締める。

幼い新潔だけが、眠る父の肩を揺すり続けた。

「お父さん。」

「起きて。」

「ねえ、お父さん……。」

返事は、もうなかった。

そのとき清子のお腹の中で、小さな命が静かに動いた。

父の温もりを知ることなく生まれてくる、最後の子。

その子は数か月後、「正恵」と名付けられる。

父の願いと、母の強さを受け継ぎながら。

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