第二十一章 父の最期
冬の冷たい風が家の隙間から吹き込んでいた。
壁の土はところどころ崩れ、窓には薄い紙が貼られているだけで、夜になると外の寒さがそのまま部屋に入り込んだ。石炭も思うように手に入らず、火鉢の火はすぐに弱まる。文化大革命の混乱で、町には貼り紙や批判大会の声があふれ、学校は閉鎖され、店先には物が並ばない日も多かった。配給の雑穀や芋をやりくりしながら、家族はどうにか冬をしのいでいた。
清子のお腹は大きく膨らみ、四人目の命は順調に育っていた。
しかし、その喜びとは裏腹に、邑黄の身体は日ごとに衰えていった。
朝になると激しく咳き込み、顔色は土のように青白い。
食事を口にしてもすぐに吐き戻し、酒を飲まなければ手足の震えが止まらない。
それでも酒を口にすると、今度は胃を押さえて苦しんだ。
この頃の町では、病院へ行くことさえ簡単ではなかった。革命委員会の管理で診療は制限され、医師の数も足りない。多くの医者は批判闘争に立たされたり、農村へ下放されたりして、外来はいつも長い列だった。薬も不足し、抗生剤や痛み止めは配給のように限られていた。診てもらうには紹介状が必要なこともあり、待っている間に一日が終わることも珍しくなかった。
「あなた……。」
清子は心配そうに背中をさする。
「病院へ行きましょう。」
邑黄は力なく笑った。
「金がない。」
「それに……。」
咳をこらえながら続ける。
「今さら医者に診てもらっても、家族を食わせる金が減るだけだ。」
病院へ行けば、診察代だけでは済まない。町までの交通費もいる。薬が出ても、すぐに手に入るとは限らない。何より、家には食べ盛りの子どもたちがいた。清子は妊娠中で、長く並ぶこともできない。誰かが付き添えば、その間の仕事も家事も止まってしまう。病院へ行くための一日が、そのまま一家の食卓を削ることになる。
その言葉に、清子は何も返せなかった。
病院へ連れて行きたい。
薬を飲ませたい。
けれど、その金があれば子どもたちは数日食べていける。
それが現実だった。
そうしているうちに、邑黄の衰えは、家の誰の目にも隠せないものになっていった。
静香は十二歳になっていた。
朝早く起きて祖母の介護をし、家事を済ませる。
文化大革命の混乱で学校は閉鎖されており、教師たちは批判大会に立たされたり、農村へ送られたりしていた。教室は空いたまま、黒板には粉のようなチョークの跡だけが残る。子どもたちは勉強よりも、家の手伝いを優先せざるを得なかった。静香もまた、母の代わりに家を守る時間が増えていた。
ある朝、邑黄が庭で倒れた。
「お父さん!」
静香は駆け寄り、細くなった身体を支える。
「大丈夫ですか。」
邑黄は苦しそうに息をしながら微笑んだ。
「静香か……。」
「少し、立ちくらみをしただけだ。」
そう言って立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
静香は黙って父の腕を肩に回した。
「部屋まで行きましょう。」
その小さな肩を借りながら歩く邑黄は、ふと涙ぐんだ。
「大きくなったな。」
「お前に支えられる日が来るなんてな……。」
静香は少し照れたように笑った。
「お父さんが、昔たくさん抱っこしてくれたからです。」
その言葉が、邑黄の胸に深く刺さった。
それから数日、邑黄は起き上がることもつらそうにしていた。
夜になると震えがひどくなり、酒を飲まずに眠ろうとした身体は、たちまち苦しみに襲われる。
身体中から汗が噴き出し、歯が鳴る。
苦しそうに布団の上で身体を丸める。
「寒い……。」
「寒い……。」
清子は毛布を重ねる。
静香は濡れた手ぬぐいで父の額を拭いた。
「お父さん、水を飲んでください。」
震える手で湯飲みを差し出す。
邑黄は娘の手を見つめた。
細く、小さな手。
本来なら遊んでいるはずの年齢なのに、その手は家事と介護で荒れていた。配給の列に並び、薪を拾い、祖母の世話をし、弟たちの面倒を見る。文化大革命の騒ぎで大人たちも落ち着かず、家の中では子どもが子どもでいられなかった。
「すまない……。」
「全部……俺のせいだ。」
静香は静かに首を振る。
「違います。」
「お父さんは家族のために働いてきました。」
「だから、もう自分を責めないでください。」
邑黄は声を上げて泣いた。
娘に慰められる父親になってしまった。
その現実が、何より苦しかった。
その苦しみは、やがて仕事にも及んだ。
数日後。
邑黄は仕事へ向かう途中、郵便局の前で倒れた。
同僚に支えられ、ようやく家へ戻される。
その日を境に、もう仕事へ行くことはできなかった。
収入は途絶えた。
家の中にあるものを売り、食料へ換える。
布団が減り、家具が減り、最後には服まで質へ入れた。
それでも足りなかった。
病院へ行くことも考えたが、行けば行ったで、診察の順番を待つ間に一日が終わる。薬があっても、すぐには手に入らない。医師の数は少なく、病院の廊下には同じように病人を抱えた家族があふれていた。革命の時代、誰もが「我慢するしかない」と口にした。家族の誰かが病院へ付き添えば、その分だけ畑仕事も配給の受け取りも遅れる。清子は妊娠中で、長く外に出ることもできない。静香はまだ十二歳で、弟たちを置いて遠くまで行くこともできなかった。
そうして、看病するしかない日々が続いた。
ある夜。
邑黄は布団の中で静かに目を開いた。
枕元には清子が座っている。
その隣には静香、一新、新潔。
三人とも父の手を握っていた。
邑黄はゆっくりとお腹の大きな清子を見つめる。
「……生まれてくる子は。」
「女の子かもしれないな。」
清子は涙をこらえながらうなずいた。
「ええ。」
「元気に生まれてきてくれると思います。」
邑黄はお腹へ震える手を伸ばした。
そっと撫でる。
「会いたかったな……。」
「抱っこ……したかった。」
その言葉に、清子は涙を流した。
「きっと、この子にもあなたの気持ちは伝わっています。」
邑黄は微かに笑う。
そして子どもたちへ目を向けた。
「静香。」
「はい。」
「お母さんを……頼む。」
静香は涙を拭いながら、まっすぐ父を見つめた。
「約束します。」
「私がお母さんを守ります。」
「弟たちも、みんなで守ります。」
邑黄は静かにうなずいた。
次に一新を見る。
「一新。」
「はい、お父さん。」
「男だからと無理をするな。」
「母さんを助けてやれ。」
「はい。」
涙を流しながら答える。
新潔はまだ幼く、何が起きているのか分からない。
「お父さん……。」
その小さな声に、邑黄は優しく微笑んだ。
「大きくなれ。」
「優しい男になれ。」
新潔は何も言えず、父の手を強く握り返した。
やがて夜明け前が近づいた。
外では静かに雪が降り始めていた。
邑黄は最後に清子を見つめる。
「清子。」
「……幸せだった。」
「ありがとう。」
清子は夫の手を握りしめる。
「私もです。」
「ありがとう。」
その言葉を聞くと、邑黄は安らかな表情になった。
静かに目を閉じる。
そして――
そのまま二度と目を開けることはなかった。
部屋には静寂だけが残った。
清子は夫の胸に顔を伏せ、声を押し殺して泣いた。
静香は母の肩を抱き、一新は唇を噛み締める。
幼い新潔だけが、眠る父の肩を揺すり続けた。
「お父さん。」
「起きて。」
「ねえ、お父さん……。」
返事は、もうなかった。
そのとき清子のお腹の中で、小さな命が静かに動いた。
父の温もりを知ることなく生まれてくる、最後の子。
その子は数か月後、「正恵」と名付けられる。
父の願いと、母の強さを受け継ぎながら。




