第二十章 最後の命
文化大革命が始まって数年。
清子たちの暮らしは、日に日に苦しさを増していた。
配給だけでは到底足りず、食卓に並ぶのは薄い粥と、塩を少し溶かしただけの汁。
肉など何か月も口にしていない。
それでも清子は、四人分の茶碗を先に並べ、自分は最後まで箸を持たなかった。
「お母さんは食べないの?」
新潔が不思議そうに尋ねる。
清子は笑顔を作る。
「あとで食べるから大丈夫。」
しかし、それが嘘だということを、静香はもう知っていた。
食事が終わると、自分の器をそっと母の前へ差し出す。
「お母さん。」
「少しだけでも食べて。」
清子は首を横に振る。
「静香は育ち盛りだから。」
「私は平気よ。」
静香はそれ以上何も言わず、静かに器を引いた。
母が受け取らないことも分かっていたからだった。
一新は毎朝、まだ日も昇らないうちに家を出る。
古びた靴磨き箱を肩に掛け、町へ向かう。
「お母さん、行ってきます。」
「気を付けてね。」
清子は見送るしかできない。
本来なら学校で学ぶ年齢だった。
それでも、働かなければ家族は飢えてしまう。
帰宅した一新の手は、靴墨で真っ黒になっていた。
まだ幼い手には、ひび割れがいくつもできている。
「今日は少しだけ稼げた。」
そう言って、握りしめていた硬貨を清子へ渡す。
「これは一新が働いたお金よ。」
「少しくらい自分のために使いなさい。」
そう言っても、一新は首を振った。
「僕より、新潔にご飯を食べさせて。」
その言葉に、清子は胸が締めつけられた。
静香は十一歳になっていた。
朝は祖母の介護。
家事を済ませ、空いた時間には一新の服を繕い、新潔の面倒を見る。
夜になれば、疲れ切った母の肩を揉む。
子どもらしく甘えた記憶は、もうほとんどなかった。
ある日、義母が静香を呼び止めた。
「静香。」
「はい、おばあちゃん。」
「少し……座りな。」
静香は驚いた。
祖母から穏やかな声で呼ばれることなど、これまで一度もなかった。
義母はしばらく黙って静香を見つめていた。
やがて、小さく口を開く。
「……苦労をかけたね。」
静香は目を丸くする。
「え?」
「お前には……。」
義母は言葉を探すようにゆっくり息を吐いた。
「昔、ひどいことを言った。」
「あの頃の私は、男の子だけが家を継ぐものだと信じていた。」
「お前を傷つけた。」
静香は黙って聞いていた。
義母の目には涙が浮かんでいた。
「許してくれとは言わない。」
「でも……ありがとう。」
「お前がいなければ、私は今まで生きてこられなかった。」
静香は少しだけ微笑んだ。
「おばあちゃん。」
「私は、おばあちゃんのお世話をするのが嫌だったことは、一度もありません。」
「え……?」
「お母さんが言っていました。」
『人を憎み続けるより、人を思いやれる人になりなさい。』
「だから私は、おばあちゃんを恨んでいません。」
義母は静かに泣いた。
静香の手を握りしめながら、何度も頭を下げた。
「ありがとう……。」
「本当にありがとう。」
部屋の外でその様子を見ていた清子も、静かに涙を流していた。
長い年月をかけて、ようやく家族のわだかまりが少しだけ溶けた瞬間だった。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
邑黄の酒癖は、さらに悪化していく。
酒を飲む量は増え、仕事を休む日も目立つようになった。
ある晩、家へ帰るなり、邑黄は怒鳴った。
「酒はどこだ!」
「もうありません。」
清子が静かに答える。
「家のお金では買えません。」
その言葉に邑黄は激怒した。
「俺の金だろう!」
近くにあった椅子を蹴り飛ばす。
大きな音に、新潔は泣き出した。
「お母さん……。」
静香は弟たちを抱き寄せる。
「大丈夫。」
そう言いながらも、自分の手は震えていた。
邑黄は怒りのまま清子へ近づく。
その瞬間だった。
静香が父と母の間へ立った。
「もうやめてください。」
その声は静かだった。
しかし、強い意志が込められていた。
「お母さんは、毎日休まず働いています。」
「私たちを育てるために、自分の食事まで我慢しています。」
「これ以上、お母さんを苦しめないでください。」
邑黄は娘を見つめた。
十一歳とは思えないほど、まっすぐな瞳だった。
しばらく沈黙が流れる。
やがて邑黄は力なくうつむき、その場に座り込んだ。
「……すまない。」
その声には、酒に溺れながらも家族を愛している男の苦しみがにじんでいた。
その年の秋。
清子は、自分の体に小さな命が宿っていることに気づく。
四人目の子どもだった。
喜びより先に、不安が押し寄せた。
(この子を……無事に産めるだろうか。)
食べるものもない。
酒に溺れる夫。
幼い子どもたち。
それでも、母として答えは一つだった。
「産もう。」
「この子も、私の子だから。」
清子はお腹にそっと手を当てる。
その小さな命こそが、末娘――正恵であった。
その頃には、邑黄の体にも、酒に蝕まれた異変が静かに忍び寄っていた。咳は増え、足取りは重くなり、顔色も日に日に悪くなる。だが、それがやがて家族を一つの家から引き離し、二度と元には戻れない別れへつながっていくことを、まだ誰も知らなかった。




