第十九章 激動の時代
新潔が三歳になった頃。
清子の家は、貧しさの中にも小さな幸せを見つけながら暮らしていた。
朝になれば静香は祖母の世話をし、一新は母の手伝いをする。
新潔は兄や姉の後ろをついて歩き、笑顔を振りまく家族の人気者だった。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
中国全土を揺るがす激動の時代が始まろうとしていた。
町には赤い腕章をつけた若者たちがあふれるようになった。
広場では毎日のように集会が開かれ、大きな声で革命の歌が歌われる。
人々は互いを監視し、「反革命分子」と疑われれば吊るし上げられた。
学校の教師や知識人が大勢の前で糾弾される光景も珍しくなくなった。
子どもたちが通う学校も、やがて授業が止まり、校門は閉ざされた。
「しばらく休校です。」
教師は申し訳なさそうに子どもたちへ頭を下げた。
一新はまだ幼かったが、それでも学校へ行けないことだけは理解できた。
「お母さん。」
「学校、いつ始まるの?」
帰宅して尋ねる。
清子は答えに詰まった。
「……きっと、また始まるよ。」
そう言いながらも、自分でもその日が来るのか分からなかった。
静香は十歳になっていた。
学校へ通いながら家事をこなし、祖母の介護も続けていた。
義母は以前よりさらに身体が衰え、自力で起き上がることも難しくなっていた。
「おばあちゃん。」
「今日はお天気がいいですよ。」
静香は布団を干し、身体を優しく拭いていく。
「腕を少し上げますね。」
義母は無言だった。
昔なら「遅い」「下手だ」と文句を言っていた。
しかし今は、静香がいなければ何一つできない。
それでも、素直に礼を言うことはできなかった。
「……水。」
「はい。」
静香はすぐに湯飲みを差し出す。
「熱くないですか?」
その気遣いに、義母は一瞬だけ静香を見つめた。
自分が何度も傷つけた孫。
それなのに、この子は一度も嫌な顔をしない。
義母の胸には、小さな罪悪感が芽生え始めていた。
家計は日に日に苦しくなっていた。
物価は上がり、食料は減る。
市場に並ぶのは、しなびた白菜や黒ずんだ大根、少しの高粱粉ばかり。朝は薄い粟粥、昼は冷えた玉米面の饅頭、夜は塩気の強い漬物をつまむだけの日も増えていく。
郵便局の仕事だけでは家族を養うことが難しくなっていた。
それでも、文化大革命の嵐が吹き荒れ、赤い腕章を巻いた紅衛兵が「造反有理」と叫び、毛主席語録を掲げて家々を検査し、教師や知識人を広場で批斗する時代になっても、邑黄は酒をやめられない。
仕事帰りに酒場へ立ち寄り、夜遅く帰宅する日が増えていく。
そのせいで、顔色は日に日に悪くなり、頬はこけ、目の下には深い隈が落ちた。朝になると手が震え、食事もろくに喉を通らない。咳き込むことも増え、酒臭さの奥に、身体を壊していく気配がはっきりと滲んでいた。
酒を飲まない日は優しい。
しかし酔えば、別人だった。
ある晩。
「飯はまだか!」
邑黄は怒鳴りながら家へ入ってきた。
「今、高粱粥を温めています。」
清子が答える。
「遅い!」
食卓を拳で叩く。
静香は弟たちを自分の後ろへ下がらせた。
「一新、新潔。」
「こっちへ。」
二人は姉の服の裾を握りしめる。
「お姉ちゃん……。」
静香は小さくうなずいた。
「大丈夫。」
そう言ったものの、自分の声も震えていた。
清子は邑黄へ近づく。
「お願いです。」
「子どもたちの前です。」
邑黄は荒い息をつきながら、清子の腕を強く掴んだ。
「俺だって好きで飲んでるんじゃない!」
「俺がどれだけ働いているか分かるか!」
そのまま腕を振り払うと、清子は壁へ身体をぶつけた。
静香は咄嗟に母を支える。
「お母さん!」
「大丈夫?」
清子は痛みに顔を歪めながらも、静香へ微笑んだ。
「大丈夫。」
「弟たちをお願い。」
静香は涙をこらえながら、一新と新潔を抱き寄せた。
(私が泣いたら、この子たちはもっと怖がる。)
そう思うと、涙を流すことすらできなかった。
その夜。
邑黄は酒が抜けると、家族の寝顔を見つめながら一人泣いた。
静香の小さな手には、新潔を守るように抱き寄せた跡が残っている。
清子の腕には、赤く腫れた痣。
「また……。」
「また俺は。」
何度誓っても繰り返してしまう。
酒を断とうとしても、身体が震え、眠れず、苛立ちが襲ってくる。
そのうえ、飲み続けたせいで胃は荒れ、胸の奥が焼けるように痛み、朝には吐き気に苦しむこともあった。立ち上がるたびにふらつき、指先は細かく震え、以前のように力が入らない。鏡に映る自分の顔は、酒に溺れるたびに少しずつやつれ、もう昔のような丈夫な身体ではなくなっていた。
酒はもう嗜好品ではなく、邑黄を縛る鎖になっていた。
食卓に並ぶ食事も少しずつ減っていった。
鍋の底にわずかに残った高粱粥を湯でのばし、塩を振った白菜の漬物と、黒く固い玉米面の饅頭を家族で分け合う日もある。器の中には具らしい具もなく、すすれば穀物のざらつきだけが舌に残った。
清子は子どもたちへ器を渡し、自分は笑って言う。
「今日はお腹が空いていないの。」
だが静香は知っていた。
母が何日も満足に食べていないことを。朝は冷えた饅頭の欠片をかじり、昼は漬物で粥を流し込むだけだった。
ある夜。
静香は自分の粥を半分残し、そっと清子の前へ置いた。
「お母さん。」
「食べて。」
清子は首を横に振る。
「静香が食べなさい。」
「私は大丈夫。」
静香は静かに母を見つめた。
「嘘です。」
その一言に、清子は言葉を失う。
「お母さんのお腹が鳴っているの、聞こえました。」
「私、もう分かります。」
「だから食べてください。」
清子は娘の成長が嬉しくもあり、切なくもあった。
まだ十歳の子どもが、母の嘘を見抜くほど苦労を背負っている。
涙が止まらなかった。
その年の冬。
家族はさらに大きな決断を迫られることになる。
暮らしを続けるためには、子どもたちも働かなければならなかった。
まだ幼い一新は、靴磨きの仕事を始めることになる。
学校へ通えない時代。
遊ぶことも学ぶことも許されず、「生きるために働く」ことだけが子どもたちの日常になっていく。
静香は弟を送り出しながら、小さく言った。
「一新。」
「無理はしないでね。」
「帰ってきたら、温かいご飯……は作れないかもしれないけど、一緒に食べよう。」
一新は力強くうなずいた。
幼い兄妹は、それぞれの方法で家族を守ろうとしていた。
そして、その数年後。
清子は四人目となる新しい命を授かる。




