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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第二部 異国で生きる
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第十八章 新潔の誕生

邑黄が酒に溺れ始めてから、一年が過ぎようとしていた。

「もう飲まない。」

そう誓っては破り、また謝る。

その繰り返しだった。

酒を飲まない日は、以前と変わらぬ優しい父だった。

静香の宿題を見てやり、一新を肩車し、清子のお腹へそっと手を当てる。

「元気に育っているか。」

その穏やかな笑顔を見るたび、清子は胸の奥がきゅっと締めつけられた。酒の匂いがしない夜だけは、まだこの家に昔の温もりが残っている気がしたからだ。けれど、その温もりが本物なのか、酔いのない一瞬だけの幻なのか、清子にはもうわからなかった。

(どうか、この人が酒を断ち切れますように。)

そう願うたびに、清子は自分の願いがあまりにも細く、頼りない糸のように思えた。祈ることしかできない自分がもどかしく、悔しかった。

しかし現実は、その願いとは反対の方向へ進んでいった。


清子の妊娠も八か月を迎えた。

お腹は大きくなり、立ち上がるだけでも息が上がる。腰の奥がじんと重く、歩くたびに足の付け根が引きつる。それでも休んではいられなかった。

邑黄の収入が少ないため、清子は身重の体でも仕事を続けていた。朝の冷たい空気の中で外へ出るたび、腹の中の子が小さく動くのを感じる。そのたびに、清子は「ごめんね」と心の中でつぶやいた。もっとゆっくり休ませてやりたいのに、そうできない自分が情けなかった。

寝たきりになった義母の介護は静香が担っていた。

家事。

幼い子どもの世話。

すべてが、家族それぞれの肩にのしかかっていた。

台所にはいつも湯気と、古い木の匂いと、洗いきれない疲れの気配が漂っていた。清子はその中で、家族のために手を動かしながら、ふとした瞬間に「このまま倒れてしまったら」と不安に襲われることがあった。けれど、倒れるわけにはいかなかった。自分が止まれば、この家はもっと苦しくなる。そう思うたび、清子は唇を噛み、痛みを飲み込んだ。

そんな母の姿を見て、静香は自然と動くようになっていた。

朝は学校へ行く前に義母の部屋を掃除する。冷えた床に膝をつき、雑巾を絞る手はまだ小さいのに、動きには迷いがなかった。帰宅すると、真っ先に祖母のもとへ向かう。

「おばあちゃん、お水を替えますね。」

「今日は足の具合はどうですか。」

七歳とは思えないほど落ち着いた口調だった。

義母は相変わらず無愛想だった。

「遅い。」

「もっと早く来な。」

静香はそのたびに胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、顔には出さない。祖母の機嫌が悪いのは、自分のせいではないとわかっていても、責められるたびに小さな肩がわずかにこわばる。それでも静香は「ごめんなさい」と頭を下げるだけだった。

文句を言うことは一度もない。

その静かな我慢の奥に、静香自身も気づかないほどの疲れが積もっていた。眠る前、布団の中で足の裏がじんじんと熱くなることがあっても、彼女は泣かなかった。ただ目を閉じ、明日の朝もまた同じように動こうと、自分に言い聞かせていた。

そんな姉の姿を、一新は黙って見ていた。

まだ幼い彼には、静香の背中がとても大きく見えた。自分より少し背の高い姉が、いつも誰かのために動いている。その姿に、頼もしさと同時に、言葉にできない寂しさを覚えていた。姉が笑うと安心するのに、笑わないときは家の空気まで冷たくなる気がして、一新はただ静かにその横顔を追った。


ある日の夕方。

清子は台所で立ちくらみを起こした。

視界がふっと白くかすみ、足元の土間が遠のく。鍋の中で煮えていた野菜の匂いが急に強く鼻をつき、胃の奥がむかついた。

「お母さん!」

静香が慌てて駆け寄る。

「大丈夫?」

その声には、子どもらしい高い響きの奥に、必死に押し殺した不安が混じっていた。清子の腕を支える小さな手が、思った以上に冷たい。

「少し休んで。」

清子は苦笑した。娘に心配をかけまいと笑ってみせたが、額には冷や汗がにじんでいた。

「大丈夫よ。」

「でも……。」

静香は首を横に振った。唇をきゅっと結び、清子の顔を見上げる。その目には、子どもらしい甘えよりも、家を守らなければという焦りが浮かんでいた。

「今日は私がご飯を作る。」

「まだ危ないわ。」

「お母さんが倒れたら、もっと困るもの。」

その言葉に、清子は驚いた。

まだ七歳。

それでも静香は、自分より家族を優先していた。清子は胸が熱くなり、同時に申し訳なさで喉の奥が詰まった。こんな小さな子に、こんなことを言わせてしまっている。守られるべき年齢の娘に、守る側の顔をさせてしまっている。その事実が、清子には何より苦しかった。

二人で台所に立ち、静香は野菜を洗い、火は清子が扱う。水に濡れた大根の白さ、まな板を叩く包丁の音、鍋から立ちのぼる湯気。そんな何気ない音や匂いのひとつひとつが、清子には妙に愛おしく感じられた。壊れそうな日々の中で、こうして並んで立てることが、どれほどありがたいことか。

一新も小さな器を運びながら、

「ぼくもやる!」

と嬉しそうに手伝った。

器を両手で抱える姿は頼りなく、途中で少し汁をこぼしてしまったが、それでも一新は誇らしげだった。清子はその様子を見て、思わず笑みをこぼした。貧しいながらも、家族は支え合っていた。その事実だけが、清子の心をかろうじて支えていた。


そんなある夜。

陣痛が始まった。

突然の激しい痛みに、清子はその場にしゃがみ込む。腹の底をねじられるような痛みが波のように押し寄せ、息を吸うたびに喉がひりついた。額から汗が流れ落ち、手のひらは冷たく湿っていた。

「お母さん!」

静香がすぐに駆け寄った。

「お父さんを呼んでくる!」

その声は震えていた。静香自身も怖かった。母の顔が苦痛で歪むのを見るのは、子どもにはあまりに重い。けれど、怖がっている暇はないと、自分に言い聞かせるように立ち上がった。

一新も泣きそうな顔になる。

「おかあさん……。」

小さな手が清子の袖をつかむ。清子は痛みに耐えながら、その手を握り返した。大丈夫だと言ってやりたかったが、声にならない。代わりに、指先に力を込めるしかなかった。

しかし、その日も邑黄は酒場だった。

どれだけ待っても帰ってこない。

貧乏で産婆を呼ぶ金もなく、清子はこれまでも何度も自力で子を産んできた。痛みの波が来るたび、清子は歯を食いしばり、畳を掴んだ。背中をさすってくれる手の温もりがあるだけで、どれほど救われるか。それでも、頼れるのは自分の体と、そばにいる家族だけだった。

静香は近所の人へ助けを求めて走った。

右足を引きずりながら、何度も転びそうになる。夜の空気は冷たく、息をするたび胸が痛んだ。それでも立ち止まらない。暗い道の先に見える家々の灯りだけを頼りに、静香は必死に走った。

「お願いです!」

「母が苦しんでいるんです!」

声はかすれていた。けれど、その必死な姿を見た近所の人々が駆けつけ、湯を沸かし、布を用意してくれた。湯気の立つ桶の匂い、濡れた布の重み、人の手の温かさが、張りつめた空気の中でわずかな救いになった。


深夜。

激しい陣痛の末、清子は自力で一人の男の子を産み落とした。

「おぎゃあ! おぎゃあ!」

力強い泣き声だった。

その声を聞いた瞬間、清子は全身の力が抜けた。痛みの向こう側に、ようやくたどり着いた安堵が押し寄せる。汗で濡れた髪が頬に張りつき、息はまだ荒かったが、腕の中の小さな重みが確かに生きていることを感じたとき、清子の目から涙があふれた。

「ありがとう……。」

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。生まれてきてくれた子へ、支えてくれた静香へ、助けに来てくれた近所の人へ、そして、ここまで耐えてきた自分自身へ。いくつもの感情が胸の中でほどけ、清子は赤ん坊の温かな体をそっと抱きしめた。

静香も部屋の外で待っていた。

扉の向こうから聞こえていた母のうめき声が止み、赤ん坊の泣き声が響いたとき、静香は膝から力が抜けそうになった。ほっとしたのと同時に、母がどれほど苦しかったかを思うと、胸が痛んだ。

赤ん坊を見せてもらうと、そっと微笑んだ。

「かわいい。」

その声は、長い緊張のあとにようやくこぼれた、やわらかな息のようだった。

「こんにちは。」

「私はお姉ちゃんよ。」

その優しい声に、新しく生まれた命は小さく手を動かした。静香はその小さな指先を見つめ、守りたいという気持ちが胸いっぱいに広がるのを感じた。自分がどれだけ疲れていても、この子の前では笑っていたい。そう思った。

一新も覗き込み、

「ちっちゃい!」

と目を輝かせた。

その姿を見て、清子は久しぶりに心から笑った。痛みでこわばっていた頬がゆるみ、涙と一緒に笑いがこぼれる。生まれたばかりの命の温もりが、冷え切っていた心の奥までじんわりと広がっていった。


夜が明ける頃になって、ようやく邑黄が帰ってきた。

酒の匂いをまとい、ふらつく足取りだった。戸口をくぐった瞬間、むっとした酒気が部屋に流れ込み、せっかく落ち着き始めた空気を乱した。

「……清子!」

近所の人から事情を聞き、顔色が変わる。

寝床へ飛び込むと、そこには生まれたばかりの我が子と、疲れ切った清子の姿があった。清子の髪は汗で額に張りつき、目の下には深い影が落ちている。その姿を見た瞬間、邑黄の胸に遅れてやってきた現実が、重くのしかかった。

「俺は……。」

言葉が出ない。

子どもの誕生に立ち会えなかった。

妻が命懸けで産んでいる間、自分は酒を飲んでいた。

その現実が胸を締めつけた。酔いの残る頭でも、それだけははっきりわかった。自分はまた、家族の大切な瞬間を逃したのだと。清子の苦しみを、静香の必死さを、何ひとつ支えられなかったのだと。

静香は父の前へ静かに立った。

責めることも、泣くこともしなかった。

ただ、小さく言った。

「お父さん。」

「お母さん、とても頑張っていました。」

「お父さんにも、いてほしかったです。」

その一言は、どんな叱責よりも邑黄の心をえぐった。

静香の声は静かだったが、その静けさの中に、どれほどの失望と寂しさが込められているか、邑黄には痛いほどわかった。娘の目を見られない。酒に逃げた自分が、家族の信頼を少しずつ壊してきたのだと、ようやく思い知らされた。

言い返すことはできなかった。

ただ、生まれたばかりの息子を見つめ、静かに涙を流した。


数日後。

家族は男の子に新潔と名付けた。

「新しい時代を、清らかな心で生きてほしい。」

清子の願いが込められた名前だった。名を口にするたび、清子はこの子にはどうか、自分たちのような苦しみばかりの道ではなく、少しでもまっすぐな光のある道を歩んでほしいと願った。そう願わずにはいられなかった。

静香は新潔を抱きながら、優しく語りかける。

「あなたは、お姉ちゃんが守るからね。」

その言葉は、まるで自分自身への誓いでもあった。小さな腕に触れるたび、静香はこの子を守るためなら何でもしようと思った。まだ八歳にもならない少女の胸には、幼さと責任感が入り混じっていた。

まだ八歳にもならない少女は、母を支え、弟たちを守り、祖母の介護を担い、自分の弱音を誰にも見せずに生きていた。

その小さな背中には、子どもが背負うにはあまりにも重すぎるものが積み重なっていた。けれど静香は、それを重いと口にすることさえしなかった。ただ黙って前を向き、家族のために手を伸ばし続けていた。

そして、その数年後。

中国全土を揺るがす激動の時代――文化大革命が始まる。

学校へ通うことも、自由に学ぶことも許されない時代が、一新と新潔の幼い人生を大きく変えていくのだった。

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