第十七章 崩れゆく日常
一新が四歳、静香が七歳になった頃だった。
春を迎えた町には花が咲き、人々は穏やかな日常を取り戻しつつあった。
しかし、水上清子――李清華の家だけは、少しずつ暗い影に包まれ始めていた。
その年の冬、邑黄の母が脳の病で倒れた。
命は助かったものの、左半身に麻痺が残り、自分で起き上がることも歩くこともできなくなった。
医師は静かに告げた。
「これからは、誰かが付き添って介護をしなければなりません。」
その言葉に、家族は顔を見合わせた。
清子は身重だった。
お腹には三人目の命が宿っている。
一新はまだ幼く、静香も七歳の子どもだ。
清子は胸の奥が冷たくなるのを感じた。これから先の暮らしを思うと、不安が波のように押し寄せてくる。自分の体も重く、思うように動けない。それでも、誰かがやらなければならないことは分かっていた。
「私が看ます。」
清子はそう言った。自分が引き受けるしかない、そう思っていた。だが義母は、すぐに顔をしかめて首を横に振った。
「いやだよ。」
「お前なんかに世話を焼かれるのはごめんだ。」
その言葉は、清子の胸に鋭く刺さった。拒まれることには慣れていたつもりでも、病に伏した人から向けられる冷たい拒絶は、思った以上に堪えた。けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。清子は唇を噛み、言葉を探した。
部屋に重苦しい空気が流れる。
そして義母は、静香へ視線を向けた。
「静香。」
「お前がやりな。」
清子は思わず声を上げた。
「お義母さん!」
「この子はまだ七歳です!」
「それに、足だって悪いんです……。」
声が震えた。静香にそんな役目を負わせるなど、考えるだけで胸が痛む。子どもらしい時間を奪ってしまうことへの恐れと、母として守れない悔しさが、清子の中で絡み合う。
「だから何だい。」
義母は冷たく言い放つ。
「家にいる時間が一番長いじゃないか。」
「役に立つことを覚えな。」
静香は意味も分からず母を見つめた。
母と祖母のやり取りが、ただならぬものだということだけは分かる。けれど、何を求められているのかはまだ理解できない。静香は不安そうに清子の顔を見上げた。
「お母さん……。」
「私、お手伝いする。」
その一言に、清子の胸は締めつけられた。
七歳の子どもが、介護という言葉も知らないまま頷いている。静香の中には、祖母を助けたいという素直な気持ちしかない。その無垢さが、清子には痛かった。守られるべき年齢の子に、もう重荷を背負わせてしまうのかと思うと、母としての無力感が押し寄せる。
「静香、無理しなくていいの。」
清子はできるだけやわらかく言った。だが、静香は首を振る。
「ううん。」
静香は小さく笑った。
「おばあちゃん、痛いでしょう?」
「私がさすってあげる。」
その笑顔は、あまりにも優しかった。
清子はその笑顔を見て、泣きそうになるのを必死でこらえた。静香の優しさが、これから傷つけられないようにと願うほど、現実は容赦なくその小さな肩に負担を乗せていくのだろうと、胸の奥で予感していた。
それから静香の日常は変わった。
学校から帰ると、まず義母の部屋へ向かう。
「おばあちゃん。」
「お水、飲みますか?」
小さな手で湯飲みを持つ。
こぼさないよう、両手でゆっくり運ぶ。静香はいつも、祖母の顔色をうかがいながら動いていた。怒られないように、失敗しないように、できるだけ静かに、できるだけ丁寧に。けれど子どもの手はまだ不器用で、思うようにいかないことも多い。
「ごはん、食べましょう。」
食事を少しずつ口へ運ぶ。
体を拭き、布団を整え、夜中に義母が苦しめば眠い目をこすりながら起きる。
右足が痛んでも、文句は一つも言わなかった。
けれど静香の胸の中には、言葉にできない戸惑いも少しずつ積もっていた。祖母を助けたい気持ちは本物だった。それでも、なぜ自分だけがこんなに頑張らなければならないのか、遊びたい気持ちを押し込めるたびに、幼い心は小さく軋んだ。泣きたい日もあったが、泣けば母を困らせる気がして、静香はぐっとこらえた。
しかし、義母は感謝の言葉を口にしなかった。
「遅いよ。」
「もっと丁寧にやりな。」
「そんなこともできないのかい。」
そのたびに静香は肩をすくめ、顔を伏せた。叱られるたびに胸がちくりと痛む。それでも、祖母が苦しそうにしているのを見ると、やめることはできなかった。自分が役に立てるなら、それでいいと思おうとした。
静香は「ごめんなさい」と小さく頭を下げる。
その声はいつもか細く、どこか自分を納得させるようでもあった。怒られても、嫌われても、祖母の痛みが少しでも和らぐならと、幼いなりに自分を奮い立たせていたのだ。
それでも翌日になると、
「おばあちゃん、おはよう。」
笑顔で部屋へ入っていく。
その姿を見るたび、清子は涙をこらえた。
(この子は、どうしてこんなにも優しいの……。)
清子は静香の背中を見つめながら、胸の奥で何度も問いかけた。優しさは尊い。けれど、優しすぎる子は傷つきやすい。静香が無理をしていることを、清子は誰よりも感じていた。それでも、今の自分には止める力がない。その無力さが、清子を静かに追い詰めていった。
一方で、邑黄は以前とは別人のようになっていた。
仕事の責任はさらに重くなり、酒場へ通う日が当たり前になっていた。
酒を飲んでいない日は穏やかだった。
子どもたちを抱き上げ、笑い、一緒に食卓を囲む。
そんなときの邑黄は、清子にとっても、子どもたちにとっても、まだ頼れる父であり夫だった。だからこそ、酒が入ったときの変貌は、家族の心を深く揺さぶった。穏やかな顔を知っている分だけ、荒れた姿は恐ろしく、悲しかった。
ある雨の夜。
戸が勢いよく開いた。
「ただいま!」
酒の強い匂いが家中へ広がる。
その匂いを嗅いだ瞬間、清子は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。今日は機嫌がいいのか、悪いのか。足音の乱暴さだけで、すでに嫌な予感がした。
「邑黄さん。」
清子が迎えると、邑黄はいら立った声で言った。
「飯はまだか!」
「今、温めています。」
その一言が気に障った。
「遅い!」
食卓へ置かれた茶碗を乱暴に払いのける。
茶碗は床へ落ち、乾いた音を立てて割れた。
静香はびくっと肩を震わせ、一新の前へ立った。
「一新。」
「怖いね。」
弟を後ろへ隠す。
静香の胸は早鐘のように鳴っていた。父の顔が赤く、目が据わっているのを見て、ただ事ではないと本能で悟る。けれど、逃げることもできない。弟を守らなければという思いだけが、静香をその場に立たせていた。
「お父さん……。」
静香が震える声で呼ぶ。
しかし、酒に酔った邑黄の耳には届かなかった。
「毎日毎日!」
「俺ばかり働かせやがって!」
「誰がこの家を食わせてると思ってるんだ!」
怒鳴り声は、清子の胸にも静香の耳にも容赦なく突き刺さる。清子は、これ以上刺激してはいけないと分かっていた。だが、子どもたちの怯えた顔を見ると、黙っていることもできなかった。
清子は静かに近づいた。
「お願いです。」
「子どもたちが見ています。」
その瞬間だった。
パンッ――。
乾いた音が部屋へ響く。
邑黄の手が、清子の頬を打った。
清子は一瞬、何が起きたのか分からなかった。頬に熱が走り、視界が揺れる。痛みより先に、驚きと屈辱が込み上げる。お腹を守るように両腕を回しながら、清子は息を呑んだ。子どもたちの前で打たれたという事実が、何よりもつらかった。
静香は目を大きく見開く。
「お母さん!」
泣きながら母へ駆け寄る。
「やめて!」
「お父さん!」
「だめ!」
小さな体で父の前へ立ちはだかる。
静香の中では、恐怖と怒りと悲しみが一度に押し寄せていた。父が怖い。それでも母が打たれたままなのはもっと怖い。どうしてこんなことになるのか分からないまま、静香はただ必死だった。
「お母さんが痛がってる!」
「やめて!」
その姿を見ても、邑黄は酒で理性を失っていた。
「どけ!」
怒鳴り声に静香は震える。
それでも動かなかった。
「お母さんをいじめないで!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。
その声でようやく一新も泣き始めた。
「おがあざん!」
家中に子どもたちの泣き声が響く。
その泣き声を聞いた瞬間だった。
邑黄の表情が変わる。
酔った目が少しずつ現実を取り戻していく。
自分の手。
泣いている子どもたち。
頬を押さえる清子。
そして、震えながらも母を守ろうとしている静香。
その光景が、ようやく邑黄の胸に突き刺さった。
「……俺は。」
声が掠れる。
さっきまでの怒りは霧のように消え、代わりに、どうしようもない恐怖と後悔が押し寄せた。自分が何をしたのか、ようやく理解した瞬間、邑黄の膝から力が抜ける。
その場へ崩れ落ちた。
「俺は……何をした。」
自分の手を見つめながら、邑黄は顔を覆った。酔いが覚めるにつれ、残ったのは言い訳のできない現実だけだった。
翌朝。
邑黄は畳へ額を擦りつけるように土下座した。
「すまなかった。」
「本当に、すまなかった。」
「二度としない。」
涙を流しながら謝る。
昨夜の記憶が戻るたび、邑黄の胸は締めつけられた。清子の頬を打った感触、静香の泣き声、怯える子どもたちの目。そのすべてが、酒に逃げていた自分の愚かさを突きつける。謝るしかない。だが、謝っても消えないものがあることも、薄々分かっていた。
清子は腫れた頬を隠すように微笑んだ。
その笑みは、痛みをこらえたものだった。怒りがなかったわけではない。怖くなかったわけでもない。それでも、ここで感情をぶつければ、家の空気はさらに壊れてしまう。清子はお腹の子を守るようにそっと手を添え、静かに言葉を選んだ。
「昨日のあなたは、お酒に飲まれていました。」
「私は、あなたを信じています。」
「本当のあなたは、あんなふうに人を打つ人じゃない。」
その言葉に、邑黄はさらに涙を流した。
清子の声は責めていなかった。だからこそ、邑黄には余計に苦しかった。許されたのではない。だが、見捨てられてもいない。そのことが、かえって自分の罪を浮き彫りにする。
「酒はやめる。」
「もう二度と口にせん。」
そう誓った。
しかし、酒はすでに”嗜み”ではなく、心と体が求めるものになり始めていた。
誓いは何度も破られ、そのたびに謝罪を繰り返す。
酒に酔えば暴れ、翌朝には泣いて謝る。
その繰り返しが、家族の心を少しずつすり減らしていく。
清子は謝罪のたびに、信じたい気持ちと、また同じことが起きるのではないかという恐れの間で揺れた。静香は父の顔色をうかがうようになり、笑顔の裏に怯えを隠すようになった。邑黄自身も、謝るたびに自分が壊れていくのを感じながら、それでも酒から離れられなかった。
そんな苦しい日々の中でも、清子のお腹の中では、新しい命が力強く育っていた。
その子はやがて新潔と名付けられ、この家族を支える大きな存在となる。
しかし同時に、家族はさらに大きな貧困と試練へ飲み込まれていくことになる。




