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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第二部 異国で生きる
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第十六章 酒の香り

一新が一歳を迎えた頃。

家の中は以前にも増して賑やかになっていた。

「あはは!」

一新は庭をはいはいで進み、静香の後を追いかける。

「いっしん、こっちー。」

静香は歩幅を合わせるように、ゆっくり歩く。

右足を少しかばいながらも、転ばないよう気をつけて振り返る。

「ほらぁ。」

「おねえちゃん、まってるよ。」

一新は声を上げて笑い、姉の足へしがみついた。

「きゃっ。」

静香もつられて笑う。

その様子を縁側から見ていた清子は、穏やかな表情を浮かべた。

(この子たちは、本当に仲がいい。)

静香は誰よりも弟を可愛がった。

おもちゃが一つしかなければ一新へ譲る。

お菓子も「はんぶんこ」と言って半分にする。

幼いながらも、いつも弟を守ろうとしていた。

そんな娘を、清子は誇らしく思っていた。

その頃、清子のもとには、義母が最近少し咳き込むことが増えたという知らせも届いていた。まだ大事には至っていないらしいが、以前より顔色が冴えないと聞き、清子はふとした折にそのことを思い出していた。


一方で、邑黄の生活には少しずつ変化が現れていた。

郵便局では責任ある仕事を任されるようになり、部下もできた。

仕事帰りには取引先との付き合い、同僚との宴席が続く。

「邑黄、お前も一杯どうだ。」

「今日は断れないぞ。」

最初は笑いながら断っていた。

「家で子どもが待っているから。」

そう言って早く帰ることも多かった。

夕暮れの道を急ぎながら、頭の中にはいつも家の光景が浮かんでいた。

囲炉裏のそばで待つ清子の姿。

静香が「おとうしゃん」と駆け寄ってくる声。

一新がまだ言葉にならない声で手を伸ばす小さな指。

その顔を思い浮かべるたび、宴席の酒は遠いものに思えた。

早く帰って、温かい飯を食べたい。

子どもたちの寝顔を見たい。

そう思えば、杯を断ることも苦ではなかった。

しかし、ある日。

上司から肩を叩かれた。

「付き合いも仕事のうちだ。」

「酒を飲めないようじゃ、人付き合いはできん。」

その言葉を断ることはできなかった。

「……分かりました。」

差し出された杯を口に運ぶ。

喉を焼くような熱さ。

苦い香り。

思わず顔をしかめると、周囲から笑いが起こった。

「ははは!」

「まだ若いな!」

その場の空気に合わせて邑黄も笑った。

だが、笑いながらも胸の奥では別の声がしていた。

(こんなものを飲んで、何が楽しいんだ。)

(清子は、今ごろ夕飯の支度をしているだろう。)

(静香は、父さんの帰りを待っているかもしれない。)

杯を持つ手に、わずかな迷いが残る。

けれど、断れば場の空気を壊す。

仕事を任されるようになった今、軽く見られるわけにはいかない。

その夜、少しだけ帰りが遅くなった。


「ただいま。」

戸を開けた瞬間、酒の匂いがふわりと広がる。

清子はすぐに気づいた。

「飲んできたの?」

邑黄は少し照れくさそうに頭をかいた。

「付き合いだから。」

「断れなかった。」

言いながらも、視線は自然と床へ落ちる。

清子の顔をまっすぐ見られなかった。

家の中には、炊きたての飯の匂いと、子どもたちの眠る気配が満ちている。

それなのに、自分の身体からは酒の匂いが立ちのぼっていた。

その匂いが、妙に恥ずかしかった。

清子は何も言わなかった。

湯飲みに温かいお茶を注ぎ、そっと差し出す。

「お疲れさま。」

その優しさに、邑黄は少しだけ申し訳なさそうに笑った。

「ありがとう。」

湯気の立つ茶碗を受け取りながら、ふと考える。

(俺は、何をしているんだろう。)

家族のために働いているはずなのに、帰れば酒の匂いをまとっている。

清子は責めない。

静香も一新も、父の顔を見れば嬉しそうにする。

だからこそ、余計に胸が痛んだ。

自分だけが、家族の温かさに甘えているような気がした。


それからというもの、酒を飲んで帰る日は少しずつ増えていった。

週に一度。

それが二度になり、三度になった。

最初は「今日は断れなかった」で済ませていた。

だが、次第に断る言葉を探すことすら面倒になっていく。

宴席で杯を置くたびに、周囲の視線が気になった。

「付き合いが悪いと思われたくない。」

「仕事を任されているのに、弱いと思われたくない。」

そんな思いが、酒を断る理由を少しずつ押し流していった。

飲めば、その場では楽になれる。

笑っていれば、責任の重さも、失敗への不安も、ひとまず遠ざかる。

だが、帰り道になると決まって後悔が押し寄せた。

夜風に当たりながら、ふらつく足で家へ向かうたび、邑黄は何度も自分に言い聞かせる。

(次はやめよう。)

(今日は少し飲みすぎた。)

(清子に顔向けできない。)

けれど、その「次」はなかなか来なかった。

家へ帰れば、邑黄は必ず子どもたちの寝顔を見に行く。

「静香。」

「一新。」

小さな頭を優しく撫でる。

「おやすみ。」

静香は眠りの中で少しだけ頬をゆるめ、一新は小さな手を握り返すこともあった。

その温もりに触れるたび、邑黄の胸には言葉にならない痛みが走る。

(この手を、酒の匂いで汚してはいけない。)

そう思うのに、翌日にはまた同じことを繰り返してしまう。

その姿を見ていると、清子はまだ安心できた。

(この人は変わっていない。)

そう信じたかった。


ある雨の夜だった。

邑黄はいつもより遅く帰宅した。

ふらつく足取り。

着物は雨で濡れ、酒の匂いもいつもより強い。

「邑黄さん。」

清子が支えようとすると、邑黄は苦笑した。

「大丈夫。」

「今日は少し飲み過ぎた。」

そう言いながらも、足元は覚束ない。

戸口で靴を脱ぐ手も少し震えていた。

静香が眠そうな目をこすりながら起きてきた。

「おとうしゃん?」

「かえってきた?」

その声を聞いた瞬間、邑黄の胸がきゅっと縮む。

こんな時間まで待たせてしまった。

眠い目をこすりながら、自分を探す娘の姿が、ひどくまぶしく見えた。

「ごめんな。」

邑黄は静香を抱き上げた。

腕の中の体は軽い。

その軽さが、かえって罪のように感じられる。

「お酒くしゃい。」

静香は鼻を押さえ、くすくす笑う。

「えへへ。」

その無邪気な笑いに、邑黄も照れ笑いを浮かべた。

「そうか。」

「父さん、臭いか。」

「うん!」

「でも、だいしゅき!」

静香は父の首へぎゅっと抱きついた。

その言葉に、邑黄の表情が少し曇る。

「……ありがとう。」

酒の匂いがする自分を、娘は変わらず大好きと言ってくれる。

その純粋さが、胸に刺さった。

(こんな顔をさせてはいけない。)

(この子に、酒臭い父親の記憶ばかり残してどうする。)

抱き上げた静香の背を撫でながら、邑黄は目を伏せた。

清子が黙って見ている。

責めるでもなく、ただ静かに。

その沈黙が、かえって痛かった。


数日後。

郵便局で大きな失敗があった。

荷物の仕分けを間違え、上司から厳しく叱責された。

「何年働いている!」

「気の緩みだ!」

何度も頭を下げた邑黄だったが、落ち込んだ気持ちは消えなかった。

叱られている間、頭の中には清子の顔が浮かんでいた。

朝、眠い目をこすりながら飯をよそう清子。

子どもたちのために、少しでも温かいものを食べさせようとする手。

その手で、自分は何度も杯を受け取ってきたのだ。

(俺は、何を守っているつもりなんだ。)

(家族のためと言いながら、家族を不安にさせているだけじゃないか。)

悔しさと情けなさで、喉の奥が熱くなる。

だが、仕事を終えて外へ出ると、自然と足は酒場へ向かっていた。

「一杯だけ。」

そう自分に言い聞かせる。

酒を飲むと、嫌なことを少しだけ忘れられた。

笑い声に囲まれている間だけは、自分の失敗も、重い責任も遠ざかる気がした。

上司に叱られたことも、清子の静かな目も、子どもたちの寝顔も、いったんは遠くなる。

その安堵が、また杯を呼ぶ。

その「一杯だけ」が、少しずつ二杯、三杯へと変わっていく。

本人もまだ、それが癖になり始めていることに気づいてはいなかった。


家では、清子が静かに待っていた。

時計などない時代。

外の暗さだけが時間を知らせる。

囲炉裏の火は弱くなり、作った夕飯も冷め始めていた。

「おかあしゃん。」

静香が眠そうな声で言う。

「おとうしゃん、まだ?」

「もう帰ってくるよ。」

そう答えながらも、清子は何度も戸口へ目を向ける。

(何かあったのでは。)

そんな不安が頭をよぎる。

夕飯を温め直そうか、それとももう少し待とうか。

箸を置いては、また手を止める。

そのたびに、子どもたちのために整えた食卓が少しずつ冷えていく。

ようやく戸が開いた頃には、料理はすっかり冷え切っていた。

「ごめん。」

邑黄は申し訳なさそうに笑う。

「仕事が長引いて……。」

しかし、その息からは強い酒の匂いがした。

清子は何も責めなかった。

ただ冷えた料理を温め直し、黙って食卓へ並べる。

その背中はいつもと変わらず静かで、だからこそ邑黄には堪えた。

自分が遅く帰るたび、清子はこうして待っている。

子どもたちの眠る時間を気にしながら、飯を冷ましながら、何も言わずに。

その優しさに甘えている自分が、ひどくみじめだった。

そんな妻の背中を見つめながら、邑黄は胸の奥に小さな罪悪感を抱いていた。


その夜。

眠る子どもたちを見つめながら、清子はそっと邑黄へ言った。

「無理はしないで。」

「子どもたちは、お父さんが帰ってくるのを楽しみに待っているから。」

邑黄は少し驚いたように妻を見る。

責められると思っていた。

けれど、返ってきたのは責める言葉ではなく、心配する言葉だった。

その言葉が、かえって苦しかった。

「……悪い。」

それだけ言うのが精一杯だった。

だが、その「悪い」という言葉とは裏腹に、仕事の重圧も、付き合いも、酒を求める心も、日に日に大きくなっていく。

酒を飲めば楽になる。

そう思うたびに、清子の静かな顔が浮かぶ。

静香の「だいしゅき」という声が耳に残る。

一新の小さな手が、自分の指を握る感触が思い出される。

それでも、翌日にはまた杯を受け取ってしまう。

断れば仕事に響く。

付き合いを避ければ、男として、働く者として、弱く見られる。

そんな見栄と不安が、家族への申し訳なさを押しのけていった。

そして数年後、その酒は「楽しみ」ではなく、「酒がなければ眠れないもの」へと姿を変え、家族を苦しめる運命の始まりとなる。

その頃、清子のお腹には三人目の命が宿ろうとしていた。

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