第十五章 祖母の愛、祖母の影
一新が生まれて半年が過ぎた。
冬の寒さも和らぎ始め、家の庭には小さな草花が顔をのぞかせていた。
一新は日に日に大きくなり、よく笑い、よく泣く元気な赤ん坊へと成長していた。
「いっしーん。」
静香は一新の前へしゃがみ込み、小さな指を握る。
「お姉ちゃんだよ。」
一新は「あー、あー」と声を出しながら、静香の指をぎゅっと握った。
「わぁ!」
「おかあしゃん! にぎったぁ!」
その笑顔を見て、清子も思わず笑みをこぼす。
「一新は、お姉ちゃんが大好きなのね。」
「えへへ。」
静香は照れくさそうに笑い、一新の頭をそっと撫でた。
その光景は、とても穏やかで幸せだった。
だが、その幸せは長くは続かなかった。
ある日、義母が家を訪れた。
部屋へ入るなり、一新を抱き上げる。
「よしよし。」
「男の子は可愛いねぇ。」
頬ずりをしながら、満面の笑みを浮かべる。
一新も嬉しそうに笑った。
その横で静香は、小さな布人形を胸に抱えたまま、そっと義母のそばへ近づいた。足を引きずるように一歩ずつ進み、途中で何度も立ち止まる。呼びかける声も、いつもよりずっと小さい。
「おばあちゃん。」
義母は一新を抱いたまま、静香へ目を向けた。だが、その視線はほんの一瞬触れただけで、すぐに逸れてしまう。
静香は唇を結び、指先で人形の耳をぎゅっと握った。
「しーちゃんも、だっこして。」
その言葉に、義母は少しだけ眉を動かした。けれど、腕の中の一新を抱き直すと、静香の顔を見ようともしないまま、短く言った。
「今は一新を抱いているから。」
それだけだった。
静香は返事をするまでに少し間があいた。目をぱちぱちと瞬かせ、何か言いたそうに口を開きかけるが、結局声にならない。小さな肩が、ふっと落ちる。
「……うん。」
か細い声だった。
静香は人形を抱えたまま、半歩、また半歩と後ろへ下がった。義母の視線が自分に戻らないことを確かめるように、何度も顔を上げては、またうつむく。その表情を見た清子の胸が痛んだ。
昼食の時間。
義母は市場で買ってきた饅頭を袋から取り出した。
「一新が大きくなるように。」
そう言って、小さくちぎって口元へ運ぶ。
もちろん、まだ食べられない。
周りは思わず笑った。
静香は嬉しそうに尋ねる。
「しーちゃんも、食べていい?」
義母は袋を閉じながら言った。
「これは一新のだよ。」
「静香には、ご飯があるだろ。」
静香は黙って手を引っ込めた。
「……うん。」
その返事は、あまりにも小さかった。
清子はすぐに台所へ行き、自分の分の饅頭を半分に割る。
「静香。」
「お母さんと半分こしよう。」
静香の顔が少しだけ明るくなる。
「はんぶんこ!」
その笑顔を見て、清子は胸をなで下ろした。
しかし、義母は面白くなさそうにため息をついた。
「甘やかすから弱い子になる。」
その一言に、清子は思わず口を開いた。
「お義母さん。」
義母はゆっくり顔を向ける。
「静香も、まだ子どもです。」
「同じ孫です。」
「同じように可愛がってあげてください。」
部屋が静まり返る。
義母は冷たく笑った。
「同じ?」
「本当にそう思うのかい。」
清子は義母を見つめ返した。
「足の悪い女の子と、健康な男の子。」
「昔から家を継ぐのは男だ。」
「比べること自体がおかしい。」
「それに、お前も母親なら分かるだろう。」
「この家を支えるのは一新なんだ。」
その言葉に、清子は静かに首を振った。
「私はそうは思いません。」
義母は眉をひそめる。
「子どもに優劣なんてありません。」
「静香も一新も、私にとっては同じ大切な子どもです。」
「静香は、とても優しい子です。」
「誰よりも弟を可愛がっています。」
義母は鼻で笑った。
「優しいだけじゃ生きていけない。」
そう言い残すと、立ち上がって帰っていった。
その日の夕方だった。
縁側へ座る静香は、膝の上に両手をそろえたまま、しばらく黙って庭を見ていた。風に揺れる草を目で追っているようでいて、実際には何も見ていないような、ぼんやりとした横顔だった。
やがて、小さな声が落ちる。
「おかあしゃん。」
「どうしたの?」
静香はすぐには答えなかった。唇をきゅっと結び、息を吸って、それからようやく顔を上げる。けれど、その目はもう少し赤くなっていた。
「おばあちゃんね。」
「いっしんのこと、いっぱいだっこする。」
言いながら、静香は無理に口角を上げた。笑っているつもりなのに、頬はうまく持ち上がらない。目の端がじわりと潤み、まばたきのたびに涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえているのが分かった。
「しーちゃん、お姉ちゃんだから、がまんする。」
その言葉は、三歳の子どもが背伸びして作った、あまりにも小さな強がりだった。最後の「がまんする」は、声がかすれて、途中で少し震えた。
清子は胸が締めつけられた。
三歳の子どもが、自分の寂しさを飲み込もうとしている。
そんなことを覚えてほしくなかった。
清子は静香を強く抱きしめた。
「我慢しなくていいの。」
「寂しいときは、寂しいって言っていい。」
静香はしばらく黙っていた。
母の胸に額を押しつけたまま、肩を小さく震わせる。最初はこらえていた息が、ひとつ、またひとつと乱れ、やがて喉の奥からしゃくり上げるような音が漏れた。
そして、ぽろりと涙をこぼした。
「しーちゃんも……。」
「だっこ、してほしかったぁ……。」
言葉にした途端、堰を切ったように泣き始める。
「おばあちゃんに……。」
「だいしゅきって、してほしかったぁ……。」
その声は途中で何度も途切れ、最後は泣きじゃくりに飲み込まれた。小さな手が清子の服をぎゅっと掴み、離したくないとでも言うように何度も握り直す。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、息を吸うたびに肩が跳ねた。
その言葉を聞いた清子も、涙をこらえきれなかった。
「ごめんね。」
「お母さんが、もっと守ってあげるから。」
「いっぱい抱っこする。」
「いっぱい大好きって言う。」
静香は泣きながら何度もうなずいた。
「ほんと?」
「本当。」
「お母しゃん、うそつかない?」
「うそなんてつかないよ。」
清子は静香の額へそっと口づけをした。
「静香は、お母さんの宝物だから。」
静香は涙で濡れた顔のまま、小さく笑った。
「えへへ……。」
「しーちゃんも、おかあしゃん、だいしゅき。」
その言葉だけで、清子は救われた。
その夜、仕事から帰った邑黄は、泣き疲れて眠る静香の姿を見て事情を知った。
「また母さんか……。」
深く息をつく。
清子は静かにうなずいた。
邑黄は眠る静香の頭を優しく撫でた。
「この子には、俺たちが二人分の愛情を注ごう。」
「足りない愛情は、父さんと母さんで埋めればいい。」
清子は夫の言葉に静かにうなずいた。
しかし、その邑黄もまた、仕事の疲れを紛らわせるため、酒場へ通う日が少しずつ増えていた。
家族を愛する気持ちは変わらない。
それでも酒は、少しずつ彼の心を蝕み始めていた。
誰もまだ、その変化の恐ろしさに気づいてはいなかった。




