第十四章 長男・一新の誕生
静香が三歳になった春。
庭に咲いた小さな花を摘みながら、静香は今日も楽しそうに笑っていた。
「おかあしゃん!」
「おはな、きれー!」
転ばないようにゆっくりと歩き、小さな手いっぱいに花を抱えて走ろうとする。
「あっ……。」
少し足がもつれ、その場に尻もちをつく。
「いたぁい……。」
それでも静香は泣かなかった。
「だいじょーぶ。」
そう言って、自分で立ち上がろうとする。
その姿を見るたび、清子の胸はきゅっと締めつけられた。
(この子は、こんなに小さいのに……もう我慢を覚えてしまった。)
もっと甘えていい。
もっと泣いていい。
痛いときは痛いと言っていいのだと、何度でも抱きしめて教えてやりたいのに、静香はいつも先に笑ってしまう。母を困らせまいとするように、泣くよりも先に「だいじょーぶ」と言ってしまう。
その健気さが、清子にはたまらなく愛おしく、そして切なかった。
あの日から、義母が家へ来るたびに静香へ向ける態度は冷たかった。
「また転んでいるのか。」
「足の悪い子は不便だね。」
言葉は淡々としていて、そこに温度はなかった。まるで、そこにいる子どもを見ているのではなく、ただ欠けたものを眺めているようだった。
静香には、その意味はまだよく分からない。
けれど、分からないなりに感じ取ってしまうものがあるのだろう。義母の前では、あれほどよく笑っていた顔が、少しずつ固くなっていった。
「おばあちゃん、きた……。」
そうつぶやく声が、どこか小さくなる。
清子はそのたびに胸が痛んだ。
ある日。
義母が帰ったあと、静香が小さな声で尋ねた。
「おかあしゃん……。」
「おばあちゃん、しーちゃん、きらい?」
その一言に、清子は息をのんだ。
幼い子どもでも、向けられる感情は分かるのだ。言葉の意味が分からなくても、声の冷たさや、目を合わせてもらえない寂しさは、ちゃんと心に残ってしまう。
清子は静香をそっと抱き寄せ、膝の上に乗せた。
「違うよ。」
できるだけやわらかく、静かに言う。
「おばあちゃんは、うまく気持ちを言えないだけ。」
本当は違う。
けれど、まだ三歳の娘に、人を憎む心を持ってほしくなかった。冷たいものをそのまま受け取って、静香の小さな胸まで冷えてしまうのが怖かった。
清子は静香の背をゆっくり撫でる。
「しーちゃんは、何も悪くないの。」
「でも……。」
静香は不安そうに目を伏せた。
「しーちゃん、わるいこ?」
その問いは、あまりにも小さく、あまりにも真剣だった。
清子は強く首を振る。
「違う。」
「しーちゃんは、お母さんの宝物。」
「誰よりも優しい子。」
「ほんと?」
「本当。」
静香はしばらくじっと清子の顔を見つめ、それからようやく安心したように、ぎゅっと抱きついた。
「ままぁ、だいしゅき。」
その小さな腕の力が、清子の胸にじんわりと広がる。
守ってやりたい。
この子の心だけは、どうか傷つけたくない。
そう思いながら、清子は静香を抱きしめ、静かに涙を流した。
その頃、清子は二人目の子どもを授かっていた。
静香の世話をしながらの妊娠生活は決して楽ではない。
朝は洗濯。
井戸で水を汲み、食事を作る。
静香が転ばないように目を配りながら家事をこなす毎日だった。
それでも清子は、弱音を吐かなかった。お腹の子に負担をかけまいと、静香に寂しい思いをさせまいと、少しでも笑っていようとした。
「おかあしゃん、だいじょーぶ?」
静香が心配そうに見上げるたび、清子は笑って答える。
「大丈夫よ。」
「静香がいてくれるから、お母さんは平気。」
そう言うと、静香は嬉しそうに胸を張った。
「しーちゃん、いる!」
その一言だけで、清子はどれほど救われただろう。
そんなある日のこと。
邑黄が市場から小さな桃を買って帰ってきた。
「今日は給料日だったんだ。」
「少しだけ贅沢しよう。」
静香は目を輝かせる。
「もも!」
「しーちゃん、ももしゅき!」
邑黄は笑いながら娘を膝へ乗せた。
「じゃあ、お父さんと半分こだ。」
「はんぶんこ!」
家の中に笑い声が響く。
その光景を見て、清子はそっとお腹を撫でた。
(この子も、こんなふうに笑える家で育ってほしい。)
(泣いても、甘えても、ちゃんと受け止めてもらえる場所で……。)
そう願わずにはいられなかった。
しかし、幸せな時間の陰で、少しずつ変化が生まれていた。
郵便局では仕事が増え、接待や祝い事も多くなっていた。
「今日も飲み会かい?」
秀華が尋ねる。
「断れないんだ。」
邑黄は苦笑した。
最初は祝い酒だった。
次第に仕事終わりの一杯になり、やがて毎週のように酒場へ通うようになっていく。
帰宅すると酒の匂いはするが、まだ機嫌は良かった。
「静香!」
「お父しゃん!」
静香は嬉しそうに飛びつく。
「おうましゃん!」
邑黄は肩車をして庭を歩き回る。
「たかーい!」
静香の笑い声が夜空へ響いた。
清子はその姿を見て、ほっと息をつく。
(まだ大丈夫。)
(この人は、ちゃんと家族を見てくれている。)
そう信じたかった。
けれど、ふとした瞬間に、帰宅した邑黄の目が少しだけ遠くなることがあった。笑っていても、どこか心ここにあらずのような沈黙が混じる。
清子は気づかないふりをした。
気づいてしまえば、不安が形になる気がしたからだ。
秋の終わり。
清子の陣痛が始まった。
「静香、おばあちゃんと待っていようね。」
秀蘭が静香を抱き上げる。
「ままぁ?」
「だいじょーぶ?」
静香は不安そうに清子の袖をつかんだ。
清子は痛みに耐えながらも、できるだけ穏やかに微笑む。
「お母さんは赤ちゃんを連れて帰ってくるよ。」
「あかちゃん?」
静香は首をかしげる。
「しーちゃん、おねえちゃん?」
「そうだよ。」
「おねえちゃん!」
嬉しそうに何度も繰り返した。
その声を聞きながら、清子は痛みの合間に胸を熱くした。
(この子は、きっと赤ちゃんにも優しくしてくれる。)
(静香なら、きっと……。)
そう思うだけで、苦しさの中にも少しだけ力が湧いた。
長い陣痛の末、夜明け前。
力強い産声が響いた。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
産婆が笑顔で言う。
「元気な男の子ですよ。」
邑黄は安堵のあまり、その場に座り込んだ。
「ありがとう……。」
何度も頭を下げる。
清子は汗で濡れた顔のまま、小さな命を見つめた。
しっかりと握られた拳。
大きな泣き声。
そのひとつひとつが、たしかに生きている証だった。
(よかった……。)
(無事に生まれてきてくれた……。)
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
静香も秀蘭に抱かれながら赤ん坊を見つめる。
「ちっちゃい!」
「かわいい!」
「おてて、ちっちゃーい!」
その無邪気な声に、部屋の空気がふっとやわらいだ。
清子はその光景を見て、涙がにじむのを感じた。
家族が増える。
この子たちを守っていかなければならない。
そう思うと、疲れ切った体の奥からも、不思議と力が湧いてきた。
数日後。
家族は男の子に一新という名前を贈った。
「新しい時代を切り開く人になってほしい。」
戦争の傷を乗り越え、家族の希望となるように。
そんな願いが込められていた。
静香は毎日のように弟のそばへ座った。
「いっしん。」
「おねえちゃんだよ。」
赤ん坊の小さな手が静香の指を握る。
「わぁ!」
「にぎった!」
嬉しそうにはしゃぐ静香を見て、清子は思わず微笑んだ。
(この子は、きっと優しいお姉ちゃんになる。)
静香が弟の顔をのぞき込み、そっと髪を撫でようとするたび、清子の胸は温かくなる。誰に教えられたわけでもないのに、静香は自然と赤ん坊に声をかけ、笑いかけていた。
その姿は、清子にとって何よりの慰めだった。
しかし、その幸せを見て面白く思わない人物が一人いた。
邑黄の母だった。
男の子が生まれたことで家は喜びに包まれていたが、義母の関心は孫の誕生ではなく、「跡取り」ができたことだけに向けられていた。
「これでようやく安心だね。」
そう言う声には、祝いの温かさよりも、家の役目を果たしたという冷ややかな満足が滲んでいた。
そして、その日を境に義母は一新ばかりを可愛がり、静香との差をあからさまにつけ始める。
「一新はよく泣くねえ。」
「男の子は元気でなくちゃ。」
そう言って抱き上げる手はやけに優しいのに、静香へ向ける視線はどこか素通りしていた。
「静香は、そこにいなさい。」
「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい。」
その言葉の端々に、静香はまた小さくなっていく。
幼い静香は、その理由も分からないまま、小さな胸に寂しさを積み重ねていくのだった。
清子はその様子を見るたび、何度も言い返したくなった。
どうしてこの子だけをそんなふうに見るのか。
どうして、同じ孫なのに、こんなにも扱いが違うのか。
けれど、口を開けば家の空気がさらに冷える気がして、清子は唇を噛みしめるしかなかった。
ただ、静香が不安そうにこちらを見上げるたび、清子はそっと手を握り返す。
「大丈夫よ。」
「お母さんは、ちゃんと見ているからね。」
その声だけが、静香の心を支える小さな灯りであってほしいと、清子は願った。




