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水瀬千尋はエースではない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第一章 あそこへ

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9/20

第八話 あそこ

 1月。


 東京体育館の観客席は、青嵐女学院の体育館とはまるで違う音がした。


 応援席から飛ぶ声に、鳴り続ける拍手とホイッスル。4面のコートで弾むボールの音が高い天井にぶつかり、それぞれが混ざり合って大きなざわめきになっている。


 私は凜と並んで、その中の1面を見下ろしていた。


 青いユニフォーム。


 青嵐女学院。


 数か月前まではテレビの向こうにいたチームで、春からは私たちが入ることになる学校だった。


 正式な推薦入試はまだ残っている。それでも、学校側から推薦で受け入れるという話は既にもらっていた。あとは1月下旬の試験を受け、春を待つだけだ。


「ナイスー!」


 凜が立ち上がって叫ぶ。


 九条先輩のスパイクが、相手の3枚ブロックを弾き飛ばしたところだった。


「凜、前の人びっくりしてる」


「あ、ごめんなさい!」


 慌てて座る。


 それでも、その直後にはもう前のめりになっていた。相変わらず落ち着きがない。


「やっぱり九条先輩すごいね」


「うん」


「あれ、止められる?」


「私に聞かれても」


「千尋、ブロック上手いじゃん」


「185cmの九条先輩を、169cmない私に止めろって?」


「168.8cm」


「そこ覚えなくていいよ」


 凜が笑う。


 私も少し笑ったけれど、すぐにコートへ視線を戻した。


 いつまでも笑っていられるような試合ではなかった。


 春高、準々決勝。


 勝てばベスト4。


 青嵐は第1セットを落とし、第2セットを取り返した。第3セットも中盤まではほとんど差がなかったのに、終盤に入ってから相手に2点、3点と離され始めている。


 それでも、青嵐のボールは落ちなかった。


 強打をリベロが拾い、乱れたボールを一ノ瀬先輩が追いかける。ネットから離れた位置から上がったトスを九条先輩が打ち切り、ブロックに当たれば誰かがカバーへ入る。


 数か月前、初めて青嵐の体育館へ行った時に抱いた印象を、私はもう一度思い出していた。


 しつこい。


 もちろん、最高の褒め言葉として。


「まだ!」


 コートから声が飛ぶ。


 何度攻撃されても、またボールが上がる。拾ってつなぎ、もう一度打つ。1本のラリーが終わるたび、会場全体から大きな歓声と拍手が湧き上がった。


 けれど、点差は縮まらなかった。


 相手にも、ここまで勝ち残ってきた理由がある。


 青嵐が強いからといって、相手が弱くなるわけではない。


 そんな当たり前のことを、私は今日初めて実感していた。


 相手のマッチポイント。


 隣にいる凜が、何も言わなくなった。


 サーブが飛んでくる。


 青嵐のレセプションが少し乱れた。一ノ瀬先輩が走り、レフトへ高いトスを上げる。


 九条先輩の前に、3枚のブロックが揃った。


 跳ぶ。


 打つ。


 ボールがブロックに当たり、真下へ落ちる。


「まだ!」


 青嵐の選手が床へ滑り込み、ぎりぎりで拾った。ボールはネット際へ戻り、どうにか相手コートへ返る。


 今度は相手の攻撃。


 速いトスに、青嵐のブロックがつく。指先に当たったボールを後衛が飛び込んで上げた。


「すご……」


 凜が小さく呟く。


 もう、誰が何回ボールに触ったのか分からない。


 ただ、青いユニフォームだけが動き続けていた。


 最後の1本まで、絶対に諦めない。


 学校見学の日に監督から聞いた言葉が、そのままコートの上にあった。


 相手のスパイクが、ブロックに触れて大きくコートの外へ弾かれる。


 背番号1の主将が走った。


 コートの外へ飛び出し、片手を伸ばす。


 追いついた。


「うそ!」


 凜が立ち上がる。


 片手で上げられたボールは高くコートへ戻り、青嵐はどうにか相手側へ返した。


 もう一度、相手が攻撃を組み立てる。


 センターからの速攻。


 青嵐のブロックが触った。


 勢いを失ったボールが、後衛の横へ落ちていく。


 青嵐の選手が飛び込んだ。手を伸ばし、床すれすれまで追いかける。


 あと少し。


 指先まで。


 それでも、届かなかった。


 ボールが床に触れた。


 笛が鳴る。


 その瞬間、それまであれほど大きかった会場の音が、私の耳には急に遠くなったように感じられた。


 得点板の数字が変わる。


 試合終了。


 青嵐女学院、準々決勝敗退。


 全国ベスト8。


「……負けた」


 凜が言った。


「うん」


 それしか返せなかった。


 全国ベスト8。


 中学生の私からすれば、とんでもなくすごい結果だ。全国大会へ出るだけでも大変なのに、そこから何試合も勝ち、8校しか残らないところまで来た。


 それでも、コートにいる青嵐の選手たちは、誰も嬉しそうではなかった。


 最後までボールを追った3年生が、床に膝をついている。立ち上がろうとして、顔を伏せた。別の3年生が近づき、その肩を抱く。


 整列のために集まった選手たちの中で、泣いている人が何人もいた。


 九条先輩も唇を噛んでいる。


 一ノ瀬先輩は、下を向いたままだった。


 私たちが入学する頃には、今日コートに立っていた3年生たちはもういない。


 この試合が、このチームで戦う最後の試合だった。


 そのことが、急に重く感じられた。


「全国でベスト8でも」


 凜が呟く。


「負けたら、終わりなんだね」


「……うん」


 私はコートを見たまま答えた。


 小学校最後の大会で負けた日のことを、少しだけ思い出す。


 父は、負けを忘れなくていいと言った。


 忘れないまま、次へ行けばいい、と。


 今日負けた3年生たちにも、それぞれの次はあるのだと思う。大学で競技を続ける人もいれば、ここでバレーを終える人もいる。


 それでも、青嵐女学院のこのチームとしての次は、もうない。


 春になれば、先輩たちと入れ替わるように私たちが入る。


「……千尋」


「何?」


「私、もっと強くなりたい」


 凜が言った。


 いつもの大きな声ではなかった。


「うん」


「九条先輩くらい」


「それは、かなり大変だね」


「分かってるよ」


「じゃあ頑張って」


「千尋も!」


「なんで私まで九条先輩を目指すの」


「一緒に強くなるの!」


「はいはい」


 少しだけ笑えた。


 青嵐の選手たちが、コートから去っていく。


 最後に3年生たちが振り返り、観客席へ向かって深く頭を下げた。


 大きな拍手が送られた。


     ◇


「千尋!」


 試合が終わり、人で混み合う通路を凜と歩いていた時だった。


 聞き覚えのある声に振り返る。


「伊織」


 青嵐中等部のジャージを着た伊織が、人の間からこちらへ歩いてきた。


 数か月ぶりだった。


「やっぱり来てたんだ」


「伊織こそ」


「私は中等部の部員として来てるから」


「あ、そっか」


「伊織ー!」


 凜が飛びつきそうな勢いで近づく。


「久しぶり!」


「近い近い」


「試合見た!?」


「見たよ。最初から」


「惜しかったね」


「うん」


 伊織の表情が少しだけ曇る。


 自分の学校だ。


 私たちとは、感じ方も少し違うのだろう。


「速水さんも来てるよ」


「え?」


 凜がものすごい勢いで振り返った。


 少し離れた壁際に、速水さんが立っている。


 こちらに気づき、軽く手を上げた。


「久しぶり」


「美緒も来てたの!?」


「うん」


「なんで連絡してくれないの!」


「連絡先知らない」


「あ」


 凜が止まった。


「じゃあ今日交換しよう!」


「急だね」


「だって春から一緒でしょ!」


 速水さんが、わずかに目を瞬く。


 伊織も凜を見た。


「凜、本当に青嵐に決めたんだって?」


「決めた! 推薦もらった!」


「正式な試験はまだでしょ」


「でも、学校から来ていいって言われた!」


「言い方が軽いのよ」


 呆れながら、伊織が私を見る。


「千尋も?」


「うん。私も学校から正式に推薦の話をもらったよ」


「……そっか」


 伊織が少し笑った。


 学校見学の日、凜に先に進路をばらされた時と、よく似た顔だった。


「速水さんは?」


 私が聞く。


「私も決まった」


「じゃあ、春から3人とも一緒じゃん!」


 凜がまた喜ぶ。


「だから、正式な合格発表はまだでしょ」


「でも、もう決まってるようなもんじゃん!」


「凜はそういうところが適当なの!」


「伊織はそのまま高等部だよね?」


「うん。私は内部進学で、そのまま高等部のバレー部へ上がる」


 そう答えてから、伊織は少しだけ間を置いた。


「でも、中等部から高等部のバレー部へ上がる同級生、私だけなんだって」


「……そうなの?」


「うん」


 伊織は笑った。


「まあ、仕方ないよね。高等部で続けない子もいるし、他の学校へ行く子もいる。それに、内部生なら全員そのまま上がれるわけでもないから」


 言っていることは普通だった。


 表情だって、いつもの伊織とそれほど変わらない。


 それでも、少しだけ寂しそうに見えた。


 中等部で一緒にバレーをしてきた同級生が、春になったら1人もいなくなる。


 青嵐には先輩がいる。


 後輩も来る。


 けれど、同級生というのは、たぶん少し違うのだろう。


「じゃあ、私たちがいるじゃん!」


 凜が言った。


「……まだ正式に受かってないでしょ」


「受かる!」


「その自信、どこから来るの」


「伊織、私たちが来るの嫌?」


「そういう言い方、ずるくない?」


「嫌?」


「……嫌じゃない」


「じゃあいいじゃん!」


「何がいいのよ」


 伊織は呆れている。


 それでも、さっきより少し笑っていた。


 速水さんも、その横で小さく笑う。


「4人だね」


 凜が言った。


「何が?」


「春から!」


「だから、まだ合格発表前だって言ってるでしょ」


「伊織しつこい!」


「凜が適当すぎるの!」


「でも千尋も来るし、美緒も来るし、伊織もいる!」


「だから、もう完全に美緒って呼んでるじゃない」


「もういい」


 速水さん本人が言った。


「ほら!」


「凜が勝ったみたいな顔しないで」


 数か月前。


 初めて青嵐の体育館で4人一緒になった時と変わらない。


 凜が騒ぎ、伊織が怒り、速水さんが淡々と返す。私はその横で笑っている。


 それだけで、少し安心した。


     ◇


 4人で話しているうちに、通路を歩く人も少なくなっていた。


「戻ってみる?」


 伊織が言った。


「どこに?」


「観客席。そろそろコートの片付けが始まってると思う」


 伊織について、私たちはもう一度観客席へ入った。


 4面すべての準々決勝が終わった会場では、スタッフが慌ただしく動いていた。コートの周囲に置かれていた備品が運び出され、ネットや支柱も順番に片付けられていく。


 準々決勝まで使われていた4面は、このあと、準決勝と決勝のための特設1面へ組み替えられる。


 これから大会は、さらに少ないチームだけのものになる。


「すごいね」


 凜が手すりに身を乗り出した。


「何が?」


「コートがどんどん減ってく」


「勝ち残ってるチームも減ってるからね」


 伊織が答えた。


 その言葉に、さっきの敗戦を思い出す。


 青嵐はもう、その中にはいない。


 全国ベスト8。


 そこまで勝っても、次のコートへは進めない。


 スタッフたちが、会場の中央を広く空け始めている。


 この先、準決勝と決勝が行われる場所。


 最後まで勝ち残ったチームだけが立てる、センターコート。


「ねえ」


 凜が言った。


「何?」


「あそこ」


 凜が指を差す。


 私も、伊織も、速水さんも、その指の先を見た。


 会場の中央。


「センターコート?」


 私が聞く。


「うん」


 凜は笑っていた。


 いつもの、何か面白いものを見つけた時の顔だった。


「私たちも、あそこ行こう」


 伊織が一瞬黙る。


「……簡単に言うね」


「簡単じゃないよ?」


「分かってるんだ」


「分かってる!」


「本当に?」


「だって今日見たじゃん」


 凜が、片付けられていくコートを見る。


「青嵐でも、ベスト8で負けるんだよ」


 その声には、いつもの軽さが少しだけなかった。


「全国に出るだけじゃ、あそこには行けない」


「そうだね」


 伊織が答える。


「だから、あそこまで行こう」


 凜はもう一度、会場の中央を指差した。


 速水さんも、その先を見る。


「全国に出よう、じゃなくて?」


「うん」


「ベスト4以上?」


「うん!」


「欲張り」


 伊織が笑った。


「伊織は行きたくないの?」


「……行きたいけど」


「美緒は?」


「行けるなら」


「行けたらじゃなくて、行くの!」


「凜が決めるの?」


「じゃあ、美緒は行きたくない?」


 速水さんは少し考えてから、もう一度センターコートが作られる場所へ目を向けた。


「……行きたい」


「ほら!」


 凜が嬉しそうに笑う。


 そして、最後に私を見た。


「千尋は?」


「私?」


「行くでしょ?」


 会場の中央を見る。


 遠い。


 当たり前だ。


 私はまだ高校生ですらない。青嵐のユニフォームも持っていない。


 今日そこで戦っていた先輩たちが、何年かけてこの舞台まで来たのかも知らない。


 高校に入ったからといって、すぐ試合に出られるとは限らない。


 九条先輩がいる。


 由梨先輩がいる。


 私より大きくて、速くて、上手い選手が大勢いる。


 それでも、学校見学の日のことを思い出した。


 伊織のトスを追いかけて、凜と一緒に笑った。


 速水さんのレシーブから始まった1本を、4人で面白がった。


 あの日だって、最初からできると思っていたわけではない。


 ただ、やってみたかった。


「うん」


 私は答えた。


「行きたい」


「じゃあ決まり!」


「何が?」


「4人で行く!」


 凜が言う。


「センターコート!」


「勝手に目標を決めないでよ」


 伊織はそう言ったけれど、笑っていた。


 速水さんも否定しなかった。


 私も、もう一度会場の中央を見る。


 今日、青嵐の3年生たちは、そこへ辿り着けなかった。


 春になれば、その先輩たちと入れ替わるように私たちが入学する。


 この先、勝つこともあれば、負けることもある。


 試合に出られず、悔しい思いをすることもある。


 ようやく勝ったあとでさえ、まだ届かない場所があることも、この時の私は何も知らなかった。


 ただ、あの日の私たちには。


 遠くにあるセンターコートが、ひどく眩しく見えた。


「絶対行こうね」


 凜が言う。


 伊織が肩をすくめた。


「だから、簡単に言いすぎ」


「でも行きたいでしょ?」


「……うん」


「美緒!」


「行きたいって言った」


「千尋!」


「私も言ったよ」


「じゃあ決まり!」


「結局、凜が決めるんだ」


 4人で笑った。


 その声は、広い東京体育館ではすぐに周囲の音へ混ざり、消えていった。


 それでも。


 凜が指差した場所だけは、ずっと私の目に残っていた。



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