第八話 あそこ
1月。
東京体育館の観客席は、青嵐女学院の体育館とはまるで違う音がした。
応援席から飛ぶ声に、鳴り続ける拍手とホイッスル。4面のコートで弾むボールの音が高い天井にぶつかり、それぞれが混ざり合って大きなざわめきになっている。
私は凜と並んで、その中の1面を見下ろしていた。
青いユニフォーム。
青嵐女学院。
数か月前まではテレビの向こうにいたチームで、春からは私たちが入ることになる学校だった。
正式な推薦入試はまだ残っている。それでも、学校側から推薦で受け入れるという話は既にもらっていた。あとは1月下旬の試験を受け、春を待つだけだ。
「ナイスー!」
凜が立ち上がって叫ぶ。
九条先輩のスパイクが、相手の3枚ブロックを弾き飛ばしたところだった。
「凜、前の人びっくりしてる」
「あ、ごめんなさい!」
慌てて座る。
それでも、その直後にはもう前のめりになっていた。相変わらず落ち着きがない。
「やっぱり九条先輩すごいね」
「うん」
「あれ、止められる?」
「私に聞かれても」
「千尋、ブロック上手いじゃん」
「185cmの九条先輩を、169cmない私に止めろって?」
「168.8cm」
「そこ覚えなくていいよ」
凜が笑う。
私も少し笑ったけれど、すぐにコートへ視線を戻した。
いつまでも笑っていられるような試合ではなかった。
春高、準々決勝。
勝てばベスト4。
青嵐は第1セットを落とし、第2セットを取り返した。第3セットも中盤まではほとんど差がなかったのに、終盤に入ってから相手に2点、3点と離され始めている。
それでも、青嵐のボールは落ちなかった。
強打をリベロが拾い、乱れたボールを一ノ瀬先輩が追いかける。ネットから離れた位置から上がったトスを九条先輩が打ち切り、ブロックに当たれば誰かがカバーへ入る。
数か月前、初めて青嵐の体育館へ行った時に抱いた印象を、私はもう一度思い出していた。
しつこい。
もちろん、最高の褒め言葉として。
「まだ!」
コートから声が飛ぶ。
何度攻撃されても、またボールが上がる。拾ってつなぎ、もう一度打つ。1本のラリーが終わるたび、会場全体から大きな歓声と拍手が湧き上がった。
けれど、点差は縮まらなかった。
相手にも、ここまで勝ち残ってきた理由がある。
青嵐が強いからといって、相手が弱くなるわけではない。
そんな当たり前のことを、私は今日初めて実感していた。
相手のマッチポイント。
隣にいる凜が、何も言わなくなった。
サーブが飛んでくる。
青嵐のレセプションが少し乱れた。一ノ瀬先輩が走り、レフトへ高いトスを上げる。
九条先輩の前に、3枚のブロックが揃った。
跳ぶ。
打つ。
ボールがブロックに当たり、真下へ落ちる。
「まだ!」
青嵐の選手が床へ滑り込み、ぎりぎりで拾った。ボールはネット際へ戻り、どうにか相手コートへ返る。
今度は相手の攻撃。
速いトスに、青嵐のブロックがつく。指先に当たったボールを後衛が飛び込んで上げた。
「すご……」
凜が小さく呟く。
もう、誰が何回ボールに触ったのか分からない。
ただ、青いユニフォームだけが動き続けていた。
最後の1本まで、絶対に諦めない。
学校見学の日に監督から聞いた言葉が、そのままコートの上にあった。
相手のスパイクが、ブロックに触れて大きくコートの外へ弾かれる。
背番号1の主将が走った。
コートの外へ飛び出し、片手を伸ばす。
追いついた。
「うそ!」
凜が立ち上がる。
片手で上げられたボールは高くコートへ戻り、青嵐はどうにか相手側へ返した。
もう一度、相手が攻撃を組み立てる。
センターからの速攻。
青嵐のブロックが触った。
勢いを失ったボールが、後衛の横へ落ちていく。
青嵐の選手が飛び込んだ。手を伸ばし、床すれすれまで追いかける。
あと少し。
指先まで。
それでも、届かなかった。
ボールが床に触れた。
笛が鳴る。
その瞬間、それまであれほど大きかった会場の音が、私の耳には急に遠くなったように感じられた。
得点板の数字が変わる。
試合終了。
青嵐女学院、準々決勝敗退。
全国ベスト8。
「……負けた」
凜が言った。
「うん」
それしか返せなかった。
全国ベスト8。
中学生の私からすれば、とんでもなくすごい結果だ。全国大会へ出るだけでも大変なのに、そこから何試合も勝ち、8校しか残らないところまで来た。
それでも、コートにいる青嵐の選手たちは、誰も嬉しそうではなかった。
最後までボールを追った3年生が、床に膝をついている。立ち上がろうとして、顔を伏せた。別の3年生が近づき、その肩を抱く。
整列のために集まった選手たちの中で、泣いている人が何人もいた。
九条先輩も唇を噛んでいる。
一ノ瀬先輩は、下を向いたままだった。
私たちが入学する頃には、今日コートに立っていた3年生たちはもういない。
この試合が、このチームで戦う最後の試合だった。
そのことが、急に重く感じられた。
「全国でベスト8でも」
凜が呟く。
「負けたら、終わりなんだね」
「……うん」
私はコートを見たまま答えた。
小学校最後の大会で負けた日のことを、少しだけ思い出す。
父は、負けを忘れなくていいと言った。
忘れないまま、次へ行けばいい、と。
今日負けた3年生たちにも、それぞれの次はあるのだと思う。大学で競技を続ける人もいれば、ここでバレーを終える人もいる。
それでも、青嵐女学院のこのチームとしての次は、もうない。
春になれば、先輩たちと入れ替わるように私たちが入る。
「……千尋」
「何?」
「私、もっと強くなりたい」
凜が言った。
いつもの大きな声ではなかった。
「うん」
「九条先輩くらい」
「それは、かなり大変だね」
「分かってるよ」
「じゃあ頑張って」
「千尋も!」
「なんで私まで九条先輩を目指すの」
「一緒に強くなるの!」
「はいはい」
少しだけ笑えた。
青嵐の選手たちが、コートから去っていく。
最後に3年生たちが振り返り、観客席へ向かって深く頭を下げた。
大きな拍手が送られた。
◇
「千尋!」
試合が終わり、人で混み合う通路を凜と歩いていた時だった。
聞き覚えのある声に振り返る。
「伊織」
青嵐中等部のジャージを着た伊織が、人の間からこちらへ歩いてきた。
数か月ぶりだった。
「やっぱり来てたんだ」
「伊織こそ」
「私は中等部の部員として来てるから」
「あ、そっか」
「伊織ー!」
凜が飛びつきそうな勢いで近づく。
「久しぶり!」
「近い近い」
「試合見た!?」
「見たよ。最初から」
「惜しかったね」
「うん」
伊織の表情が少しだけ曇る。
自分の学校だ。
私たちとは、感じ方も少し違うのだろう。
「速水さんも来てるよ」
「え?」
凜がものすごい勢いで振り返った。
少し離れた壁際に、速水さんが立っている。
こちらに気づき、軽く手を上げた。
「久しぶり」
「美緒も来てたの!?」
「うん」
「なんで連絡してくれないの!」
「連絡先知らない」
「あ」
凜が止まった。
「じゃあ今日交換しよう!」
「急だね」
「だって春から一緒でしょ!」
速水さんが、わずかに目を瞬く。
伊織も凜を見た。
「凜、本当に青嵐に決めたんだって?」
「決めた! 推薦もらった!」
「正式な試験はまだでしょ」
「でも、学校から来ていいって言われた!」
「言い方が軽いのよ」
呆れながら、伊織が私を見る。
「千尋も?」
「うん。私も学校から正式に推薦の話をもらったよ」
「……そっか」
伊織が少し笑った。
学校見学の日、凜に先に進路をばらされた時と、よく似た顔だった。
「速水さんは?」
私が聞く。
「私も決まった」
「じゃあ、春から3人とも一緒じゃん!」
凜がまた喜ぶ。
「だから、正式な合格発表はまだでしょ」
「でも、もう決まってるようなもんじゃん!」
「凜はそういうところが適当なの!」
「伊織はそのまま高等部だよね?」
「うん。私は内部進学で、そのまま高等部のバレー部へ上がる」
そう答えてから、伊織は少しだけ間を置いた。
「でも、中等部から高等部のバレー部へ上がる同級生、私だけなんだって」
「……そうなの?」
「うん」
伊織は笑った。
「まあ、仕方ないよね。高等部で続けない子もいるし、他の学校へ行く子もいる。それに、内部生なら全員そのまま上がれるわけでもないから」
言っていることは普通だった。
表情だって、いつもの伊織とそれほど変わらない。
それでも、少しだけ寂しそうに見えた。
中等部で一緒にバレーをしてきた同級生が、春になったら1人もいなくなる。
青嵐には先輩がいる。
後輩も来る。
けれど、同級生というのは、たぶん少し違うのだろう。
「じゃあ、私たちがいるじゃん!」
凜が言った。
「……まだ正式に受かってないでしょ」
「受かる!」
「その自信、どこから来るの」
「伊織、私たちが来るの嫌?」
「そういう言い方、ずるくない?」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
「じゃあいいじゃん!」
「何がいいのよ」
伊織は呆れている。
それでも、さっきより少し笑っていた。
速水さんも、その横で小さく笑う。
「4人だね」
凜が言った。
「何が?」
「春から!」
「だから、まだ合格発表前だって言ってるでしょ」
「伊織しつこい!」
「凜が適当すぎるの!」
「でも千尋も来るし、美緒も来るし、伊織もいる!」
「だから、もう完全に美緒って呼んでるじゃない」
「もういい」
速水さん本人が言った。
「ほら!」
「凜が勝ったみたいな顔しないで」
数か月前。
初めて青嵐の体育館で4人一緒になった時と変わらない。
凜が騒ぎ、伊織が怒り、速水さんが淡々と返す。私はその横で笑っている。
それだけで、少し安心した。
◇
4人で話しているうちに、通路を歩く人も少なくなっていた。
「戻ってみる?」
伊織が言った。
「どこに?」
「観客席。そろそろコートの片付けが始まってると思う」
伊織について、私たちはもう一度観客席へ入った。
4面すべての準々決勝が終わった会場では、スタッフが慌ただしく動いていた。コートの周囲に置かれていた備品が運び出され、ネットや支柱も順番に片付けられていく。
準々決勝まで使われていた4面は、このあと、準決勝と決勝のための特設1面へ組み替えられる。
これから大会は、さらに少ないチームだけのものになる。
「すごいね」
凜が手すりに身を乗り出した。
「何が?」
「コートがどんどん減ってく」
「勝ち残ってるチームも減ってるからね」
伊織が答えた。
その言葉に、さっきの敗戦を思い出す。
青嵐はもう、その中にはいない。
全国ベスト8。
そこまで勝っても、次のコートへは進めない。
スタッフたちが、会場の中央を広く空け始めている。
この先、準決勝と決勝が行われる場所。
最後まで勝ち残ったチームだけが立てる、センターコート。
「ねえ」
凜が言った。
「何?」
「あそこ」
凜が指を差す。
私も、伊織も、速水さんも、その指の先を見た。
会場の中央。
「センターコート?」
私が聞く。
「うん」
凜は笑っていた。
いつもの、何か面白いものを見つけた時の顔だった。
「私たちも、あそこ行こう」
伊織が一瞬黙る。
「……簡単に言うね」
「簡単じゃないよ?」
「分かってるんだ」
「分かってる!」
「本当に?」
「だって今日見たじゃん」
凜が、片付けられていくコートを見る。
「青嵐でも、ベスト8で負けるんだよ」
その声には、いつもの軽さが少しだけなかった。
「全国に出るだけじゃ、あそこには行けない」
「そうだね」
伊織が答える。
「だから、あそこまで行こう」
凜はもう一度、会場の中央を指差した。
速水さんも、その先を見る。
「全国に出よう、じゃなくて?」
「うん」
「ベスト4以上?」
「うん!」
「欲張り」
伊織が笑った。
「伊織は行きたくないの?」
「……行きたいけど」
「美緒は?」
「行けるなら」
「行けたらじゃなくて、行くの!」
「凜が決めるの?」
「じゃあ、美緒は行きたくない?」
速水さんは少し考えてから、もう一度センターコートが作られる場所へ目を向けた。
「……行きたい」
「ほら!」
凜が嬉しそうに笑う。
そして、最後に私を見た。
「千尋は?」
「私?」
「行くでしょ?」
会場の中央を見る。
遠い。
当たり前だ。
私はまだ高校生ですらない。青嵐のユニフォームも持っていない。
今日そこで戦っていた先輩たちが、何年かけてこの舞台まで来たのかも知らない。
高校に入ったからといって、すぐ試合に出られるとは限らない。
九条先輩がいる。
由梨先輩がいる。
私より大きくて、速くて、上手い選手が大勢いる。
それでも、学校見学の日のことを思い出した。
伊織のトスを追いかけて、凜と一緒に笑った。
速水さんのレシーブから始まった1本を、4人で面白がった。
あの日だって、最初からできると思っていたわけではない。
ただ、やってみたかった。
「うん」
私は答えた。
「行きたい」
「じゃあ決まり!」
「何が?」
「4人で行く!」
凜が言う。
「センターコート!」
「勝手に目標を決めないでよ」
伊織はそう言ったけれど、笑っていた。
速水さんも否定しなかった。
私も、もう一度会場の中央を見る。
今日、青嵐の3年生たちは、そこへ辿り着けなかった。
春になれば、その先輩たちと入れ替わるように私たちが入学する。
この先、勝つこともあれば、負けることもある。
試合に出られず、悔しい思いをすることもある。
ようやく勝ったあとでさえ、まだ届かない場所があることも、この時の私は何も知らなかった。
ただ、あの日の私たちには。
遠くにあるセンターコートが、ひどく眩しく見えた。
「絶対行こうね」
凜が言う。
伊織が肩をすくめた。
「だから、簡単に言いすぎ」
「でも行きたいでしょ?」
「……うん」
「美緒!」
「行きたいって言った」
「千尋!」
「私も言ったよ」
「じゃあ決まり!」
「結局、凜が決めるんだ」
4人で笑った。
その声は、広い東京体育館ではすぐに周囲の音へ混ざり、消えていった。
それでも。
凜が指差した場所だけは、ずっと私の目に残っていた。




