第七話 行きたい場所
練習が終わった頃には、体育館の窓の向こうはすっかり暗くなっていた。
「つっかれたー!」
更衣を済ませて体育館を出た途端、凜が大きく伸びをした。さっきまで休憩時間にもボールを触っていた人間の台詞とは思えない。
「そりゃ疲れるよ。休憩中まで動いてたんだから」
「千尋もやってたじゃん」
「私は凜に付き合ったの」
「嘘。最後の方、私より楽しそうだった」
「……否定はしない」
実際、楽しかった。
ゲーム形式の練習も楽しかったけれど、その後の休憩時間の方が、もっとおかしかったかもしれない。
伊織が変なことを思いつき、凜が何も知らずに全力で跳ばされ、その後ろから私が回り込む。速水さんが返す場所を変えれば、伊織もトスを変える。先輩たちは先輩たちで、「今度こそ止める」とムキになってブロックへ入ってきた。
成功した時は、もちろん嬉しかった。
でも、今思い返してみると、妙に印象に残っているのは失敗した時だった。
トスに追いつけなかった。アンテナに当てた。先輩たちに完全に読まれて止められた。それなのに、誰かが失敗するたびに「じゃあ次はどうする?」という話になった。
――もう1本。今度はこっち。もう少し速く。いや、私が早く入る。速水さん、次はここ。凜は何も考えなくていい。
最後のだけは凜が怒っていたけれど、結局は笑いながら全力で助走していた。
「ねえ、千尋」
「何?」
前を歩いていた凜が振り返った。
「青嵐どうだった?」
「どうって?」
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
答えると、凜は待ってましたとばかりに笑った。
「でしょ!」
「なんで凜が自慢するの。今日初めて来たのは一緒でしょ」
「でも私は、来る前から絶対楽しいと思ってたから!」
「そういう理屈?」
「そういう理屈!」
凜は本当に迷いがない。
今日だって、九条先輩のスパイクを見て目を輝かせ、一ノ瀬先輩のトスを打って喜び、高校生の3枚ブロックに止められても「もう1本」と笑っていた。凜にとって青嵐は、たぶん最初から来たい場所だったのだろう。
「千尋は?」
凜が聞いた。
「私は何?」
「青嵐」
「ああ」
「来る?」
私はすぐには答えなかった。
廊下の向こうでは、高校生たちが片付けを続けている。今日聞いた声や、ボールが弾む音、シューズが床を擦る音が、まだ体育館から響いていた。
朝ここへ来た時には、そんなことは考えていなかった。
凜と一緒に見学し、練習に参加して、青嵐がどんな学校なのかを見て帰る。それだけのつもりだった。
何より知りたかったのは、自分に推薦が来た理由だ。
凜なら分かる。179cmあって、強く打てて、エースで、誰が見ても将来性がある。
でも、私は違う。大体のことはできるけれど、何が1番かと聞かれれば、自分でもよく分からない。
だから、青嵐がどうして私まで欲しいと言ったのかを知りたかった。
今日1日でその理由が分かったかと言われれば、別に分かっていない。監督もコーチも教えてくれなかったし、私も途中から聞くのを忘れていた。
そのことに気づいて、少し笑った。
「千尋?」
「ううん。なんでもない」
「で、来る?」
「凜、さっきからそれしか聞かないね」
「大事だから」
「うん」
私はもう一度、体育館を振り返った。
「たぶん、決めた」
「え?」
「でも、先にお父さんに言う」
「何それ!」
「普通でしょ」
「私にも教えて!」
「凜は、どうせ顔を見たら分かるよ」
「分かんない!」
「じゃあ、ちょっと待って」
「気になるー!」
騒ぐ凜を連れて校舎を出ると、冷たい風が一気に頬へ当たった。さっきまで汗をかいていた身体には、ちょうどいいくらいだった。
正門近くの駐車スペースには、迎えに来た保護者の車が何台か並んでいる。その中に、見慣れた車を見つけた。
「あ、おじさん!」
凜が先に駆けていく。
車の横に立っていた父もこちらに気づき、軽く手を上げた。
「お疲れさま」
「おじさん、青嵐すごかった!」
「そう」
「九条先輩、めちゃくちゃ高いし! 一ノ瀬先輩のトスもすっごく打ちやすくて! あと先輩たちのブロックも――」
「凜」
「何?」
「とりあえず荷物」
「あ」
父に言われて、凜はようやく自分が大きなバッグを肩に掛けたままだったことを思い出したらしい。車の後ろへ回り、荷物を積み始める。
「どうだった?」
父が私に聞いた。
「聞いてたでしょ」
「凜の感想は聞いたね」
「そうじゃなくて。体育館にいたじゃん」
「いたけど、千尋の感想は千尋に聞かないと分からないよ」
そう言われると、それもそうだ。
「楽しかった」
「そっか」
「それだけ?」
「何か他に言ってほしい?」
「またそれ言う」
父は笑った。
前に進路の話をした時も、同じようなことを言われた気がする。私が青嵐をどう思っているのか、父は自分から答えを出そうとはしない。
それがありがたいような、ちょっと腹が立つような。
私は助手席側へ回ったが、ドアを開ける前に手を止めた。
「お父さん」
「ん?」
父がこちらを見る。
凜はまだ車の後ろで荷物を整理している。と言っても、整理というより押し込んでいるだけに見えた。
何日も考えたわけではないし、他の学校を全部見たわけでもない。今日の朝まで、青嵐に進むとは決めていなかった。
それでも今は、不思議なくらい迷わなかった。
「私、青嵐に行こうと思う」
口にすると、思っていたよりずっと簡単だった。
父は少しだけ目を細めた。
「そっか」
「うん。推薦、受けたい」
「分かった」
「……反対しないの?」
「しないよ」
父は、ごく普通のことを言うように答えた。
「千尋が決めたなら、俺は反対しないよ」
それから、いつものように笑った。
「そっか」
「うん」
どうしてだろう。
自分で決めたはずなのに、その言葉を聞いたら少しだけ肩の力が抜けた。
「お父さんは、青嵐がいいと思ってたんでしょ?」
「好きなチームだとは言ったよ」
「私に合うと思ってた?」
「それを決めるのは千尋だからね」
「ずるいなあ」
「何が?」
「絶対、何か思ってたくせに」
「いろいろ思ってたよ。でも、俺がバレーをするわけじゃないし」
その言い方は、いかにも父らしかった。
父は昔、プロのバレーボール選手で、日本代表でもセッターを務めていた。私よりずっとバレーを知っているし、今日だって、私には見えていなかったものをいくつも見ていたはずだ。
それでも、私の進路について「ここへ行け」とは一度も言わなかった。
「どうして青嵐にしたの?」
今度は父から聞いた。
「それは聞くんだ」
「理由を聞くのと、決めるのは別だから」
「なるほど」
私は少し考えた。
「強いから」
「うん」
「先輩たちもすごかった。九条先輩なんて、凜よりずっと高いところから打つし。一ノ瀬先輩のトスもすごかったし、レシーブも全然落ちない」
「うん」
「でも、それだけじゃないかな」
今日のことを思い返す。
伊織と初めて組んだ。
あの子は本当に性格が悪い。もちろん、バレーでの話だけれど。
相手が何を考えているのかを考え、その反対をやる。私がトスを読んだら、それすら利用しようとする。
速水さんもおかしい。
きれいに返せるボールを、わざと少しだけネットから離した。伊織なら、そこからでも3人のアタッカーを使えると見ていたからだ。
凜はもっと単純だ。
自分へのトスだと思って思い切り跳び、「トス高い!」と空中で文句を言いながら落ちてきた。自分が囮だったと気づいた後には、誰よりも喜んでいた。
そして私は、その後ろから走って打った。
「なんかね」
言葉を探す。
「もっとやりたいって思った」
「バレーを?」
「それもそうなんだけど……今日やったやつ」
父は急かさず待っている。
「伊織が変なことを言い出して、速水さんが返す場所を変えて、凜が全力で跳んで、私が合わせて。うまくいかなかったら、じゃあ次はどうするってなって」
「うん」
「失敗したのに、失敗する前より楽しくなるの」
自分で言ってから、それだと思った。
決まった時だけ楽しかったんじゃない。
失敗した時に、「じゃあ次は」と全員が同じように前を向いた。その瞬間が、すごく楽しかった。
「もっと、あの人たちとバレーしてみたい」
私は父を見る。
「たぶん、それが1番」
父は少しだけ笑った。
「じゃあ、いいんじゃない?」
「軽いなあ」
「大事な理由だと思うよ」
「そう?」
「うん。少なくとも『お父さんが行けって言ったから』よりは、ずっといい」
「それはそうだね」
2人で笑った。
「ちょっと待って!」
突然、車の後ろから凜が飛び出してきた。
「聞いてたの?」
「聞こえた!」
「盗み聞きじゃん」
「車の横で話してるからでしょ!」
それもそうだった。
凜は私の前まで来ると、両手で私の肩を掴んだ。
「千尋、青嵐に来るの!?」
「推薦を受けるって言ったでしょ」
「やったー!」
「うわ、痛い!」
そのまま抱きつかれる。
「千尋も青嵐!」
「まだ合格してないから」
「受かる!」
「その自信、どこから来るの」
「一緒に高校でもバレーできる!」
凜は本当に嬉しそうだった。
その顔を見ていると、私まで笑ってしまう。
「あと3年も凜の子守かあ」
「子守じゃない!」
「今日もシューズ忘れたよね」
「あれは取りに戻ったからセーフ!」
「忘れた事実は消えないよ」
「高校では忘れない!」
「ほんとかなあ」
「忘れない!」
父が横で笑っている。
「じゃあ、高校入学祝いは凜用の忘れ物チェックリストかな」
「おじさんまで!」
「いいじゃん。玄関に貼ろう」
「千尋!」
「私は賛成」
「裏切り者!」
寒いから早く乗ろう、と父に促され、ようやく私たちは車に乗った。
エンジンがかかり、暖房の風が出始める。凜は後部座席からまだ「チェックリストはいらない」と文句を言っていたけれど、そのうち今日の練習の話に戻り、九条先輩のスパイクがどれだけすごかったのかを父に説明し始めた。
私は助手席から、窓の外を見る。
青嵐女学院の体育館には、まだ明かりがついていた。高校生たちは、この後も片付けやミーティングがあるのかもしれない。
朝、初めてその体育館へ入った時は、自分がどうして呼ばれたのかを知りたかった。
凜には分かりやすい武器がある。
私には何があるのか。
青嵐は、私の何を見たのか。
結局、その答えはまだ分からない。
けれど今は、すぐに答えを知りたいとは思わなかった。
推薦された理由を知ることよりも、伊織が次にどんなトスを上げるのかの方が気になる。
速水さんがどんなボールまで拾うのかを見たい。
凜が高校生になったら、どこまで高く跳べるようになるのかも見たい。
そして、その中で自分に何ができるのかを知りたい。
車がゆっくり動き出す。
体育館が少しずつ遠くなっていくのを見ながら、私は不思議な気分になった。
今日初めて来たばかりなのに、もう次に来る日のことを考えている。
「お父さん」
「ん?」
「春って、まだ遠いね」
「そうだね」
「早くならないかな」
父は一瞬だけこちらを見て、笑った。
「それは俺にもどうにもできないなあ」
「元全日本なのに?」
「全日本は季節を早められないよ」
「使えないなあ」
「ひどい娘だね」
後ろから凜が笑う。
私も笑った。
窓の向こうでは、青嵐の体育館がもう小さくなっていた。
次に来る時が見学なのか、手続きなのか、まだ分からない。それでも次は、今日とは少し違う気持ちで、あの扉を開けるのだと思う。
どうして私が呼ばれたのかを確かめに来るのではなく、ここでバレーをするために。
私は青嵐へ行きたい。
ようやく、その言葉が自分の中にちゃんと収まった。




