第一話 入学式
4月。
玄関の鏡の前でリボンの位置を直していると、家の外から聞き慣れた声が響いた。
「千尋ー! まだー!?」
「今行く!」
返事をして、最後にもう一度だけ鏡を見る。
青嵐女学院の制服。
採寸や受け取りの時に何度か袖を通しているから、本当に今日が初めてというわけではない。それでも朝からきちんと着て、鞄まで持つと急に実感が湧いてくる。
今日から高校生。
今日から青嵐女学院。
そして今日から、青嵐女学院女子バレーボール部の1年生になる。
「千尋! 本当に遅れるよ!」
「凜が言うな!」
鞄を持って玄関へ向かうと、リビングから父が顔を出した。
「忘れ物ない?」
「ないよ」
「本当に?」
「凜じゃないんだから」
「なるほど。それなら安心だ」
「本人に聞かれたら怒るよ」
「千尋が言ったことにしよう」
「もう私が言ってるし」
靴を履いて玄関を出る。
門の前には、同じ青嵐の制服を着た凜が立っていた。
「遅い!」
「まだ時間あるでしょ」
「私、もう5分待った!」
「凜が早く来すぎなんだよ」
「だって入学式だよ!」
朝から元気だ。
新しい制服が嬉しいらしく、凜はその場でくるっと回った。
「どう?」
「何が?」
「制服!」
「似合ってるよ」
「ほんと?」
「うん」
「千尋も可愛い!」
「ありがとう」
そんな話をしていると、背後でもう一度玄関が開いた。
「姉ちゃーん」
「何?」
振り返る。
妹の万尋が立っていた。
私たちがほんの少し前まで着ていた中学のセーラー服。その姿を見ると、自分が卒業したことより、妹が同じ制服を着ていることの方が妙な感じがする。
万尋は片手にスマホを持っていた。
「ちょっと写真撮らせて」
「なんで?」
「先輩たちがうるさい」
「どの先輩?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
万尋が無言でスマホの画面をこちらへ向けた。
中学バレー部のグループらしい。
通知が大量に並んでいる。
『万尋!!!!!』
『今日お姉ちゃんたち入学式だよね!?』
『青嵐の制服お願いします!!!!』
『凜先輩も!!!』
『千尋先輩も!!!』
『久我先輩も隣なんでしょ!?』
『3人並べて!!!』
『妹特権を使うんだ!!!!』
『お前にしかできない!!!』
私はしばらく画面を見た。
「……なんで?」
「姉ちゃん、今日それ2回目」
「だってなんで?」
万尋がため息をつく。
「去年まで同じ部活だった先輩たちが、全員バレーの強豪校行くんだから見たいんでしょ」
「ああ」
「今納得したの?」
「うん」
「遅い」
凜は既に乗り気だった。
「撮ろう撮ろう!」
「凜ちゃんはそう言うと思った」
「可愛く撮ってね!」
「凜ちゃんは放っといても笑うから楽」
「どういう意味!?」
「姉ちゃんの方が面倒」
「私?」
「顔固い」
「普通だよ」
「その顔、証明写真」
「入学式だから合ってない?」
「そういう話じゃない」
万尋は呆れたように言ってから、私の隣を見る。
「あと悠真くん」
「まだいないよ」
「隣じゃん」
「うん」
「呼んで」
「朝から?」
「どうせ起きてるでしょ」
その時だった。
本当にタイミングを計ったみたいに、すぐ隣の家の玄関が開いた。
「あ」
「悠真!」
凜が大きく手を振る。
黒を基調にした制服を着た久我悠真が、母親と一緒に出てきた。
悠真は私の家の本当に隣に住んでいる。
小学校も同じ。
中学校も同じ。
朝に顔を合わせることなんて、珍しくもなんともない。
それなのに今日は、見慣れた顔が少し違って見えた。
「おはよ」
「悠真、ちょうどよかった!」
凜が言う。
「何が?」
「万尋が写真撮りたいって!」
「私じゃない」
万尋が即座に訂正した。
「先輩たち」
「何で俺まで」
「久我先輩も撮れって」
「誰だよ」
「いっぱい」
「雑だな」
万尋がまたスマホを見せる。
『久我先輩絶対頼む』
『顔ちゃんと見えるやつ』
『鷹ノ宮の制服!!!!』
『万尋、使命だぞ』
『妹特権!!!!』
悠真が無言になる。
「……お前の先輩たち元気だな」
「姉ちゃんたちの後輩でもあるけどね」
「そうだった」
私は言う。
凜が吹き出した。
「千尋忘れてたの!?」
「一瞬」
「去年まで一緒にバレーしてたじゃん!」
「分かってるよ」
「ほら、並んで」
万尋がスマホを構えた。
「私が真ん中?」
凜が聞く。
「凜ちゃん右。姉ちゃん真ん中。悠真くん左」
「なんで決まってるの」
「画角」
「なるほど」
「姉ちゃん、もうちょい左」
「こっち?」
「もうちょい」
言われるまま動くと、悠真との距離が縮まった。
「近くない?」
「画角」
「ああ」
「……」
「悠真、何?」
「別に」
スマホ越しに万尋が悠真を見た。
一瞬。
妙に意味ありげな顔をした気がする。
「……ふーん」
「何だよ」
「別にー」
「何なんだよ」
「撮るよ。凜ちゃん笑って」
「任せて!」
「姉ちゃんも」
「笑ってるよ」
「その顔は証明写真」
「難しいなあ」
「千尋、こう!」
凜が私の肩へ腕を回す。
「重い」
「はい、笑って!」
カシャッ。
「もう1枚!」
「まだ撮るの?」
「先輩たち注文多いから」
「万尋も大変だね」
「誰のせいだと思ってるの」
「先輩たち?」
「姉ちゃんたち」
もう1枚。
今度は凜がピースして、私もなんとなく真似する。
悠真だけ普通に立っている。
「悠真くんもなんかやって」
「何を」
「ピースとか」
「嫌だ」
「人気商売向いてないね」
「高校生は人気商売じゃない」
万尋はそれでも何枚か撮ると、画面を確認した。
「うん。これでいいかな」
「見せて!」
凜が覗き込む。
「いいじゃん! 可愛い!」
「自分で言うんだ」
「千尋も可愛いよ!」
「ありがとう」
「悠真もまあまあ!」
「何でお前が採点するんだよ」
万尋がそのままスマホを操作する。
「じゃあ送るね」
「どこに?」
「部活のグループ」
送信。
数秒。
ピコン。
ピコンピコン。
ピコンピコンピコンピコン。
通知が止まらなくなった。
「うわ」
万尋が画面を見る。
『うわあああああああ!!!』
『凜先輩かわいい!!!!』
『青嵐だ!!!!』
『千尋先輩似合いすぎ!!!!』
『久我先輩鷹ノ宮!!!!!!』
『3人並んでる!!!!』
『万尋様!!!!!!!』
『万尋様ありがとうございます!!!!』
『万尋様一生ついていきます!!!!』
『水瀬家に足向けて寝られません!!!!』
『万尋様、次はジャージもお願いします!!!!』
万尋が黙った。
「……様になった」
「よかったね」
「よくない」
「万尋様!」
凜まで両手を合わせた。
「凜ちゃんまでやめて」
「ありがたやー」
「やめてって」
悠真が万尋のスマホを覗く。
「なんで俺だけ『顔ちゃんと見えるやつ』なんだよ」
「人気あるからじゃない?」
私が言う。
「やめろ」
「悠真、昔からモテるもんね!」
凜が言う。
「朝からその話やめろって」
「そうなの?」
「姉ちゃんも知ってるでしょ」
万尋に言われた。
「うん。バレンタインとかいっぱい貰ってたし」
「じゃあ何で『そうなの?』って聞いたの」
「なんとなく」
「姉ちゃん、本当にたまに会話おかしいよね」
悠真のお母さんが声を上げて笑った。
「万尋ちゃん、よく分かってるわねえ」
「ですよね」
「母さんまで何の話だよ」
「別に?」
悠真が嫌そうな顔をする。
その流れをまったく気にせず、凜が私と悠真の間へ入ってきた。
「そうだ悠真! 見て見て!」
「さっきから見えてる」
「違う!」
凜が胸を張る。
「どう? 可愛い?」
そして何故か私まで指差す。
「私と千尋!」
「なんでまた私も入れるの」
「いいじゃん!」
悠真が一瞬黙った。
凜を見て。
それから私を見る。
ほんの少しだけ、私のところで視線が止まった。
「……馬子にも衣裳」
「はあ!?」
凜が即座に食いつく。
「誰が馬!?」
「2人とも」
「最低!」
「私は別に馬でも制服似合うならいいけど」
「千尋! 怒って!」
「なんで?」
「そこは怒るところ!」
「そう?」
悠真が呆れたように息を吐く。
「相変わらずだな」
「何が?」
「何でもない」
「あらあら」
今度は悠真のお母さんが口元に手を当てて笑った。
「ほんと、素直じゃないわね~」
「何だよ母さん」
「せっかく可愛いって思ったなら、普通に可愛いって言えばいいのに」
「思ってない」
「あら、そう?」
「そう」
「ふぅん?」
「その顔やめて」
何の話だろう。
私は改めて自分たちの制服を見る。
「でも、なんか変な感じするね」
「何が?」
凜が聞く。
「高校になって、悠真だけ制服違う」
「そりゃ学校が――」
「あ」
「何?」
悠真が止まる。
「もともと男女で制服違うか」
「…………」
凜と悠真が同時に黙った。
「中学の時も悠真だけ制服違ったね」
「今気づいたの!?」
凜が声を上げて笑う。
「言われてみればそうだった」
「じゃあ何に感慨持ってたんだよ」
悠真が言う。
「高校が別になったこと?」
「なんで疑問形なの!?」
「思いついたから」
「さっきのちょっといい雰囲気返して!」
「そんなのあった?」
「もういい」
悠真が額を押さえる。
「なんで疲れてるの?」
「千尋のせいだよ」
「何もしてないけど」
「そういうところ」
「何が?」
今度は万尋まで笑い出した。
なんなんだろう。
「そういえば悠真」
凜が悠真の制服を見る。
「鷹ノ宮なんだよね?」
「うん」
「男子のめちゃくちゃ強いところ!」
「説明が雑」
「でも合ってるでしょ?」
「まあ、間違ってはいないけど」
鷹ノ宮学園。
男子バレーでは全国でも有名な強豪校だ。
悠真も中学時代からいくつもの強豪校に声をかけられていたけれど、最終的にそこへ進学した。
「悠真も全国行くんでしょ?」
凜が聞く。
「行くつもり」
「じゃあ春高で会えるね!」
凜が嬉しそうに言った。
悠真は数秒黙る。
それから、自分の家。
私の家。
私たちが立っている道。
順番に見回した。
「いや、隣に住んでるんだから、この辺で普通に会えるだろ」
「そういう意味じゃないの!」
「じゃあどういう意味だよ」
「東京体育館で! 高校のユニフォーム着て!」
「最初からそう言えよ」
「分かるでしょ!」
「分からない」
「私は分かったよ」
私が言う。
「千尋は凜の翻訳機だから参考にならない」
「誰が翻訳機」
「小学校からずっと一緒じゃん」
「悠真も同じでしょ」
「俺は全部理解しようと思ってない」
「ひどい!」
凜が抗議する。
でもすぐに機嫌を直した。
「私たちも春高行くから!」
「へえ」
「センターコートまで!」
「いきなりでかいな」
「この前4人で決めた!」
「4人?」
「私と千尋と伊織と美緒!」
悠真の眉が寄った。
「……イオリとミオって誰だよ」
「あ」
凜がようやく気づいた。
そして。
「仲間!」
満面の笑みで答えた。
「説明になってない」
「春から一緒に青嵐でバレーする仲間!」
「最初からそう言えよ」
「伊織はセッター! 美緒はリベロ! 2人ともすごい!」
「説明が雑すぎる」
「でも仲間!」
凜はそれだけは自信満々だった。
私も少し笑う。
まだ高校生活は今日からなのに。
でも確かに、伊織と速水さんを「友達」と呼ぶより、「仲間」と呼ぶ方がしっくりくる気がした。
「じゃあ悠真もセンターコート行けばいいじゃん!」
凜が言う。
「行くつもりだよ」
「じゃあ春高で会えるね!」
「だから隣に住んでるって」
「東京体育館で!」
「はいはい」
そこで、私はふと気になった。
「でもさ」
「何?」
「男子と女子って試合時間違うよね?」
凜が止まる。
「同じ東京体育館まで行っても、私たちが試合してる時に悠真も試合だったら会えなくない?」
「…………」
「あと、勝ち進み方によって会場にいる時間も違うだろうし」
「千尋」
「何?」
「今それ考える?」
「だって会えるって話でしょ?」
「会えるの!」
「根拠は?」
「幼馴染だから!」
「理由になってない」
悠真が即座に突っ込んだ。
「悠真まで!」
「俺もそこは千尋側」
「2対1ずるい!」
凜が頬を膨らませる。
悠真はそんな凜を見て少し笑った。
「まあ、3人とも勝ってりゃ、そのうちどっかで会うだろ」
「ほら!」
「何がほらなんだよ」
「悠真も会いたいんじゃん!」
「そういう意味じゃない」
「素直じゃないなあ」
「お前に言われたくない」
「あらあら」
悠真のお母さんがまた笑った。
「ほんと、素直じゃないわね~」
「母さんはもう黙ってて」
「私は誰がとは言ってないけど?」
「……行くぞ」
悠真が逃げるように歩き始める。
「なんで怒ってるの?」
私が聞く。
「姉ちゃん」
万尋が私を見る。
「何?」
「……いや。頑張ってね」
「入学式?」
「色々」
「何それ」
「姉ちゃんには分かんないか」
「何が?」
「やっぱいい」
万尋まで悠真のお母さんと同じような顔をしている。
なんなんだろう。
「じゃあ万尋、行ってくるね」
「うん。姉ちゃんも凜ちゃんも頑張って」
「ありがと!」
「あと悠真くんも」
「俺はついで?」
「先輩たち的には重要」
「嫌な重要さだな」
万尋がスマホを振る。
「写真ありがと。たぶん今日1日、私『万尋様』って呼ばれるから」
「よかったね」
「よくないって」
そう言って万尋は家へ戻っていった。
途中までは、私たち3人も同じ道を歩く。
小学校の頃も何度も歩いた道。
ランドセルを背負って。
中学になってからは部活のバッグを持って。
今日からは高校の鞄を持って歩く。
「今度こそ、なんか変な感じ」
私が言った。
悠真がすぐこちらを見る。
「また?」
「今度は何?」
「高校生になったのに、歩いてる場所は同じだなって」
「隣の家なんだから当たり前だろ」
「そうなんだけど」
「また別のこと思いついて全部壊すなよ」
「たぶん大丈夫」
「たぶんなんだ」
凜が笑った。
やがて交差点まで来ると、進む方向が分かれた。
凜と私は駅へ。
悠真は反対側。
「じゃあ」
悠真が片手を上げる。
「行ってらっしゃい」
「悠真もね!」
凜が大きく手を振る。
「頑張ってね、鷹ノ宮」
私も言う。
「千尋も」
「うん」
悠真は一度こちらを見る。
そして少しだけ視線を逸らした。
「……あと」
「何?」
「制服」
「うん?」
「まあ、似合ってるよ」
朝の話か。
「ありがとう」
「……うん」
「悠真も似合ってるよ」
「そっか」
「黒っぽくて強そう」
「感想そこ?」
「他に何があるの?」
「いや、ないけど」
悠真がなんとも言えない顔をした。
後ろでは悠真のお母さんがまた笑いを堪えている。
「じゃあまた!」
凜が手を振る。
「春高で!」
「いや、今日帰ったら隣にいるだろ」
「またそれ言う!」
最後までそんな会話をして、私たちは別れた。
駅へ向かって歩き始める。
凜はまだ新しい制服が嬉しいらしく、自分の袖を眺めていた。
「千尋」
「何?」
「高校生だね」
「そうだね」
「青嵐だね」
「うん」
「伊織いるね!」
「いるね」
「美緒も!」
「いるね」
口にすると、少しずつ実感が湧いてくる。
ついこの間まで、私たちは中学の後輩たちから「先輩」と呼ばれていた。
万尋のスマホには、私たちの制服姿を見て騒ぐ後輩たちのメッセージが今も届き続けているのだろう。
でも今日から。
青嵐では私たちが一番下だ。
九条先輩。
一ノ瀬先輩。
由梨先輩。
あの体育館には、私たちよりずっと強い人たちがいる。
数か月前には見学者として入った場所へ、今日は新1年生として入る。
「楽しみだね!」
凜が言った。
「うん」
私は新しい制服の袖を少しだけ撫でた。
「楽しみ」
幼馴染の1人とは別の学校へ進み、新しい仲間と同じ学校へ入る。
春高で見上げたセンターコートは、まだずっと遠い。
その前に。
まずは入学式。
そして、その先に。
青嵐女学院女子バレーボール部での高校生活が待っている。
今日から、本当に始まる。




