第五十七話 届く
合宿3日目の朝。
大広間へ下りてきた真帆は、席に着くなり盛大にため息をついた。
「おはようございます、真帆さま!」
「やめてください」
真正面から飛んできた彩葉の挨拶に、真帆は即答した。
「昨日だけじゃなかったんだ」
笑う。
「昨日だけで終わってほしかったです」
「でも御利益あったし」
「数学です」
真帆が真顔で言う。
「御利益じゃなくて勉強です」
その隣で凜がパンをかじりながら頷いた。
「真帆さま、私も今日ちょっと英語――」
「凜」
「はい」
「昨日までで十分です」
「冷たい」
「合宿最終日です」
「学生のバレー合宿だから?」
そう言うと、真帆は少しだけ嫌そうな顔をした。
「千尋まで覚えなくていいです」
朝食の席は、昨日までより少しだけ緩んでいた。
3校で過ごすのも今日が最後だ。午前と午後にいくつかゲームをして、夕方にはそれぞれ帰る予定になっている。
それでも、体育館に入れば空気はすぐに変わった。
春高本戦まで、もう長くない。
各校とも、試したいことはまだいくらでもある。
◇
ウォーミングアップが始まってしばらくしてからだった。
「真帆ちゃん」
紫峰の方から彩葉がやってきた。
真帆はストレッチをしながら顔を上げる。
「はい?」
「昨日、数学教えてくれたから」
彩葉はそこで少し考えた。
「ちょっとだけ教えてあげる」
「何をですか?」
真帆が首を傾げる。
彩葉はものすごく普通の顔で言った。
「真帆ちゃん、跳ぶの下手」
「…………」
思わず真帆を見る。
真帆も固まっていた。
「彩葉さん」
「何?」
「もう少し言い方ありません?」
「でも下手だよ?」
「…………はい」
否定はしなかった。
そこは真帆だった。
彩葉は自分の腕を上へ伸ばした。
「真帆ちゃん、180あるんでしょ?」
「はい」
「手も長いし」
彩葉が真帆の腕を見る。
「だったら、分かった瞬間に跳んで、手伸ばしちゃえば届くよ」
「……それだけですか?」
「それだけ」
彩葉は笑った。
「届いたら、打つ方は嫌だから」
真帆は少し黙った。
「ちゃんと読めてなくても?」
「うん」
「ブロックの形が完成してなくても?」
「うん」
「でも、それだと抜かれることも――」
「抜かれる時は抜かれるよ」
あっさりしていた。
「でも、手があるだけで嫌な時もあるし」
彩葉はもう一度、両腕を高く上げてみせる。
「真帆ちゃん、せっかく高いんだから使えばいいのに」
それだけ言って、彩葉は自分のコートへ戻っていった。
真帆はしばらく動かなかった。
「……雑だね」
「雑ですね」
真帆も頷いた。
でも、その目は彩葉ではなく、青嵐のコートを見ていた。
梓先輩がブロック練習に入っている。
相手が打つ。
梓先輩は、じっくり読んでから動いているわけではない。
見えた。
動いた。
跳んだ。
手を出した。
それだけに見えるくらい、動作が速い。
「……あ」
真帆が小さく声を漏らした。
「何?」
「梓先輩」
「うん」
「ずっと、そうしてるんですね」
私も見る。
梓先輩はまた横へ動く。
完璧に間に合っていない。
それでも跳ぶ。
伸ばした手の先がボールに触れる。
「ワンタッチ!」
後衛が拾う。
真帆は自分の手を見る。
「私、全部分かってから動こうとしてたかも」
「全部?」
「どこに上がるか。誰が打つか。どのコースに来るか」
真帆は昨日、自分が紫峰のミドルを追った時のように、一歩横へ出た。
「分かってから、ちゃんとそこまで行って、ちゃんと跳ぼうとしてた」
「うん」
「でも、梓先輩は違う」
もう一度コートを見る。
「気づいたら行ってる」
そして少し考えてから続ける。
「梓先輩より、私の方が高いですよね」
「うん」
「腕も、たぶん私の方が長い」
並んだ2人を見比べてみる。
確かにそうだった。
「じゃあ」
真帆が自分の両腕を伸ばした。
「全部揃うまで待たなくても、届くところがあるかもしれない」
昨日。
真帆は、見えてもそこまで行ける身体がまだないと言った。
でも。
身体が追いつくまで、何もできないわけではない。
今持っている高さと長さで、届く場所がある。
私にも、そのことが少し分かった。
◇
午前最後の青嵐対紫峰。
深見先生は、前日より少し早い段階で真帆を呼んだ。
「白石、榊原」
「はい」
今度は、真帆もすぐに返事をした。
萌々香先輩が笑う。
「今日は固まらないんだ」
「昨日やりましたから」
「じゃあ今日も見つけてきて」
「はい」
すれ違いざまに、萌々香先輩が小さく付け加える。
「失敗できるのが練習試合だからさ」
真帆は一度頷いて、コートへ入った。
私はコート脇で軽く足を動かしながら、その背中を見た。
昨日とは少し違う。
何が違うのかまでは分からない。
ただ、真帆は紫峰のセッターだけを見ていなかった。
自分の正面にいるミドルを見る。
そこからセッター。
さらにサイド。
紫峰のレシーブが返る。
例のミドルが動く。
真帆も一歩出た。
でも、昨日と同じようには追わなかった。
途中で止まる。
トスはライト。
真帆が戻ろうとする。
間に合わない。
彩葉が高い打点から振り抜く。
ブロックの外。
紫峰の得点。
真帆は少しだけ唇を噛んだ。
次。
今度は紫峰のミドルが中央へ入る。
真帆は動く。
一歩。
いつもなら、もう一度確認したかもしれない。
本当にAか。
セッターがそのまま使うのか。
でも。
真帆は止まらなかった。
跳んだ。
両腕を伸ばす。
トスはA。
紫峰のミドルが打つ。
真帆の手は、完全に正面へ入ってはいない。
それでも――。
ボールが、掌に当たった。
「ワンタッチ!」
大きく軌道が変わる。
後ろの美緒が余裕を持って入った。
「はい!」
怜奈先輩へ返る。
そこから沙耶先輩。
2枚ブロックの外側を使って、青嵐が1点を取った。
笛が鳴る。
コート脇から声が上がる。
「ナイスブロック!」
私も大きく手を叩いた。
昨日より、明らかに深く当たっていた。
指先じゃない。
掌。
真帆もそれが分かったらしい。
自分の手を一度見た。
「……届いた」
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
◇
その後も、全部がうまくいったわけではなかった。
読んだのに遅れる。
跳んだのに横を抜かれる。
逆に、早く動きすぎて囮に引っ張られることもあった。
それでも昨日とは違った。
迷っている間に終わる本数が減っていた。
真帆がとにかく手を出す。
触れる。
触れなくても、打つコースを狭める。
その後ろで美緒が拾う。
私も何度か、真帆のブロックの後ろに入った。
完全に止めてくれなくても、手があるだけで打球の範囲が減る。
確かに嫌だろうと思った。
彩葉が言っていた意味が少し分かる。
届く。
それだけで、相手は無視できなくなる。
セットが終わり、真帆がコート脇へ戻ってくる。
そのまま身体を冷やさないよう軽く足を動かし始めた。
「どうだった?」
萌々香先輩が聞く。
真帆は少し考えた。
「昨日よりは届きました」
「うん」
「でも、抜かれました」
「そりゃ抜かれるよ」
萌々香先輩が笑う。
「全部止められたら、もう日本代表だよ」
「そうですけど」
「手が出るようになっただけでも全然違うって」
そこへ梓先輩も戻ってくる。
「真帆」
「はい」
「さっきのA、良かったよ」
「でも、少し横が空きました」
「最初はいいんじゃない?」
梓先輩は軽く言った。
「まず届く方が大事。届くようになったら、そこから手の出し方変えればいいし」
「……はい」
「真帆は長いから、私より楽なところあると思うよ」
真帆が顔を上げる。
今度は皐月先輩が言った。
「でも、読めるところは読んだ方がいい」
「はい」
「早く跳べるようになったからって、真帆の強み捨てなくていいから」
「……はい」
真帆は2人を交互に見る。
梓先輩と皐月先輩。
言っていることは違う。
でも、どちらかが間違っているわけではない。
梓先輩は、見えた瞬間に動く。
皐月先輩は、読み合いの中で先に行く。
萌々香先輩は、その間で大きく崩れない。
真帆は少し黙った。
「全部違いますね」
「何が?」
「ブロックです」
真帆は3人を見る。
「同じミドルなのに、全然違う」
「今さら?」
梓先輩が笑った。
「はい。今さらです」
真帆も少し笑った。
「でも、それなら」
自分の手を見る。
「私も、誰かと同じじゃなくていいんですよね」
皐月先輩が頷いた。
「そりゃそうでしょ」
その時だった。
「榊原」
深見先生が呼んだ。
「はい」
真帆が顔を上げる。
深見先生はコートを見ながら言った。
「昨日より早いな」
「……少しだけです」
「その少しを続けろ」
「はい」
それだけだった。
深見先生はもう次のゲームの準備へ視線を戻している。
真帆は一度、自分の両手を見た。
昨日は。
見えても、届かなかった。
今日は。
全部が分かる前に跳んだ。
それでも届いた。
私は軽く足を動かしながら、真帆の横へ寄る。
「彩葉にお礼言う?」
「言います」
「真帆さまって呼ばれるよ」
「……それは嫌です」
◇
午後。
3日間の最後のゲームを終え、3校はそれぞれ帰り支度を始めていた。
紫峰の荷物が体育館の入口へ集められる。
真帆が彩葉を見つけて近づいた。
「彩葉さん」
「真帆さま!」
「やめてください」
「何?」
「今朝のことですけど」
「ああ」
真帆は少し頭を下げた。
「ありがとうございました」
「何が?」
「跳ぶ話です」
彩葉は一瞬考えた。
「あー」
どうやら本当に忘れかけていたらしい。
「届いた?」
「昨日よりは」
「じゃあよかった!」
それだけだった。
彩葉はすぐ笑って、真帆の肩を叩いた。
「春高でも会おうね、真帆ちゃん」
「はい」
「その時はもっと届く?」
真帆は少し考えた。
それから、はっきり頷いた。
「届くようにします」
「楽しみ!」
彩葉が手を振って紫峰の選手たちのところへ戻っていく。
真帆はその背中を見送ったあと、自分の手を高く伸ばした。
180cm。
長い腕。
今まで持っていたのに、使い方を知らなかったもの。
私はその横で、同じように上を見た。
真帆の手は、思っていたよりずっと高いところまで届いていた。




