第五十六話 エースへの教え方
合宿2日目の夕食が終わると、3校の選手たちはまとめて宿舎の大広間へ追いやられた。
正確には、追いやられたわけではない。
ストレッチとケアを終えたあとは自由時間。ただし、自主練は禁止。
体育館へ戻ろうものなら、昨日と同じように由梨先輩が待っている。
その事実を身をもって知った沙耶先輩と凜は、今日は最初から諦めていた。
「暇だー」
畳の上に転がった凜が、天井に向かって声を上げる。
「宿題すれば?」
そう言うと、凜は身体を起こした。
「合宿に来てまで?」
「学生だからね」
「バレー合宿だよ?」
「学生のバレー合宿」
「千尋、冷たい」
そう言いながらも、凜は渋々鞄を引き寄せた。
青嵐の選手たちは試験期間を終えたばかりだったが、授業は当然続いている。合宿中だからと宿題がなくなるわけでもない。
椿山はむしろ当然のように教科書を広げ始めていた。
栞や結子、多恵子たちが机を囲み、杏奈はすでに英語の課題を進めている。成美先輩だけは教科書を開いたまま、しばらく動かなかった。
「成美先輩」
「何?」
「さっきから同じページです」
結子が言う。
「読んでるの」
「3分くらい1行も進んでないです」
「熟読してるの!」
「成ちゃん、ファイト」
栞が言った。
「失敗してないのに成ちゃんって呼ぶな!」
椿山の1年生たちが笑う。
紫峰もそれぞれ課題を出し始めていた。
その中で、青嵐の机の真ん中に見慣れた紙の束が置かれていることに気づいた。
「……真帆、それ持ってきたんだ」
「はい」
真帆が当然のように答える。
表紙には大きく、
『青嵐女学院女子バレーボール部・赤点回避プリント』
と書かれていた。
「なんで合宿に?」
「沙耶先輩が数学の分も持ってきてって」
「沙耶先輩」
見ると、当の本人は目を逸らした。
「念のため」
「何の念ですか」
「全国前に赤点取ったら困るでしょ」
「それはそうですけど」
以前なら「終わったテストを持っていても点数は増えない」と言っていた人が、今では自主的に赤点回避プリントを持ち歩いている。
人は変わるものだ。
「それ何?」
よく通る声がして、顔を上げた。
彩葉だった。
青嵐の机の横にしゃがみ込み、表紙を読んでいる。
「赤点回避プリント?」
「うちのバレー部で作ったやつ」
「そんなのあるの?」
「あります」
真帆が答えた。
「数学とか英語を、分かりやすくしたものです」
「へえ」
彩葉が1枚めくる。
その顔が、次第に真剣になった。
「……真帆ちゃん」
「はい?」
「これ、分かる?」
「どれですか?」
真帆が問題を見る。
難しいものではなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
「ここまで何が分かってます?」
真帆が聞く。
彩葉は問題を見る。
もう一度見る。
「……分からない」
「どこからですか?」
「それが分からない」
私と伊織が同時に顔を上げた。
その横で、凜がすっと違う方向を向く。
美緒も静かに視線を逸らした。
「出た」
思わず言う。
「まただ」
伊織が続いた。
「危ないやつ」
美緒が小さく呟く。
「ちょっと待って」
彩葉が私たちを見る。
「何、その反応」
「以前、同じこと言った人が2人いるから」
凜と美緒を見る。
「仲間!」
凜が急に元気になって手を上げた。
「嬉しくない!」
彩葉が即答した。
真帆だけは、すでに問題の説明を始めていた。
「ここは同じ種類の文字をまとめるんです。たとえば2xと3xなら――」
「うん」
「合わせて5xです」
「うん」
「じゃあ、これは?」
真帆が似た問題を指す。
彩葉が考える。
「……5?」
「文字は?」
「…………」
真帆の動きが止まった。
伊織と目が合う。
見覚えがある。
「真帆」
「はい」
「大丈夫?」
「まだ大丈夫です」
言い方がもう少しだけ危なかった。
◇
10分後。
真帆は大丈夫ではなさそうだった。
「ですから、同じ文字がついているもの同士を――」
「うん」
「まとめて――」
「うん」
「彩葉さん」
「何?」
「分かってませんよね?」
「……うん」
「ですよね」
真帆が静かに息を吐く。
その隣では、私たちが妙な懐かしさを感じながら見守っていた。
「数学、苦手なんだ」
聞くと、彩葉は素直に頷いた。
「苦手」
「他は?」
「普通」
「瑞穂先輩と同じじゃん」
少し離れたところで数学をやっていた瑞穂先輩が顔を上げた。
「私を巻き込まないで」
「でも瑞穂先輩も数学だけ平均以下ですよね」
「今は平均超えたから」
そこだけは誇らしげだった。
真帆はもう一度、彩葉の問題を見る。
説明の仕方を変える。
式を分解する。
図にする。
それでも、いまひとつ届かない。
彩葉は決して聞いていないわけではなかった。むしろ真剣に聞いている。
なのに、次の問題になった途端に振り出しへ戻る。
「なんでだろう……」
真帆が呟いた。
その時、彩葉がふと顔を上げた。
「遥先輩、これ分かります?」
紫峰の3年生たちがいる方へ声を掛ける。
呼ばれた葛城さんが顔を上げた。
「何が?」
「数学」
「内容による」
「これ」
彩葉が問題集を持ち上げる。
葛城さんは立ち上がることもなく、少し離れた場所から問題を見る。
「それなら、この括弧から先に外せばいいだろ」
「ああ……」
彩葉が問題を見る。
「……分かんない」
「なんでだよ」
葛城さんが呆れた声を出した。
そのやり取りを見ていた真帆が、ぴたりと止まった。
分かった。
何か考えている時の顔だ。
「真帆?」
「……なるほど」
嫌な予感がした。
「何が?」
真帆はゆっくり顔を上げた。
「エースへの教え方が分かりました」
「え?」
聞き返す。
少し離れたところで沙耶先輩と成美先輩も同時に顔を上げた。
「「一緒にしないで!!」」
なぜか2人の声が綺麗に重なった。
「まだ何も言ってませんけど」
「その言い方で分かるよ!」
沙耶先輩が抗議する。
「嫌な予感しかしない!」
成美先輩も続いた。
栞が教科書から顔を上げる。
「成ちゃん3人、たぶん、うるさい」
「栞!?」
「確かに」
結子まで頷いた。
「結子まで!?」
怜奈先輩は少し考えてから言った。
「沙耶が3人いたら、誰がトスを打つかで喧嘩しそうね」
「喧嘩しないよ!」
「『私に上げて!』『次私!』『そっちじゃなくて私!』」
沙耶先輩が黙った。
「……するかも」
「するんだ」
笑ってしまった。
「ちょっと! 今は彩葉の勉強でしょ!」
「そうでした」
真帆は何事もなかったように彩葉へ向き直った。
そしてノートに書いた。
『葛城先輩がx人います。』
「待て」
今度は葛城さんの声が飛んだ。
「なんで私なんだ」
「必要なので」
「何に?」
「数学です」
「数学で私を増やすな」
彩葉は真剣にノートを見ていた。
「遥先輩がx人」
「はい」
真帆がその下へ続ける。
『さらに、同じ人数の葛城先輩が2組加わりました。』
「彩葉さん、全部で?」
彩葉が考える。
「遥先輩が……3倍?」
「式では?」
「3x!」
「正解です」
「あ!」
彩葉の顔が明るくなった。
「分かった!」
「なんでだよ」
葛城さんだけが納得していない。
真帆は次の問題へ進む。
「では葛城先輩が3人います」
「もう3人になったのか、私は」
「3人の葛城先輩が、それぞれ5本ずつスパイクを決めました。全部で何本でしょう」
「15本!」
「正解です」
「分かる!」
「私は分からない」
葛城さんが額を押さえた。
「なぜ私が3人必要なんだ」
「遥先輩だから分かるんです!」
彩葉が力強く言った。
「そうか。それはよかったな」
全然よくなさそうだった。
◇
そこから、彩葉の数学は驚くほど進んだ。
「葛城先輩が2x人いて、その半分が前衛なら?」
「x人!」
「正解です」
「じゃあ、遥先輩が――」
「もう名前だけ貸す。いちいち私を見るな」
葛城さんが諦めた。
その隣では紫峰の選手たちが笑っている。
結子もいつの間にか彩葉の近くへ来ていた。
「さっきと同じ式じゃん」
「違うよ」
「どこが?」
「さっきは遥先輩がいなかった」
「式には今もいないよ」
「頭の中にはいる」
結子が少し黙った。
「……それで分かるならいいんじゃない」
「でしょ?」
「私は何も納得してないけど」
葛城さんの声が飛んでくる。
その少し後、紫峰の1年生の1人が結子へ問題を見せに来た。
けれど彩葉のように隣へ座るわけではなく、少し距離を残したまま「これ、分かる?」と聞く。
「ここ?」
「うん」
「先にこっち」
「……ありがとう」
「うん」
会話は普通だ。
それでも、彩葉が結子の肩越しに問題を覗き込んでいる様子と比べると、やはり何かが違う。
少しだけ気になった。
けれど、その違和感もすぐに別の声で吹き飛んだ。
「真帆ちゃん!」
彩葉だった。
「はい?」
「できた!」
問題集を差し出す。
真帆が採点する。
1問。
2問。
3問。
「全部合ってます」
「やった!」
彩葉が大きく拳を握った。
「真帆ちゃんすごい!」
「私は説明しただけですよ」
「でも今まで分かんなかった!」
「葛城先輩のおかげもあります」
「私は増やされただけだ」
葛城さんの指摘は無視された。
彩葉は次のページを開く。
「真帆ちゃん、これも!」
「はい」
さらに10分。
「真帆ちゃん、こっちは?」
「これは――」
さらに15分。
「真帆ちゃん!」
「今度は何ですか?」
「分かった!」
「よかったですね」
そして、しばらくして。
「真帆さま!」
真帆の手が止まった。
私も止まった。
伊織がゆっくり顔を上げる。
沙耶先輩と怜奈先輩も振り向いた。
「……今、何て言いました?」
真帆が聞く。
「真帆さま」
彩葉が何の迷いもなく答えた。
「なんでですか!?」
「だって分かるようになったから!」
「普通に真帆でいいです!」
「真帆さま!」
「話聞いてます!?」
青嵐の2、3年生たちが一斉に笑い出した。
「やっぱり他校でもそうなるんだ」
萌々香先輩が言う。
「何で皆さん納得してるんですか!」
真帆が振り向く。
沙耶先輩がしみじみ頷いた。
「私たちも通った道だから」
「通ってません! 勝手に拝み始めただけです!」
「御利益あったし」
「ありません!」
「数学上がった」
「勉強したからです!」
その会話を聞いていた成美先輩が、面白そうに真帆を見る。
「真帆さま?」
「成美先輩までやめてください!」
栞も呟く。
「真帆さま」
「栞!」
「言ってみただけ」
「遊ばないでください!」
結子は真帆と彩葉を交互に見る。
「御利益あるの?」
「ないです!」
「あるよ!」
彩葉が即答する。
「彩葉さんは黙っててください!」
とうとう真帆が頭を抱えた。
その横では、葛城さんが自分の問題集を閉じながら、小さくため息をついている。
「私は今日、何人まで増えたんだ」
「たぶん10人以上」
彩葉が答える。
「数えるな」
「でも遥先輩のおかげで数学分かった」
「……それなら、まあいい」
葛城さんはそう言って、少しだけ笑った。
私も笑いながら、机の上を見る。
真帆の前には青嵐の赤点回避プリント。
その周りには、いつの間にか3校の選手が集まっていた。
始まりは凜と美緒だった。
その次は青嵐の先輩たち。
そして今度は、紫峰の全日本ユースのエースまで救われている。
「真帆」
「何ですか?」
少し疲れた声が返ってきた。
「また信者増えたね」
「増やしてません!」
「真帆さま、次これ!」
「彩葉さん!」
大広間に真帆の声が響いた。
春高前の3校合宿2日目。
藤崎彩葉、183cm、全日本ユース。
その夜。
青嵐の1年生ミドルを、なぜか拝み始めた。




