第五十五話 もう一歩
午後の紫峰戦が始まっても、真帆は午前中と変わらずコートを見続けていた。
コート脇で身体を冷やさないよう軽く足を動かしながら、それでも視線だけはほとんど紫峰から外れない。
むしろ、さっきより忙しそうだった。
紫峰のセッターの手元を見る。そこからミドルの助走へ視線を移し、サイドへトスが上がれば今度はブロックの位置を見る。ノートを取る暇もないらしく、時々指先だけを動かして何かを数えていた。
私には、もう真帆が何を見ているのか半分も分からなかった。
ただ、午前中に見つけたサインが偶然ではなかったことだけは分かる。
カットが返った瞬間、紫峰のセッターが腰の横で2本指を出せばAクイック。3本ならBクイック。少なくとも、梓先輩とネットを挟んで当たっている側のミドルとは、そのやり取りを使っていた。
情報を得た梓先輩のブロックは、午前中の途中から目に見えて合うようになっている。
今のセットでも、紫峰のミドルがBへ流れたところへしっかり寄り、コースを狭めた。打球はブロックには当たらなかったものの、美緒の正面へ飛ぶ。
「ナイスレシーブ!」
怜奈先輩がそのボールを沙耶先輩へ送り、青嵐が1点を取った。
16対15。
まだ僅差だった。
昨日からずっとそうだ。紫峰は遠くない。青嵐が続けて2点取れば追いつけるし、セットだって取れる。それでも1日の終わりに数えると、少しだけ紫峰の方が上にいる。
真帆は得点板を見ていなかった。
また紫峰のセッターを見ている。
「真帆、目疲れない?」
聞くと、真帆は軽く足を動かしたまま、コートから目を離さずに答えた。
「ちょっと疲れます」
「休みなよ」
「でも、今のローテもう少し見たいです」
即答だった。
「好きだねえ」
「面白いので」
真帆はそう言って、また紫峰の動きを追った。
その少し後だった。
「白石、榊原」
深見先生の声が飛んだ。
萌々香先輩はすぐに返事をした。
「はい」
真帆は反応しなかった。
自分が呼ばれたと思っていないらしい。
「榊原」
「……はい?」
ようやく振り向く。
「交代。入れ」
「えっ」
真帆の口が開いた。
私も思わず深見先生を見る。
真帆は春高東京都予選の12人に入っていない。今回の合宿でも、これまでコートに入ったのは、相手も控え選手を使っている時だけだった。
高さはある。見る力もある。
でも、レギュラーたちの速さや技術の中へ入るには、まだ足りないものが多い。
真帆自身も、それは分かっている。
それが今、紫峰のレギュラーを相手に。
「早くしろ」
「は、はい!」
真帆はすぐに交代の準備へ動いた。
その顔には、さっきまで紫峰を観察していた時とは違う緊張が浮かんでいる。
「え、私、何すれば――」
交代ゾーンへ向かいながら、小さな声で漏らした。
ちょうどコートから出てくる萌々香先輩が、それを聞いたらしい。
「失敗できるのが練習試合だからさ」
笑っていた。
「え?」
「公式戦でいきなりやるよりいいでしょ?」
萌々香先輩は真帆の肩を軽く叩いた。
それから、すれ違いざまに言う。
「じゃ、弱点見つけてよ、真帆」
真帆が止まりかけた。
「……弱点」
「そう」
萌々香先輩が笑う。
「外からじゃ見えないんでしょ?」
昨日、自分で言った言葉だった。
真帆の顔から、少しだけ戸惑いが消えた。
「はい」
「じゃあ見てきて」
「はい!」
今度の返事は強かった。
その変化を見ながら、なんとなく納得した。
深見先生が真帆に求めているのも、たぶん同じだ。
萌々香先輩みたいにブロックしろ。
皐月先輩みたいに読め。
梓先輩みたいに速く反応しろ。
そういうことではない。
真帆が今、何を見つけられるのか。
それを試すために入れる。
コートへ入った真帆も、それが分かったようだった。
紫峰の選手を見る目が変わっている。
◇
最初の1本は、何もできなかった。
紫峰のサーブレシーブが返る。
真帆はセッターの手を見ようとした。
けれど、ネット際に立つと景色が全然違った。
紫峰のミドルが目の前にいる。
セッターとの間に選手の身体が重なる。
コートの外からなら見えていた腰の横が、真帆の位置からは隠れた。
そのままAクイック。
真帆の反応は遅れた。
ブロックへ跳ぶ頃には、もうボールが手の横を抜けている。
紫峰の得点。
16対16。
笛が鳴ったあと、真帆は少し悔しそうな顔をした。
私には分かった。
見えなかったのだ。
外からなら見えていたものが、中に入った途端に消えた。
それでも真帆はすぐに次の位置へついた。
セッターだけを見なくなった。
今度は、自分の正面にいる紫峰のミドルを見ている。
次のサーブ。
青嵐がサイドアウトを取り返す。
17対16。
そして次のラリーで、また紫峰のカットがセッターへ返った。
真帆がわずかに動いた。
私には、その理由が分からない。
まだトスは上がっていない。
セッターの手元も、今度は完全に紫峰の選手の身体で隠れている。
なのに、真帆は一歩だけ外へ動いた。
紫峰のミドルも動き出す。
Bクイック。
「真帆!」
皐月先輩の声がコート脇から飛んだ。
真帆は追う。
一歩。
もう一歩。
間に合う。
いや。
ほんの少し、遅い。
紫峰のミドルが跳び、腕を振った。
真帆も跳ぶ。
ブロックの形を作った手の、いちばん外側。
指先に、ボールが触れた。
「ワンタッチ!」
真帆自身の声が響く。
打球の勢いが少しだけ変わった。
後ろにいた美緒が、その変化へすぐ反応する。
「はい!」
綺麗に上がった。
怜奈先輩がボールの下へ入る。
真帆もブロックから着地すると、すぐに中央で速攻へ入り直した。ライトもレフトも助走へ入る。
トスは凜。
「もってこーい!」
高い打点から、2枚ブロックの外側へ振り抜く。
ボールが紫峰コートへ落ちた。
18対16。
笛が鳴る。
「ナイスブロック!」
コート脇から声が飛んだ。
私も軽く足を動かしながら、大きく手を叩いた。
真帆が触ったから、美緒が余裕を持って拾えた。
あれはちゃんと、ブロックとして機能していた。
でも真帆は、点を取った凜の方を見ていなかった。
ネットの向こう。
紫峰のミドルを見ている。
正確には、その足元だった。
「……見つけた」
小さな声だった。
でも、私には聞こえた。
◇
次のラリーが終わったところで、深見先生が声を掛けた。
「白石、戻れ」
「はい!」
コート脇で身体を動かしていた萌々香先輩が、すぐに交代へ向かう。
本当に一度だけだった。
真帆はコートを出る。
すれ違いざま、萌々香先輩がすぐに聞いた。
「見つけた?」
「はい」
真帆は即答した。
「何?」
「たぶん、Bに入る時だけ、サインを見る前の最初の一歩が外へ流れます」
萌々香先輩が目を丸くする。
「足?」
「はい。外からだとセッターの指ばかり見てたので分からなかったんですけど、中に入ると真正面から見えました」
皐月先輩も軽く足を動かしながら近くへ寄ってきた。
「だからさっき、トスが上がる前に動いたの?」
「はい」
「すごいじゃん」
萌々香先輩が笑った。
「いきなりワンタッチまで取ったし」
真帆は褒められているのに、あまり嬉しそうではなかった。
コート脇へ戻ると、また身体を冷やさないよう足を動かしながら、自分の右手を見る。
ボールに触れた指先を、じっと見ている。
「真帆?」
呼ぶと、真帆がこちらを見た。
「……見えてたんです」
「うん?」
「Bに来るって、分かってました」
真帆はもう一度コートを見た。
「一歩目も見えたし、さっきより早く動けました」
「じゃあ合ってたじゃん」
「でも」
真帆は首を振った。
「あれしか触れませんでした」
自分の指先を示す。
「ほんの少しです。指の先だけ」
「でもワンチになったよ?」
「はい。でも、もう一歩早く入れてたら、もっとちゃんと手を出せました」
私は何も言わなかった。
真帆の顔を見ていた。
悔しそうだった。
けれど、落ち込んではいない。
何かを確認している顔だった。
「前から思ってました」
真帆が言う。
「見えてるのに、身体が追いつかないことが多いって」
シルバーウィークの合宿でもそうだった。
相手がどこへ打つか分かっている。
どこへ跳べばいいかも分かる。
それなのに、一歩が遅れて間に合わない。
「今日は、もっとはっきり分かりました」
真帆は自分の足へ視線を落とす。
「私、見えても、そこまで行ける身体がまだないです」
萌々香先輩も、皐月先輩も、身体を動かしながら黙って聞いていた。
真帆は少し考えてから顔を上げた。
「……あと一歩」
「一歩?」
聞き返す。
「はい」
真帆は頷いた。
「もう一歩、これが届くようになりたいです」
もう一度、紫峰のミドルを見る。
「見えた場所まで、ちゃんと行けるように」
その言葉を聞いて、少しだけ笑った。
真帆は弱点を見つけてこいと言われてコートへ入った。
そして、本当に見つけて帰ってきた。
紫峰の弱点と。
自分自身の弱点を。




