第五十四話 見えるもの
合宿2日目の午前、青嵐はまた紫峰とコートを挟んで向かい合っていた。
昨日は何度もセットを取った。それでも最後に数えれば、紫峰の方が一つ多かった。椿山も同じだった。
通じないわけではない。むしろ、通じるものは増えている。
だからこそ、あと一歩が気になった。
その一歩が何なのか。
私は後衛3ローテを終えて凜と交代し、ベンチへ戻ってからもコートを見続けていた。
そこで、今さらのように気づいた。
「……梓先輩、また最初から入ってる」
紫峰戦では、この合宿に入ってから梓先輩がスターティングメンバーに入ることが増えていた。
もちろん、皐月先輩が出なくなったわけではない。セットによって入れ替わるし、椿山との試合ではむしろ皐月先輩が最初からコートに立つことが多い。
けれど、紫峰を相手にした時は明らかに梓先輩の割合が高かった。
タオルを取ろうとして、すぐ隣にいた皐月先輩を見る。
皐月先輩は腕を組んで、じっとコートを見ていた。
紫峰のレシーブがセッターへ返る。最後までどこへ上がるか分かりにくいところから、中央へ速いトスが上がった。
梓先輩の反応は速かった。
紫峰のミドルが入った方向へ一気に寄り、完全には塞げなくても指先を出す。打球の勢いが弱まり、後ろの美緒が難なく拾った。
「ワンタッチ!」
そこから怜奈先輩が切り返し、最後は沙耶先輩がブロックアウトを取った。
ベンチから歓声が上がる。
皐月先輩も普通に手を叩いていた。
ただ、その視線はずっと梓先輩を追っている。
「最近、紫峰相手だと梓先輩が最初から入ること多いですよね」
そう言うと、皐月先輩はすぐに頷いた。
「うん」
「やっぱり、ブロックですか?」
「それもあるけど」
皐月先輩は少し考えてから、コートを見たまま続けた。
「梓の方が反射が早い」
「反射?」
「見えてから動くのが速い。私よりね」
紫峰がもう一度攻撃を組み立てる。
今度は中央を使うように見せて、ライト。
梓先輩は完全に先回りしていたわけではない。それでも、トスが出た瞬間から外へ向かう1歩が速かった。
「あと、今は攻撃力も梓の方が高い」
皐月先輩の声に、変な強がりはなかった。
「だから紫峰相手だと梓が出ることが増えたんだと思う」
「でも――」
口を開いた、その時だった。
「でも、椿山相手なら皐月先輩ですよね」
先に言ったのは真帆だった。
いつから話を聞いていたのか、私の反対側でずっとコートを見ている。
皐月先輩が少しだけ身体を真帆の方へ向けた。
「なんで?」
「紫峰のセッターって、どこへ上げるか最後まで分かりにくいです」
真帆は視線をコートから外さなかった。
「どちらかというと、伊織に近いと思います。相手に一回『こっちだ』と思わせてから、違うところを使う感じがあるので」
「うん」
「そういう相手だと、先に読み切ろうとするより、最後に見えたものへ反応できる梓先輩の方が相性がいいんだと思います」
私も紫峰の攻撃を見る。
確かにそうだった。
紫峰のセッターは、トスを上げる瞬間まで選択肢を残しているように見える。どこか一か所を決め打ちしようとすると、その逆を使われる。
「でも、椿山は違います」
真帆が続けた。
「栞や結子だけじゃなくて、成美先輩も使うし、同じ選手でも入り方を変えてきます。どこへ上げるかというより、誰をどう動かして、相手に何を見せるかで組み立ててくるので」
「読み合いになる」
皐月先輩が言った。
「はい。そういう時のブロックは、皐月先輩の方が強いです」
「ああ……」
私にもそこで腑に落ちた。
「だから椿山だと皐月先輩が多いんだ」
「たぶんですけど」
真帆がようやく2人を見る。
「深見先生も、そう考えてるんじゃないかなって」
皐月先輩は少し黙り、それから小さく笑った。
「真帆、よく見てるね」
「私もミドルなので」
「そっか」
皐月先輩はまたコートへ顔を戻した。
「じゃあ、読み合いでは絶対負けられないな」
自分の出番が減っている理由を聞いた直後なのに、皐月先輩の口から出てきたのはそれだった。
梓先輩が強くなれば、自分も別のところを強くする。
なんとなく、その横顔を見ていた。
誰かが伸びたら、誰かが押し出される。
それで終わるんじゃなくて、押し出された側もまた違う場所から戻ってくる。
青嵐はずっと、そうやって強くなってきたのかもしれない。
◇
それからしばらくして、真帆が妙なことを始めた。
「……右」
小さく呟く。
紫峰のセッターがライトへ上げた。
次のレシーブ。
「左」
今度はレフト。
さらに次。
「……真ん中」
速攻。
隣を見る。
「真帆、何してるの?」
「ちょっと待ってください」
真帆はそれだけ答えて、紫峰のコートから目を離さない。
ちょうどその時、美緒がリベロとしてコートへ入っていたため、萌々香先輩もベンチ側に戻ってきた。
「何見てるの?」
萌々香先輩が真帆の隣へ座る。
「まだ分かりません」
「分からないもの見てるの?」
「はい」
「真帆ちゃん、たまにすごいこと言うね」
真帆は返事もしなかった。
また紫峰へサーブが入る。
カットがセッターの正面へ返った。
「……うん、右……いや」
真帆の眉が少し寄る。
それから突然、
「ああ、なるほど」
と言った。
「何が?」
私が聞く。
皐月先輩も同時に真帆を見る。
「紫峰のセッター、返球の軌道を見てからミドルに合図を出してるんですね」
「合図?」
「はい。たぶん、AかBかを」
真帆が少し身を乗り出す。
「次、手を見てください」
紫峰のサーブカットが始まる。
ボールが上がる。
私はいつものようにボールを追いかけそうになるのを我慢して、セッターを見る。
セッターが落下点へ入る途中、一瞬だけ左手を腰の横へ下げた。
「今」
真帆が言った。
指が2本。
ほんの一瞬、ピースサインのような形が見えた。
「……2?」
「はい」
その直後、紫峰のミドルがセッターのすぐ前へ入る。
Aクイック。
トスもそこへ上がった。
「「えっ!?」」
私と皐月先輩の声が重なった。
ラリーが終わってから、皐月先輩がすぐ真帆を見る。
「待って。なんでそんなところ見てたの?」
「トスだけ見ても分からなかったので」
「だからって指を見る!?」
「他に何かないかなと思って」
萌々香先輩が横で笑っている。
「皐月、声大きい」
「萌々香先輩、今の見えました?」
「全然」
「ですよね!?」
真帆はもう次の1本を見ていた。
「もう一回確認したいです」
カットが上がる。
セッターが移動する。
また、腰の横で指が動いた。
「3」
真帆が呟いた。
「3本?」
私にも今度は見えた。
紫峰のミドルがセッターから少し離れた場所へ入る。
「Bクイック」
皐月先輩が言う。
その通りだった。
「……ほんとだ」
萌々香先輩まで前へ身を乗り出す。
私には、言われなければ絶対に気づけなかったと思う。
レシーブが上がったら、普通はボールを見る。セッターを見るとしても、身体の向きやトスを追う。
その腰の横で一瞬動く指なんて、どうしてそこまで見られるのか。
「最初から決めてるわけじゃないの?」
聞くと、真帆は少し考えた。
「全部は分かりません。でも、少なくとも今、梓先輩と当たってるミドルとは、カットの軌道を見てからAかBかを変えてるみたいです」
「あ」
皐月先輩がコートを見る。
「だから最後まで分かりにくいんだ」
「たぶん。ミドルの入りだけ読んでると、そのあとで変わるので」
「梓はそこを読んでないんだね」
「はい。最後に動いた方へ反応してるんだと思います」
だから梓先輩の速さが効く。
皐月先輩も同じことを考えたらしく、目が少し変わった。
「じゃあ、サインが見えれば私でも1歩早く行ける」
「はい」
「真帆、次も教えて」
「私もまだ全部分かってません」
「じゃあ一緒に見る」
「私も混ぜて」
萌々香先輩が身体を少し寄せる。
「私も」
私も言った。
皐月先輩が横を見る。
「千尋、ミドルじゃないでしょ」
「見るくらいいいじゃないですか」
「まあいいけど」
4人で紫峰のセッターを見始めた。
◇
ところが、ローテーションが進むと真帆が急に首を傾げた。
「……出してない」
「何が?」
「サインです」
今度は、萌々香先輩とネットを挟んで当たる側のミドルが前衛へ上がっていた。
紫峰のカットが返る。
セッターの手は動かない。
それでもミドルはAへ入った。
次の1本も、サインらしい動きは見えない。
「ほんとだ」
皐月先輩が言う。
「2も3もない」
「はい」
真帆はもう何本か見てから、ゆっくり頷いた。
「さっきのサイン、あのミドルにしか使ってないみたいです」
「同じミドルなのに?」
私が聞く。
「同じポジションでも、同じ使い方をする必要はないんじゃないですか?」
真帆は当然のように答えた。
「さっきの人は、カットを見て最後にAかBかを変えた方が強い。こっちの人は、最初から決めた入り方の方がやりやすいのかもしれません」
「……なるほどね」
萌々香先輩が感心したように言う。
「紫峰も、ミドル2人で全然違うんだ」
「青嵐もそうですし」
真帆が皐月先輩を見る。
「皐月先輩と梓先輩、違いますから」
同じミドルだから、同じことをするわけじゃない。
私にも、それはよく分かる。
皐月先輩には皐月先輩の強さがあり、梓先輩には梓先輩の強さがある。それを同じ形へ押し込むより、強いところを使った方がいい。
紫峰も同じことをしているのだ。
「面白いですね」
真帆が言った。
本当に楽しそうな顔だった。
◇
ラリーが切れたところで、皐月先輩がすぐに梓先輩を呼んだ。
「梓。さっきのミドル、セッターが指でサイン出してる。2ならA、3ならBっぽい」
「え!?」
「まだ全部じゃないけど、見てみて」
「……了解。見てみる」
短いやり取りだけで、梓先輩はすぐにコートへ戻った。
そこから梓先輩のブロックが、目に見えて変わった。
紫峰のカットが上がる。
指が2本。
「A」
ベンチで皐月先輩が呟く。
梓先輩はそれまでより早く中央へ寄った。
完全なシャットではない。それでも正面へ手を出せたことで打球の勢いを殺し、美緒がその後ろで拾う。
次は3本。
B。
今度は外へ出る最初の1歩が早かった。紫峰のミドルが振り抜いたボールは梓先輩の外側の手に触れ、コート中央へ高く上がった。
「ナイスワンタッチ!」
青嵐が切り返す。
また1本。
また触る。
さっきまでと梓先輩自身が別人になったわけではない。
反応の速さも、ジャンプの高さも、何も変わっていない。
ただ、動き出すのがほんの少し早くなった。
それだけで、今まで届かなかったボールへ手が届く。
「……急に合うようになった」
そう言うと、皐月先輩が答えた。
「もともと梓は届くから」
「1歩早くなれば、その分ちゃんと手が出る」
その声に嫌な響きはなかった。
むしろ、皐月先輩自身もその情報を自分ならどう使うか考えているように見える。
一方で真帆は、サインを見つけて満足するどころか、まだ紫峰を見続けていた。
セッターの指。
ミドルの助走。
顔の向き。
今度は何を見ているのか、私にはもう分からない。
「真帆」
「はい?」
「まだ何か探してるの?」
「はい」
「サイン見つけたじゃん」
「でも、外からだと見えないところもあります」
「見えない?」
「選手が重なるとセッターの手が隠れますし、ミドルがどこを見てるのかも分かりにくいです。助走も、横から見るのと正面から見るのでは違うので」
真帆は少し首を傾けた。
「コートの中なら、見える角度が違うんですよね」
萌々香先輩がその言葉を聞いて、真帆を見た。
「入りたいの?」
「え?」
真帆は少し考える。
どうやら、自分でもそういう意味で言ったつもりではなかったらしい。
「……試合に出られれば、もう少し見えるんでしょうね」
ただ純粋に、もっと見たい。
私には、そんな言い方に聞こえた。
「へえ」
萌々香先輩が小さく笑った。
それから何気ない様子で立ち上がり、深見先生のところへ歩いていく。
「先生、ちょっと」
何かを耳打ちした。
私の位置からは、内容までは聞こえない。
深見先生が一度、萌々香先輩を見る。
次に、その視線がこちらへ動いた。
真帆へ止まる。
真帆本人はまだ紫峰のコートに夢中で、まったく気づいていなかった。
深見先生はそんな真帆をしばらく見て。
ふっと、口元を上げた。




